表紙
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1973/06

 














1973/06/01 ミツビシのボールペン
 














1973/06/01 ペン|シェイク
 














1973/06/01 まん中のやじるし
 
















1973/06/01 娘に性欲を感じる??
 
















1973/06/02 ちょっとねるつもりで
 














1973/06/02 足
 














1973/06/02 なるべく多くのおさらをのせるためか?
 














1973/06/03 シュッとやるの
 














1973/06/03 A流 B流 C流
 














1973/06/03 ハサミ将棋
 














1973/06/04 *
 














1973/06/04 フクセイのページ
 














1973/06/04 しゅうゆ(しょうゆ)
 














1973/06/05 ■■コ ■■リ
 














1973/06/05 チチの大きさ
 














1973/06/06 清書をだ。
 














1973/06/06 一万円サツのしょうとく太子
 














1973/06/06 ↓
 














1973/06/07 バカラシ
 


















1973/06/07 若さとは明るさではないでしょうか。
 














1973/06/07 わるだけで、神経がたかぶり、
 














1973/06/08 ボールペンの中にカミをまく
 














1973/06/08 目礼とはどういうものか?
 
















1973/06/08 席をかわりたてなので、
 




















1973/06/10 という手の型と和服
 














1973/06/11 重力発成装置
 














1973/06/11 男の○と女の○の類似
 














1973/06/11 自分がきれいに思える。
 














1973/06/12 なぜ「子」なのかしら?
 














1973/06/12 である どっちとも でない
 














1973/06/12 W?
 














1973/06/12 万能円盤
 














1973/06/12 ここが最も美しい
 














1973/06/13 ruby
 














1973/06/13 へなんふうに
 
















1973/06/13 前へならえ
 


















1973/06/14 すこしゆるい人
 
















1973/06/15 スズムシの入れもののにおい
 














1973/06/15 でてくるか、でてくるのではという不安がでてくる
 














1973/06/15 上のしきい
 














1973/06/16 メガネを学生服のうちぽけっとに
 














1973/06/18 こんな、ネチネチと予習や復習をやる生活なら、いっそ
 














1973/06/17 むだな勝ち星はなかったのだよ。
 
















1973/06/18 ねむくてねむくて・・・ねちゃいそう。
 














1973/06/18 まさか、女子が、ぼくに、
 














1973/06/20 日にちがかわったのに、それにきづかず、
 














1973/06/20 おまえもっとノートの字を小さくしな、
 
















1973/06/21 わかりましねえだ。
 














1973/06/22 何も理解していないと気づいてちょっと、
 














1973/06/23 ほとんどを殆んどと書くとは、ほとんどしらなかった。
 














1973/06/24 つねにまちがえて覚えるという勉強態度
 














1973/06/25 ぼくはこのごろよく、「おわりぬ」という。
 














1973/06/27 サンカク
 














1973/06/27 カーカップのやつだけは、まったくキライ。
 














1973/06/28 ちょつと
 













画像 アップ
『1973/06/01 ミツビシのボールペン』 2021/01/04(月) 〜
『1973/06/01 ペン|シェイク』
『1973/06/01 まん中のやじるし』
『1973/06/01 娘に性欲を感じる??』A、B
『1973/06/02 ちょっとねるつもりで』A、B 2021/01/11(月) 〜
『1973/06/02 足』
『1973/06/02 なるべく多くのおさらをのせるためか?』
『1973/06/03 シュッとやるの』
『1973/06/03 A流 B流 C流』 2021/01/18(月) 〜
『1973/06/03 ハサミ将棋』
『1973/06/04 *』
『1973/06/04 フクセイのページ』
『1973/06/04 しゅうゆ(しょうゆ)』 2021/01/25(月) 〜
『1973/06/05 ■■コ ■■リ』
『1973/06/05 チチの大きさ』
『1973/06/06 清書をだ。』
『1973/06/06 一万円サツのしょうとく太子』 2021/02/01(月) 〜
『1973/06/06 ↓』
『1973/06/07 バカラシ』
『1973/06/07 若さとは明るさではないでしょうか。』A、B、C 2021/02/08(月) 〜
『1973/06/07 わるだけで、神経がたかぶり、』 2021/02/15(月) 〜
『1973/06/08 ボールペンの中にカミをまく』
『1973/06/08 目礼とはどういうものか?』
『1973/06/08 席をかわりたてなので、』A、B 2021/02/22(月) 〜
『1973/06/10 という手の型と和服』A、B、C、D
『1973/06/11 重力発成装置』 2021/03/01(月) 〜
『1973/06/11 男の○と女の○の類似』
『1973/06/11 自分がきれいに思える。』
『1973/06/12 なぜ「子」なのかしら?』 2021/03/08(月) 〜
『1973/06/12 である どっちとも でない』
『1973/06/12 W?』
『1973/06/12 万能円盤』 2021/03/15(月) 〜
『1973/06/12 ここが最も美しい』
『1973/06/13 ruby』
『1973/06/13 へなんふうに』 2021/03/22(月) 〜
『1973/06/13 前へならえ』A、B
『1973/06/14 すこしゆるい人』A、B、C
『1973/06/15 スズムシの入れもののにおい』A、B 2021/03/29(月) 〜
『1973/06/15 でてくるか、でてくるのではという不安がでてくる』
『1973/06/15 上のしきい』
『1973/06/16 メガネを学生服のうちぽけっとに』 2021/04/05(月) 〜
『1973/06/18 こんな、ネチネチと予習や復習をやる生活なら、いっそ』
『1973/06/17 むだな勝ち星はなかったのだよ。』
『1973/06/18 ねむくてねむくて・・・ねちゃいそう。』A、B 2021/04/12(月) 〜
『1973/06/18 まさか、女子が、ぼくに、』
『1973/06/20 日にちがかわったのに、それにきづかず、』
『1973/06/20 おまえもっとノートの字を小さくしな、』 2021/04/19(月) 〜
『1973/06/21 わかりましねえだ。』A、B
『1973/06/22 何も理解していないと気づいてちょっと、』
『1973/06/23 ほとんどを殆んどと書くとは、ほとんどしらなかった。』 2021/04/26(月) 〜
『1973/06/24 つねにまちがえて覚えるという勉強態度』
『1973/06/25 ぼくはこのごろよく、「おわりぬ」という。』
『1973/06/27 サンカク』 2021/05/03(月) 〜
『1973/06/27 カーカップのやつだけは、まったくキライ。』
『1973/06/28 ちょつと』

※ 『1973/06/01 ミツビシのボールペン』 : 「ちゅうせんによって、バイシンカン バイシンイン をえらぶのは、いいかげんか?」  日本の裁判員制度は2009年から。(本文の36年後)

※ 『1973/06/02 なるべく多くのおさらをのせるためか?』 : そういう理由じゃないと思うぞ。皿に高台があるのは、主に安定性のためらしい。 要するに、食品や汁物をいれる器の役目は、高台のない皿で足りる。始原の基本形。これを卓に置く場合、底が曲面で不安定だから、高台を付加することになった、という道筋のはず。

※ 『1973/06/03 シュッとやるの』 : 「開々式」  これは、こう略してOKなように一瞬思うけど、あきらかにNGだわな。
: 「ニキビどうしが結婚するとニキビの子?」  ニキビ村のニキビ君とニキビさんの子ニキビちゃん、というシュールな妄想がまず浮かんでしまったが、ニキビ面どうしが結婚すると子供にも遺伝するのか、という、妄想のうちだけど比較的現実よりのメモでしたね。
: 「克己」  こっき、とよむこの熟語、人名の場合は(本文にあるとおり)、かつみ、とよむんだよね、なぜか。 みとよむのは巳だから、克巳ならわかるんだが・・  己と巳が似ているので、読みが混同されて、いつしかそうなった、のかもしれない。 己は、おのれの意なので(本文にも示唆があるが)、おのれ≒我身≒身、み、という連想変換に支えられて、そうよんでもおかしくなくなった、のかもしれない。
: 「ボウズアタマを シュッとやるの」  中学のクラスで、ボウズ頭はア■■■君とwakaの二人だけ。 このイラストのように、すばやくボウズアタマを撫でさするような、あいさつのようなじゃれるような、ことをよくやりあいました。 たいていは、ア■■■君からだったか。
: 「サツマイモは皮ごとくえるのに、ジャガイモはだめなのか?」  だめなの? 料理屋で皮ごとふかしたジャガイモを食した(遠い)記憶あるが・・  芽のあたりに毒素があるそうなので、きちんと処置した上でなら、大丈夫なのかも。
: 「サンダルキレテ、スッテアルク、 エレベーター、エスカレータがあるから、カイダンもめんどうでない.」  これは謎多し。 そんな施設があるのは、家でも学校でもないし。 サンダルの緒または覆いが切れてるなら、階段の上り下りは困難をともなうでしょう。 説明不足だよね。どこかデパートにいっているのか。文具屋めあてとかで。「カイダンもめんどうでない」は「のぼりおりもめんどうでない」と言いたい意識で使っているのかな・・ 
: 「ぼく このかんじ 漢字  倖せ しあわせ  }似てる?」  僕と倖が似てる、という意でしょう。要するに。(倖の字形がやや乱れているけど)

※ 『1973/06/03 A流 B流 C流』 : 「このことを何といったっけ?」  金の下に歩がある。将棋用語で、金底の歩、または底歩でしょう。
: 「利点A」以下の図示。 今となっては推測ですが、流派の発展を考察していると思われます。 ある集団で我らの特徴は利点Aにあると目覚めて、A流を称する。 A流が進化して、利点Bを生みだす。 A流の中のあるものはA+Bと成長し、あるものはAのままだったりするが、流派としてはB流を称するようになる。 B流が進化して、利点Cを生みだす。 B流の中のあるものはA+B+Cと成長し、あるものはAを捨ててB+Cとなり、あるものはBをとびこえCを得て、A+Cとなったりする。 流派としては、C流を称するようになる。 というような推移を想像、吟味しているように、読み取れる。 ・・なんて、まるで違うのかも(^^; 
: 「人の家へいって、トイレをかりて、あけてみたら、うちの人がいる。」  なんか気まずい構図。 状況を想像、創作しているのではなく、実際に経験しているんでしょう。 「人のうちのトイレはおちつかぬ」などとつづけているし。

※ 『1973/06/03 ハサミ将棋』 : 「ぼくは多くのあやまちをおかしたが、そのつど父にゆるされた。その恩をどうやってかえすのだ!!」  本文の四十数年後、wakaの父は亡くなっています。 結局、返せずじまいか。大きな迷惑はかけなかった、という消極的な言い訳で、許してもらうしかないか。今となっては。
: 「ハサミ将棋」  そこそこ好きだったんですが、ここにある絶対負けないシステムを発見してしまってからは、遊ぶことはなくなりました。

※ 『1973/06/04 *』 : 『赤い靴』は、1922年(大正11年)発表、野口雨情作詞・本居長世作曲。著作権関係ですが、両者とも1945年に亡くなられています。 本文当時は保護期間内でしょうね。現在(2021年)はすでに保護期間満了後と解釈しました。

※ 『1973/06/04 フクセイのページ』 :  ◇ このページは、一行目にエンピツで「フクセイのページ」とあるだけで、左領域、右領域、ともに下辺まで全部白紙。 つまりあるのはページ上辺のイラスト=落書き6個と、「フクセイのページ」という文字だけ。 (他に落書き2個目と3個目の間にほとんど消えていて読めないメモらしきものはある)  ◇ wakaが心記ノート上で使っている「フクセイ」という語は、一般の意味とは少々異なっている。  ◇ これら心記を細字で記載するようになった時期とボールペンで記載するようになった時期はほぼ重なる(遡ってご覧いただければわかるとおり、1973/05/30頃から)。 つまり、字が細かいので、エンピツでは読みづらく不鮮明だろう、ボールペンで濃くはっきり書こう、という意識があったと思われる。 しかし、急いでいるとか、授業中とか、余裕時間に比べて書きたい記事が多すぎるとか、そういう場合、思いついたその場で記事を書ききれない場合が生じる。 このとき、とりあえず、仮メモだけ残して、あとでちゃんと書こうとした。 この仮メモは、エンピツ書きで、あとでこれに重ねてボールペンで清書してから、エンピツの仮メモは消しゴムで消す。 当時のwakaは、この一連の作業のことを「フクセイ」と言っている。 つまり、仮メモを清書することをフクセイと言っている。  ◇ で、当初はたぶん、仮メモは心記ノートに書かれ、上の通り、後刻または後日、清書されていた。 しかし、授業中など、心記ノートを開く余裕もないようなときは、授業ノートのほうに仮メモをした。 (授業をききながらなんとなく何かを書いていたら、心記に書きたい記事になっていたなどという場合もあっただろう) また、場合によっては、ノートではなく、ワラバン紙とかメモ用紙に、仮メモをした。 そして、これら授業ノートやワラバン紙から、心記ノートに転記清書をした。  ◇ というシステムだったはずなんだけど、まあ、wakaはナマケモノでもあり、しだいに、仮メモを清書することが追いつかなくなっていく。 余裕があるときはちゃんとやったんだろうけど、しだいに、清書しないまま放置する仮メモが増え、積み重なり、しかもあちこちに散らばっており、自分でもどのくらいためてしまったか把握できないぐらいになる。 (このページのある6月上旬辺りは、まだボールペン書きを始めて間もないはずなんだが、すでにエンピツ書き=仮メモ状態のままの記事が少なからず存在している。(→ 清書できた所もある。例えば、既掲載の『1973/06/01 ペン|シェイク』にある赤字部分は清書後の記事、黒字部分は直書きの記事だと思う。想定より清書が短くまとまったので赤字記事の後ろに空白が残ったのだろう。ただし、清書は赤字というルールは当初はあったみたいだけど、しだいに守られなくなっていく) この後、なんとか追いついている(仮メモをしてもおおむね清書に直せている)期間もあったりするようだが、総じて言えば) 要するに、清書という責務を十分に果たせないまま、やらなければならないという負債が日ごとに、週ごとに、月ごとに、累積していって、そしてとうとう、事実上の債務放棄。そのうちにやろう、いずれやろう、ほんとにひまになったらやろう、などと頭の奧の隅の暗がりで言い訳しているうちに(というかそのうち言い訳すらせず、完璧に近く忘却して)何ヶ月、何年、どんどん時は過ぎて、・・・で、半世紀経ってしまった、と。  ◇ 心記ノートは、なんとか、この通り、残った。 しかし、心記ノートに清書すべき仮メモを書いておいた授業ノート群はもうほぼすべて廃棄(紙ゴミか、焼却か。もちろん自分で)。 ワラバン紙とかメモ用紙も心記ノートにはさんでおいたもの以外は、同様に残っておらず。 よって、「フクセイ」したくても、もう完全に不可能である記事が大量にある、ということになる。  ◇ で、このページの「フクセイ」も現在白紙ということは、仮メモは心記ノートではなく、授業ノートまたはワラバン紙等にあったんだろうと想像できるので、よってもう、このページの白紙を埋めるはずの記事群のフクセイはできない。 永遠に白紙のまま。  ◇ (とはいえ、大量に失われたとはいえ、せいぜい、これまでご覧いだいている程度のレベル、そういう記事群と考えてまず間違いないでしょう。だれかが困るとか、ましてや社会の損失とか、そういう心配はほぼ全くないです。当時のwakaの半世紀後の私でさえ、まあ捨てちゃったものはしょうがないなあ、無いならやりようがないのだからむしろ面倒がなくて助かったか、などとさばさばしております)  ◇ (だとしても、仮メモが心記ノート以外のどこかにあったとしても、それがどこにあるかのメモは(例えば「現(現国ノート)」「Rea(Readerノート)」とか)はふつう転記、清書先となる心記ノートの空白箇所に残すはずなんだが、この日のここはそれも無くて、1ページ丸々場所を空けておく、というのは少々不可解なところはある。この日あまりにあちこちにあるいは大量に仮メモをしすぎて(一種の爆発状態)いちいち書けなかったのか。または、仮メモは頭の中にあったのか。それとも、数ページの空白を用意しておいたが清書してみたら終わりの1ページ分は要らなかっただけ、なのか・・)

※ 『1973/06/05 ■■コ ■■リ』 : ■■コは上の妹。■■リは下の妹。当時、ともに小学生。

※ 『1973/06/05 チチの大きさ』 : 「千葉九十九谷」  千葉県の九十九里浜(くじゅうくりはま)はわりと有名だと思いますが、九十九谷(くじゅうくたに)という所もあります。

※ 『1973/06/06 清書をだ。』 : 「社会的■人」  社会的善人、でしょう。

※ 『1973/06/06 一万円サツのしょうとく太子』 : 「一万円サツのしょうとく太子がもっているものは何か??」  笏(しゃく)ですな。 (聖徳太子の一万円札。若い人はご覧になったことがないかも。ネットで検索していただければ容易にヒットするはずです)
: 「それとも性の■視によって」  転視と読めますが、軽視と書いたつもりでしょう。

※ 『1973/06/08 ボールペンの中にカミをまく』 : 「ぼくのスリッパは1年のときほどイタマナイようだ。」  wakaの高校の上履きはスリッパタイプ。緑色の。
: 「「人類の進歩と調和」」  これは、本文の3年前、1970年の大坂万博(EXPO'70)のテーマです。 wakaは中学生でしたが、現地にいって観覧しています。 (もう少し詳しい記事は、当サイト>ふろく>足の向くまま 19:48 2019/06/11 (火) の項にあります)

※ 『1973/06/08 目礼とはどういうものか?』 : 「「キチガイになるか、心記をすてるか、死ぬだけだ。」→ ウソ。」  ラストの「ウソ」は、筆が走って大げさになりすぎたと思って、すこし戻した感じでしょう。
: 「ぼくはパイナップルをパイナツプルということアリ。」  じゃんけんで勝って、それがちょきなら「ちよこれえと」、ぐーなら「ぐりこ」、ぱーなら「ぱいなつぷる」と唱えながら、その音数だけ階段をのぼる、児童の頃の遊び、その名残と思います。

※ 『1973/06/10 という手の型と和服』 : 「という手の型と和服。」  この仕草、「袋手」でいくら検索してもなにもでず。 しばしあと、「ふところで」「懐手」だったと思い出す。 男性の表情がいい。
: 「パイロットマンネンヒツのパイロットは飛行機のパイロットからきたのか?」  wikiによれば、船舶用語のパイロット(水先案内人)からだそうです。 (→ 詳細はwikipedia。目からうろこの記事あり)
: 「右のような人を台にしてうまとびをしたら、」  どう見ても、左のような、ですな。目をあけていても左右がわからない(笑)  → 2項前ではちゃんと言えてるのにね。  → 話者が紙面の側に立って、こちらにいる観客(読者)に向かって絵図を説明している、としたら、絵図は話者の右手側にあるけれど。(シュールだ)  → なお、この絵図の人は、ブリッジをしてます。この周辺、むごかったり、やめてほしいイメージがいくつも・・
: 「「自分で」は何かの品詞?」  意味不明・・  ほぼ同じ語意の「みずから」が副詞として扱われるので、そんなような感覚をもった、ということかな?
: 「「いい」というのが、かならずしもいいとはかぎらない。」  本文は、両義があることをいってると思う。  好ましい、望ましい、正しい、という「いい」と、 必要ない、いらない、十分だ、という「いい」。  ただし、前項の「いい文章」とのかねあいで、これだけではない含意もありそう。
: 「コウコウハクシダン」  これは爵位の覚え方。公爵・侯爵・伯爵・子爵・男爵。
: 「ボクはオキナワにいくきがあまりしない。」  高校生wakaは、心情的に、隔たり、遠さを感じているんでしょう。 以後半世紀経ってもいまだ沖縄の地を踏んでいませんが、これは行きたくないとかこわいおじさんがいるからではなくて、ほぼ、単に地理的に遠いためだったと思います。 (西の方は、行ったのは、やっと兵庫県ぐらいまでです)
: 「ご用 }オモシロイ表現」  時代劇の捕り物で、悪漢(又は主人公)が、提灯をかかげた捕り方衆に囲まれるとき、決まって捕り方衆が口にする「ご用だ、ご用だ」をさしている気がします。そうだとしたら、たしかに、丁寧語で場違いっぽいですよね。  → これは、おそらく、捕まえる罪人に対して丁寧な言い回しをしているのではなく、この捕縛はお上(おかみ)の求めるところなのだ、とお上(おおやけ、奉行所、役人)をうやまう「御」、「御用」ということですか。
: 「may → maight」  5月の場合、May と、頭を大文字にするらしい。 might が正しいスペル。

※ 『1973/06/11 男の○と女の○の類似』 : 「口をとじて、舌をこうがいにおしあて、間のツバをすって、すこしつよく舌をはなすと、チョ、ヂョというような音がする。」  前日(6/10)に続いて同じようなことを書いているってことは、前日に書いたのにまだ書いてないと思ったか。 ただし、鳴る音の様子、聞こえ方は、だいぶちがう。あちらでは、「タッというのか、ピッというのか、そういう高い音」といっている。  → 今ためしたら、舌の離し方によって、両方の鳴らせ方ができますか。
: 「話 :舌で言う.」  話という漢字を自分で解読して、なるほどいかにも、と納得しているのかも。 しかしながら、現在、手元漢和辞典(角川漢和中辞典)で調べたところ、話の舌は、「した」「ゼツ」ではなく本来別字の「カツ」であるそうな。 活の舌も同様とか。
: 「キモチワルイ、シカシマジメな考えだ。」  両性の性器は、同じようなものから生育分化したそうだから、本文の簡略図(1)にみえる気づきは、的はずれではないようだ。 ならばと、簡略図(2)で「♂' → ♂」。これはどうやら、男の性器を男の性器に挿入するという発想らしく、マジメに ≒ 愚直にみちびいたイメージかもしれないが、異常。
: 「あまりにもシとかけはなれてよめないので、」  シをつなげ字で書いているとあまりにレと似てきてシと読めないので、レとなってしまったものに点を重ねて多少シに戻している、ということでしょう。 3項前の薄書き項の中の「シカシマジメな考えだ。」の頭のシがその例とおもわれる。(つまり、このシがあったから、3項たってからそのことを書いておきたくなった、と)

※ 『1973/06/12 である どっちとも でない』 : 「あきらかに勉強でないことだけを勉強だとしました。」  ラスト、逆のことを言っていて錯誤と思われます。 この項の話者「私」は、創作文内の登場人物というか、便宜上の主語のような感じ。
: 「色じろで、ふわふわっとした白いかみの毛の老人は、」  左端、{ のついている縦書き文字、ぼやけていますが、「この文は変?」と書いてあります。 文法的には変ということはなさそう。

※ 『1973/06/12 W?』 : 「 :左は何だ? 文字か?」  どこかから転写したんでしょうけど、Wの飾り文字に見えます。 いわゆる「カリグラフィー」というもの?
: 「なにだ」  なにだ → なんだ の変化は発音としての変化のはずだけど、ここでは、字体も形態変化して、に が ん になっていくよ、と指摘したい様子。
: 「■■コはセロテープのことをセリテープというようだ。」  妹の■■コの趣味、好みで、特異、そして得意な言い方をしている、のかもしれない。 ではなくて、難聴のため、そう聞こえて覚えてしまった可能性もあります。(としても、すでに小学高学年で書き言葉を読めるようになっており、そのうちに自然と直る(直った)、自分で修整する(修整した)はずだけど・・)
: 「中学の時の臨海自習では、」 正しくは、臨海実習。夏休み、学年で皆で行ったのが臨海学校で、それとは別に理科系クラブ合同で行ったのが臨海実習でした。(wakaは生物部) いずれも、二泊三日、三泊四日程度。
: 「みにくい体位にならねばならぬか。」 みにくい、というよりも、困難な体位には(例えば筋肉痛が残るような)ならねばならない場合が、ある??

※ 『1973/06/12 万能円盤』 : 「この前、道で、  というのを、ひろう。」  拾ったのは、形状から、けん玉の臼の部分に見えるが、けん玉にしては小さいのでそうとは認識していない様子。 紹介している遊びは、何に使うのかな、こうしたら遊べるかな、という程度の思いつき、または検討で、そういう遊びがあるということではなさそう。
: 「昔、  というぼくの万能円盤を考えたことがある。」  この櫛は、丸い円盤の上に取っ手、下側は一面に櫛の歯が並んでいる。 少年wakaの妄想上では(当然ながら)宇宙を航行する。取っ手はブリッジ(艦橋)となるし、地上に降り立った場合、櫛の無数の歯が、太く高い脚柱群となって、円盤本体を支えてそそり立つ。その中の数本に円盤本体に乗降できる昇降機が内蔵されていて、そこから出はいりする。 (しかしまあ、これら脚柱群、伸縮できない場合、ある程度整地された場所にしか着陸できないか。本数が多すぎて・・ (^^;)
: 「和菓子はおいしい?」  甘いだけで大人の男の食べるものではない、と長らく食わず嫌いだったけど、二年ほど前(2019年)、父五年祭のおみやげの中にあった、大福のような和菓子は、あっさり甘くて美味だったなあ・・ 

※ 『1973/06/13 ruby』 : 「タカ■■氏のノートはとてもキレイだとか。」  タカ■■氏、抜きんでた好成績男子。天才ではなく、才人かな。 それでも(かけはなれていても)、わざわざ女性っぽく評してちゃかしたくなるぐらいの、やっかみはあるみたいだ。(この通り、きたない乱れたノートをとるwakaでもあり)
: 「貧亡人」  貧乏人。
: 「rubyとは?」  ルビー、紅玉だが、ここでは、ルビ:ふりがな、のほうを言いたい? なぜルビというのか、あたりが気になってるふう。
: 「ぼくはこのごろムクチでしずかな子になったのでしょうか。特に今みたいにみんなが歌を歌っているときはムクチ。」  状況がよくわかりませんが、詩的な比喩ではなく、実際にまわりのみんなは歌っているのでは。

※ 『1973/06/13 前へならえ』 : 「数狂 英狂 }?」  かなり謎。出所とか意味とか。  ・・推測だが、すいきょう(酔狂)を、すうきょう → 数狂と書くと勘違い。その上で、数(学)狂があるなら、英(語)狂もあっていいよね、と連想発展したか。
: 「杠 :? 」  訓読みは、てこ。(ATOKイミクルの単漢字情報)  しかし手元漢和辞典によれば、杆がてこで、杠は「はたざお」が訓読み。こちらのほうが正しいような感触だが・・  (それにしても、杠なんてデジタル文字があるとは!)(=杠なんてめずらしい字が第2水準に収まっていたとは!)
: 「ぼくはボールペンのキップに、」  キャップ、ですね。
: 「始めからやりなおし 初めからやりなおし 〉どっち? ぼくは「初」のような気がする。」  現在は、「始」のような気がする。
: 「三角ヤロウとは?」  三角野郎。八木節にでてきます。
: 「今日、日誌をかくのだ。なるべくくだらない事をかかないと、ぼくはすぐ心記に同じことをうつしたりする。くだらないことをかくのだ。」  事情がもう一つはっきりはしないが、日直の番が回ってきて、学級日誌もなのでしょう。そこに書いたことを心記に転載するのが手間だから、心記に記したくなるようなこと以下の、くだらないことを書こう、という意味かな(笑)  としても、ここらに書かれているくだらないこと以下にくだらないってどんなのよ、ってかえって気になるじゃんね!
:  「ぼくは、女声語としての「わ」や「かしら」をつかうことあり。「そうかしら」「やるわよ。」 わを感動の終助、間助としてつかうこともあるのに。」  間助は間投助詞か。  言ったり書いたりするときはふつう男性語(または中間語)として使うが、ときたま、女言葉(女性語、女声語?)としておどけてつかう、ということでしょうね。 → かしら、かしらん、を辞書で引くと「現代ではどちらかといえば女性らしい言い回しとなっている」などと説明されているけれど、当時のwaka的にはそこまで片寄った語とはみなしていない様子。なにより、師と仰ぐ夏目漱石が男性の語として使用しているので、意を強くした(あるいは、そうか女性語とは限らないんだとみならった、迷いがなくなった)かと思う。
:  「ほこりをもつのみで生きている価値あり。 (シン■■)」  シン■■君の言。そこそこ親しいクラスメートのはずだが、顔などまったく思いだせず。

※ 『1973/06/14 すこしゆるい人』 : 「A君は、モデルをつかわずにただただ、彼の空想のみですばらしい木彫りの女性をつくった。ところがある日、役人がきて、「これは変態性欲の対象になりやすいからもってく。」」  二文しかないが、小話になってる! 秋の文化祭の文芸誌、これを載せればよかったのに(^^)
: 「後のぼくのためだけではないようですよ、ぼくの心の中は。おい、■■君、はっきりしろよ。」  自分に呼びかけている(■■君=waka)。  だとしても、異様なぐらい文字量が多すぎて、個人情報とか、玉石の内の石比率があまりに高すぎるとかの障りがあって、これらノート(心記)をそのままで公表するというのは無理がありすぎたでしょう。恥ずかしすぎたでしょう。現在(半世紀も経ってしまい、相当に刈り込んだ形にもなったけど)このように紹介できているのは、当時のwakaにとって分不相応なご褒美といえるでしょう。
: 「めんどうだから清書もエンピツにしましょうか。」  走り書きの是非、ゆれてるね。 今、スキャンしてこうして精査しているものにとっては、ボールペンのほうが助かる。エンピツはうすくて読みづらい。 それにだな、大事なことだけど、当時のwakaにとって、思いついた事を多くもれなく書ければ満足で、つまり、速く書きとめる利は大きいようだけど、文章というのは、書きつつ吟味して精度を上げたり密度を高めたり整合させたり、というこねまわし、よくいえば磨きも、大切なんだよね。素の発想にそうやって血肉をあたえておくのは、素の発想と同じかそれ以上に有意義な営みなのだ。 当時のwakaの心記には、これがだいぶ足りない、という気がする。こなれていない文章、よくわからない文章、が多すぎ。磨こうとすれば、実は磨き甲斐がまるでないと判明して滅却しただろう文章なども少なくなさそう。
: 「てばたき山(だっけ?)の童話はすこしおもろ。」  今検索すると「てばたき山」は、もともとは、アラスカエスキモーの民話らしいけど、宮沢賢治が『銀河鉄道の夜』の中にも取り入れていたとか。 ずっと前によんだというそれが、『銀河鉄道の夜』の中の一エピソードを指すなら、ここに「てばたき山の童話」とは書かないのでは、と思う。

※ 『1973/06/15 スズムシの入れもののにおい』 : 「■■のり■■くん」  ノリ君(ノリちゃん、ノリ公)初登場。
: 「郵便○ 郵便× なぜか垂とかいてしまうよ。」  三箇所の垂、2番目3番目は下部の横棒が一本多い。二つの郵がどちらも偏と旁が逆。
: 「英文や古文、特に古文は、わからない名詞などはしらべりゃすぐなのだが、助詞や助動詞がいくつもつながっているとき、イミがわからなくなる。」  だよねえ。昔日の口語なのかどうか、言葉のニュアンスが直接きてくれないよ。文法的に(つまり分析して)解読することはできたとしても、これは間接的で、とおい。もっと馴染んで自分の言葉にしなければ古文を理解した、読んだ、書いた、聞いた、話した、のレベルにはとうてい達していない気がする。今はさらにとおくなってるかも。
: 「「ワカちゃん、ゴハンたべるの。うどんがあるよ。」姉キ」  姉、うどんが食べたくなる。煮込もうとしたあたりで、弟のこと思いだして増量。で、せっかく用意したのに、弟は保温ご飯を食べようとする。つよくうどんを勧める。なんてところか?? 
: 「休 :やすむ」  ネット検索しても、木陰に人が休むさまの会意文字、という説が多いのだが、 手元漢和辞典(角川漢和中辞典)には、 「じつは木(柔の転音)が音を表わす形声。止(駐)を原義とし、好(よい)の意に借用して用いる。」とある。
: 「スズムシ、みな死んだもんね。」  右横にある絵は、飼育容器。 小学校高学年ぐらいか、母に、知り合いのおじさん(スズムシたくさん飼っていた)のところに連れていかれて、ゆずってもらった。これは最初に私が望んだわけではなく、たいして説明もなく連れていかれたらたくさんスズムシがいて、じゃあ、ということでもらった、という経緯だったはず。なんとなくだけど、母の人付き合いのダシにされたのかも、今思えば。 一シーズン飼って、成虫が死んだあとも卵が土の中で冬を越していると信じて待ったけど、とうとう生まれなかった。小さいのがでてきたような気もしたけど育たなかった。(今思えば、でてきたように思えた小さいのは、あれは今もみるゴキブリの幼生にそっくり。^^;;)
: 「冥土の族」  冥土の旅。
: 「花はとても■い。」  ■は、来、朱などにみえるが、たぶん、赤の誤記。
: 「知らなかった、今まで。 名詞」  今まで、を名詞と明記しているけど、国語辞典には副詞とあるわな。 当時のwakaが名詞と明記した感覚(仮に錯覚だとしても)、もやもやして、どうもうまく説明できない。 ちなみに、類語に「これまで」があるが、こちらは名詞的な語義もある模様。「もはやこれまで」など。  → 「今までありがとう」の今までは、名詞なのか副詞なのか? 

※ 『1973/06/15 でてくるか、でてくるのではという不安がでてくる』 : 「自由な空想をしまいと思うようになる。していても、やめてしまう。」  ひどいね、これはね。本末転倒気味。いろいろなことを自由に書くための心記なのに、いろいろなことが自由に浮かんできて書かねばならないのを避けたがっている。 うーん、でもまあ、これだけ、様々に毎日毎時書くことが生じてしまうと、正直な感覚なのかもな。生じる大半が、これらのように、意味薄かったり些末だったりだしなあ。中に宝石がまじっているなら、まだしもだけど、やはりそういうのはまれだもんな・・  何事も、過ぎたるは及ばざるがごとしか。

※ 『1973/06/15 上のしきい』 : 「角川の新漢和中辞典をかいました。  角川をだいぶ信頼していたこと。カワバタヤスナリのスイセン文で、きまりました。」  現在、私の手元にある漢和辞典のタイトルは、「角川 漢和中辞典」(1504ページ 定価1500円 昭和三十四年四月一日初版発行 昭和四十八年一月二十日一三〇版発行)。 本文は、1973年(昭和48年)6月15日の記事なので、このときに買った辞典と今手元にある辞典は同一と思われます。48年間、私のかたわらにあった、と。 その推薦文があっただろう帯は、残念ながら現存していません。 (函カバーがどこかにあるとしたらその中に残っている可能性はわずかにあり) (川端康成は前年に自殺しているはずだけど、推薦文はそのままだったんだ。ふうむ)

※ 『1973/06/16 メガネを学生服のうちぽけっとに』 : 「ぼくは中学の頃、先生が、女子の成績がわるかったぞ、といったとき、おもわず、いいぞいいぞとさけんでしまったよ。」  恥ずかしいね。女子たちをいたずらに敵に回してるよね。嫌われるよね、ふつうに。女の子大好きの屈折した表出だとしてもさ。  今さっきもそうしたけど、数年後の当時もフラッシュバックしてより深刻そうに頭抱えている、そんな図が見える。
: 「メガネを学生服のうちぽけっとに入れておく事はキケン?」  危険か危険じゃないかといえば、危険だよ。避けたい。要は、常時眼鏡を外さない暮らしぶりがベスト(眼鏡を危険にさらさないというためだけなら。現在はこれですな。風呂と睡眠時以外はかけっぱなし。でも現在は、眼鏡無しでは手先も満足に見えないのだから、選択の余地なし)。
: 「拆 → ??  折○」  手元漢和辞典によれば、斥と斤は別字。関連はほぼなさそう。斥が使われる漢字には、訴訟などがあるとか。柝(ひょうしぎ)というのもあり。 本文の拆は、音はタク、訓は、ひらく、さける。
: 「ところが、ぼくはとばされたぬかされた。」  ううむ。苦手の英語とはいえ、これ、先生がついまちがえたのではなく、故意に順番をとばしたなら、いじめ、ハラスメントの域ではないのか!?  とはいえ、wakaは、英語では、もろすぎるぐらいの、そのぐらいのことされてしかたないぐらいの、劣等生ぶりだった。
: 「老女の冷水浴  女の冷水浴」  二つは相似しているようで、印象、そうとうに違う・・・ 何を書きたかったのか・・・ 

※ 『1973/06/18 こんな、ネチネチと予習や復習をやる生活なら、いっそ』 : 「みのうがこいをやったとき、そこのけいまはすぐあげるべきか?」  漢字混じりで書けば、美濃囲いをやったとき、そこの(or底の)桂馬はすぐ上げるべきか?  将棋の話ですな。みのがこい、と読むのがふつう。
: 「2 バス、4 校舎、5 Bの教室、みなまよう。 ・・・ 」  青ボールペン書きながら、仮メモ的なものと思われる。 将棋の県大会中のメモらしい。成績は良かった?  しばらく後で(数日後の6/20の項目群の途中で)、この辺りのフクセイ(=清書)をしている。
: 「オカザキユキって、あんがいカワイイネ。」  これは芸能人でしょう。
: 「マンガ家は少年マガジンには力を入れるけれど、サンデーキングでは手をぬく。天才バカボンの中で、ウメ、マツ、タケなんていうふうにマンガにランクをつけ、金を多くだす出版者に対してほどよいマンガをかく、マンガ家がえがかれている。それをちゃかして、おもしろくして書いてあるようだが、真実をついているのではなかろうか。 つまり、読書をちゃかしきれずに、まじめな面をみせてしまった?」  実際にそういう話が掲載されたはず。出版者は出版社、読書は読者の誤記か。
: 「6/18}」  一ページの中で二度日付が変わるなんてめずらしい! つまり、6/17の記載がかなり少ない。というのは、将棋の大会出場で、加えて、同好会会長としての気疲れもあって、時間も元気も心記に振り向けられなかった、ということなんでしょう。 ちなみに、1973/06/17は、日曜日。
: 「目次というイミになんで、こういう漢字が。」  目は項目とか見出しの意、次は順序の意。それで、内容の見出しを順序だてる、というようなことになるらしい。
: 「日本人は13日の金曜日が」  ちなみに、この年、1973年の13日の金曜日は、4/13、7/13の二度ある。

※ 『1973/06/17 むだな勝ち星はなかったのだよ。』 :  6/17の将棋の県大会についての、フクセイ=清書。  記載場所は、6/20の項目群の途中。(つまり三日後に清書できた、ということ)
:  wakaは、将棋同好会の現会長。  ナイ■■先輩が、前会長で三年生。  ワタ■■君のあだ名が、会長さん。  ワタ■■君、シシ■■君、wakaが二年生。  ハ■君(=火■君)が一年生(翌年、会長を継ぐ)。   えーと、わかりづらいが(笑)、 wakaが高一のとき、クラスの会長をワタ■■君が務めており、それ以来ずっと彼のことは会長さんと呼ぶようになっている。 彼、会長さんとは高校三年間、将棋仲間であり、昼休みの卓球仲間でもあった。 会長さん、医者の息子で、勉学についてはかなり優秀。(wakaとは大違いだが、将棋や卓球の場ではほぼ同格、会長さんがやや勝ち越していたか程度)
: 「ぼくたちのたっていたのが、道路の左側(コウノ台の方にむかって)だったのだ。すぐ右側にうつり、」  目的地(コウノ台)のほうにむかって立っていてその道路の左側にいるなら、バスは左側通行なのだから、目的地に向かうバスに乗れるはずでは? クリアに思いだせていない、どこかしら錯誤または誤記をしているね。  (そうか・・ 道路のどちら側に立っていても、かたわらをゆく車両の進行方向と同じほうを向いていれば、自分は道路の左側にいる、と感じる。そういうことか!?)
: 「その中に「青柳」の二字、みとめる。」  どういう意味がこめられているのか今となってははっきりしないが、たぶん、気になっていた女子の姓と一致してたぐらいのことではなかろうか。 遠征先の停留所の落書きなので、wakaの知っている青柳嬢(?)とここの相合傘の青柳さんが同一人のはずもないのだけれど。

※ 『1973/06/18 ねむくてねむくて・・・ねちゃいそう。』 : 「そして、その人が信じ、その人自身、自分で得た信仰だと思い、布教しようと思えば、その人が宗教をつくってくれる。」  これに続く結びの文章、句読点がはっきりしないのでおぎなってみる。 「まったくいつわりでない宗教を。信者にとって、まったくいつわりでないそれ。が、自分だけは、そのいつわりであることを知っているが、すこしたてば、自分は死ぬ。」 と書いてあるのでは。
: 「ベイタ アーカディア」  検索すると、アーカディア国立公園というのがヒットする。 しかし、あまりに場違いというか唐突なので、もうすこし調べたところ、 wakaの大好きなSF作家アシモフの、ファウンデーションシリーズに、ベイタ・ダレルという女性が登場する。そしてその孫娘がアーカディ・ダレル。ともに主役級。どうやら、こっちの可能性が高いな。

※ 『1973/06/18 まさか、女子が、ぼくに、』 :  タ■■嬢は、すでに少なくとも二度、このdisplayに登場している。 『1973/05/26 ケシゴム』と『1973/06/08 席をかわりたてなので、』。 タ■■嬢は、この年の(高二の)四月に転校してきた。将棋が指せたとはいえ、女子が男子に対戦をお願いするとは、すこし淋しかったのかもしれない。

※ 『1973/06/20 日にちがかわったのに、それにきづかず、』 : 「だいぶたってから、それにきづいて、ここらだろうと、日にちを入れたものかのどちらかだ。」  つまり、後者のここらだろうの場合は不正確なこともありうるっていう、後日の自分または自分以外の読者への親切な注記、でもあるというわけだ。 半世紀後のまさに今、活きた(有用な)申し送りとなっている。ううむ、至れり尽くせり、当時のwaka!  (ではあるが、半世紀前のこの極私的なノートの日付の位置が正しいかどうか、なんて、現在のこの現実界のほとんどすべての事象にとって、さして重要なことじゃないけどね。言うまでもなく。^^;)

※ 『1973/06/20 おまえもっとノートの字を小さくしな、』 : 「お母さんに半紙6帖のお金をせいきゅうしたいが、」  以下、ぐちゃぐちゃ言い訳してるって感じだ。まあ、実際、母の前での言い訳の、予行演習みたいものか?  (なお、wakaは高校の芸術教科では書道を選択している)
: 「〜あげればいいという計算がすぐできぬ。」  お金の移動だけだから、「ぼく」の4350円が精算後(4350+660=)に、5010円になっていればよし。と考えれば簡単。
: 「ずるいとわるいをたして二でわったような語はないか?」「それは○○○だ。」  ○○○に入るのは、ペテン、または、きべん(詭弁)、だろうか・・  母息子そろって、しわい(吝い)が、この極端な細字には、母(出資者)の圧もあったわけね(^^;;  ← 既掲載の、display『1973/05/25 まったく無意味ないたずら書きや』の中にも「お母さんが、ノートをこまかくつかえってよ。ぼくは使い方が荒いそうな。」 という記事があった。
: 「これから、マーガレット別冊7月号をよむのだ。」  別マは、妹たちの愛読誌。

※ 『1973/06/21 わかりましねえだ。』 : 「この前イ■■ちゃんが、小さい仮面ライダーにけられたよ。」  友人のイ■■ちゃんとwakaがならんで登校しているとき、仮面ライダーになりきっている男児が躍り出て、キックを入れてきたことがあった。 なぜwakaはまぬがれたかといえば、イ■■ちゃんのほうが、ごつい顔だちと体つきだったから、かもね。
: 「日本で、日本文学より外国文学がすかれるのは、日本文学がみな標準語、東京語でかかれているから?」  どうも文意がよくわからない。外国文学の翻訳文も要するに標準語、東京語ではなかろうか。  想像だけど・・ 外国文学は、それぞれのお国柄、人柄がでて、多様性もあるし、次々新知見が登場するので興味もわいて、わくわくがある。 しかし、日本文学は、どれもこれも東京語で、内容も東京人ぽい事柄ばかりで、いわば毎日経験している現実界と大差なく、つまらないし飽きてしまう。  ・・・というようなことをいいたいのかもしれない。
: 「ぼくはこれを苦労して理解する学者の存在を仮定しているらしいのです。」  これ、とは心記のことでしょう。いま書いているこの文章群を、後年、だれかが額に汗で解明しようとしてくれる、という空想・・ そのつもりで書いているってことだけど、つもりになるだけなら、許す(笑) それに実際、学者ではなかったし、他人でもなかったけど、こうして半世紀後のwakaが精査しているわけだし。 うーん、要するに、賢くて察しのいい、かつ、根気もいい読者を想定して、書いているってことだろうね。少々甘えている、筆者の態度としては。でも、日記とかの書き手の態度としては、このぐらいの甘さは許してあげたい。
: 「ぼくは授業ノートのとれなくなるメンドウサのみから学校を休まぬのか? 不安になるワズラワシさをさけたいのみ?」  勉強したい、知識を広め深めたい、テストでいい点をとって気分よくなりたい、等々が動機ではなく、授業でこれまでと同じようにノートをとってそれを積み重ねたい、という単純、表層だけが目的。 多少でも意味がありそうなそれなら反復させていれば安心。ありえる、(こういう心記みたいものを飽きず続けている、続けざるを得ない体質になっている)当時のwakaならありえる。
: 「授業でさされてわからん時、ワカリマセンといわずに首をひねって、ねちねちしていたよ。ぼく。」  恥ずかしいな。愚かだな。劣等生ぶり、しだいに顕著か。
: 「くだもの船」  病院の見舞にもっていくフルーツのカゴ盛り、みたいもののこと?? 
: 「このごろ、授業でさされてもまったくまともに答えられず、もじもじ。こたえてもまちがい。」  こまるねえ・・ どの課目でもってことはないんだろうけど、たぶん、英語、数学辺りなんだろうけど、英語、数学って毎日のようにあった気がする。 こういうことを書くってことは、はずかしい、もどかしい、という自覚はあるはずなんだが・・  たとえ、わからない授業でも、ノートをとることだけは勤勉に(または執拗に)続けているような気がする。
: 「わかりましねえだ。」  カムイ伝の日置藩の方言。

※ 『1973/06/22 何も理解していないと気づいてちょっと、』 : 「last march とは?」  last march という慣用句は見つからず。  march(行進)ではなく、March(三月)なのかな・・ ならば今年の三月、とかになるか。  → 今、ネットで調べたら、last March は去年の三月。(過ぎた)今年の三月といいたい場合は、this March なのだそうです。
: 「ダツラク者かと思っていたけど、」  挫折とか、脱落とか、若いときに経験できて、幸いだよね。そういうのが何もないやつよりはよっぽど。

※ 『1973/06/23 ほとんどを殆んどと書くとは、ほとんどしらなかった。』 : 「殆んど」  どちらかといえば、殆ど、が正しい送り仮名らしい。
: 「「よい」:rightという形容詞を言えといわれていえなかったよ。」  こういうことが恥ずかしく感じるのだから、向学心はあると思うのにね。 どうして、分からなくなってるんだろう。どうやら、wakaが劣るってだけじゃなくて、先生の教え方がおかしい、丁寧さが足りない、という感じかなあ・・  wakaの高校は優秀すぎる生徒が多くて、分かっているはずのことを教えている、いくら教えても生徒たちはもうみな理解していることばかり、というような感覚、気後れみたいものが先生たちにあって、丁寧さがなくて上すべりしたり、飛躍しすぎたり、必要以上にむずかしいことを教えたがったり、という面はなかったか。 wakaが純粋な知りたがり少年と仮定すれば、リトマス試験紙とみなせて、それがかんばしくない状態になっているってことで、そういうことがいえるのでは?  それに、英語みたいのはなあ、反復繰り返しで鍛えるしかないような、あとは、感性で会得するしかないような、得体の知れない学問だから困るんだよね。結果的に得られるだろう知識や技能にくらべて投入する時間や労力が異様に大きすぎる気もするし、英語が述べている内容がほぼすべて日本語で事足りる内容ばかりだし(当然だが。笑)。 あるいは、読む、書くからのアプローチが見当違いなのかも。聞く、話すから慣れていくべき学問なのかもね。普通に聞いて話せるようになってから、文法とか勉強するのが筋じゃないの? ネイティブは皆そうでしょ?  (まあ、言語だから、文法といっても実はそうとう曖昧で、公理から定理、各事例と証明していけるわけではなく、例外もあれば、慣用もあればで、覚えきれるものではないわ。言葉として使って、身につけ肥やしていくしかないでしょう) そう、まず意思疎通できる技能の取得、それから学問的な分析にむかうべきだよ。あたりまえに考えて。 高校辺りの授業ではこれが、ゴッチャになってる感じ強い。 ゴッチャというか、分析が先走って、会話がまるで成立しそうにない雰囲気。相手の言葉の分析をしているうちに相手は、待ちきれなくなって不機嫌になってしまうか、自分が何を話したのか忘れてしまいそう。  (・・まあ、今なら、好きなことが言える。(^^)  当時のwakaのうっぷんを代わりに晴らしてあげてます)

※ 『1973/06/24 つねにまちがえて覚えるという勉強態度』 : 「つねにまちがえて覚えるという勉強態度なのです。」  なんじゃあ? めちゃくちゃでは? そりゃ他も迷惑だよね(爆)  → うーん、まあ、好意的に補足するなら・・  常に正しく予習しておくようなことはせず、白紙の状態で新知見に相対して、イチからこれを咀嚼、吟味解明しようとする勉強態度。 そこで、当初はまちがうのはあたりまえなんだけど、それがまちがいであると納得しどこでまちがえたかとときほぐす過程で、正解に至る道筋を体得していく(からだに刻み込むように覚えていく)。  ・・というような方法を言いたいのかもしれない。おぎないすぎ? どうでしょう。  → そうか。「つねにまちがえて、覚えるという勉強態度」と読むと異常な人に思えるけど、「つねに、まちがえて覚えるという勉強態度」と読めば、おおむね常識の範囲内となるか。
: 「でんでんむしはかたつむり」  ネットで正しい歌詞を検索して比べると、いくつも食い違ってます。 本文でいいたいのは、どういうことなのか、いまひとつ、しっくりこない。中年のおじさんはいい加減に歌う習性があるってこと?  書きぶりから、少々、心があいまい、おかしくなっている状態かも。 ・・以下につづく数項も、なんだか内容が変。どこか奇妙。
: 「きのうの将棋個人戦、」  高校の県大会があったと思われます。(きのう=1973/06/24は日曜日)  こまったもんだねえ。本職の勉強は劣等生。趣味の将棋でも内弁慶で、本番にかなり弱い。仲間の敗退を願ったりまでしている。いいところなしで立つ瀬無しかい。  まあ、でもなあ、いろいろ抑えこまれて心晴れないかもしれないが、いずれも個人のことで、誰かにめいわくをかけている鬱屈ではないわけで、小事も小事。 元気だし、なにより若いし、要は身体は万全、見えている天地はたかくひろい。うらやましいかぎりだよ、waka君。今の私からみれば・・  (雑多な知識をこれでもかと詰め込まれている日々なのは同情するけど、優秀な周囲といつも比較せざるを得ない環境も居心地わるそうだけど、なにより、元気すぎて精力ありあまっているのにほとばしらせる異性がいないってのもだいぶ苦しそうだけど・・ ^^;;)

※ 『1973/06/25 ぼくはこのごろよく、「おわりぬ」という。』 : 「「おどかす=驚かす」ではないのか?」  おどかす(脅かす、嚇かす)と、おどろかす(驚かす)は別語らしい。 ただし、おどかすの語義の中に、おどろかすの意もある模様。
: 「お姉さんは夏目先生の作品がみな同じようだという。」  姉き、するどい!?
: 「「同行」はしっぱい作のよう。」  自作小説のことですね。 調べたら、|1972.10.20~ 『同行』 本文原稿用紙25枚。未完らしい。|いちおう小説原稿か。消し去ってよしだろう。|シュレッダー済み。|2014/11/09(日) 18:42|という記録を発見。 わりと長年月保存していたようだけど、もう読めずです。
: 「この事は一生われない。」  この事は一生わすれない。と書きたかったはず。
: 「中年以降においてはおもしろい事もそうないから?」  それにしても、高校生、ものすごい偏見だね(^^;  → ・・いや、案外、真を突いていたりする? 

※ 『1973/06/27 サンカク』 : 「2つの意にとれるのでは??」  二重の意味に解釈できる文言、相反する意味になる言い回し、そういうのに、執拗といえるほど興味をしめす、高校生waka。  すっきりと割り切りたいのに、あいまいでもやもやする。そういうのはいやなはずなのに、いやだから気になる。ということかも。安心したくて、分析して、いくらかでも解明しておきたい、のかな。

※ 『1973/06/27 カーカップのやつだけは、まったくキライ。』 :  wikiによれば、ジェイムズ・カーカップ(1918年 - 2009年)の文章は、英語教科書に多く採用されているそうな。 が、高校生wakaに蛇蝎のように嫌われてます。よほど生理的にいやな感触があったんでしょう。文章または内容に。

※ 『1973/06/28 ちょつと』 : 「男と女が将棋をすると、なんで男が女におしえるという形になってしまうのだろう?」  タ■■嬢と指した回数は、せいぜい片手ぐらいだったと思う。 常勝ということはなく、一度か二度負けていた気がするが? 力が拮抗しているようだと気づいて、本文のような負け惜しみ的なこと(真剣勝負ではないようなこと)を書いてみたくなったとか?  → ちなみに現在、wakaがよく利用しているネット将棋、将棋クラブ24では、匿名のためほんとのところは不明ながら、たぶん何度も女子と真剣勝負しているはず。(将棋クラブ24では通算で一万局を超えて指している。うち少なくとも百局ぐらいは対女子戦だったのでは)
: 「チュッパーメント とは?」  謎。辞書なし、検索でもなし。聞き違いがかんでいそう。  → 発音が似ている語として、チョッパーアタッチメントというのを見つけたが、これ、挽き肉器の付属品という意味でなんのことやらで、無関係っぽい。
: 「マエッチョ」  中学の同級生のあだ名。ひょうきん男子だったが、エロとかSM系とかの小話好き。 それ系の雑誌とかから仕入れた話を、みずから、奇妙な身ぶりをまじえおどけて、友らに語ってきかせる。友ら、よろこぶ。 大人びていたり、小気味よかったり、ぶっとんでいたりする小話があったので、仕入れていると思っていたけど、もしかしたらオリジナル作も少なからずあったのかもしれない。


当頁 2021/01/04(月) 〜