表紙
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1973/07

 
















1973/07/01 核爆弾によって、空間をつくる。
 


















1973/07/02 まったくそういうことがないとわかるや
 














1973/07/03 エ〜〜ベ〜〜チヨ
 














1973/07/04 などというやじるし。
 














1973/07/05 名札
 














1973/07/06 ゼットとよんでしまうよ。
 














1973/07/08 もっと化学的にいえないの?
 














1973/07/09 この男、永遠にねるのかなあ。
 
















1973/07/10 アナアキウキワ
 
















1973/07/11 うちわがよく共鳴するのだ!!
 











 


1973/07/13 リンキュウビ
 
















1973/07/14 こういう浮力の問題はむずかしい?
 
















1973/07/14 カトリセンコウ
 














1973/07/15 夏 冬
 














1973/07/15 という水のみ
 














1973/07/16 地論
 














1973/07/16 ジェントルマンだもん。
 
















1973/07/16 この差!! 最高!!
 














1973/07/17 ひとでにかなうヒトデなし
 














1973/07/18 女の子を犯したい。
 




















1973/07/20 さる
 














1973/07/20 とにかく、動いていく方向がある。
 




















1973/07/23 人間の醜い心をいやすための器械
 


















1973/07/24 380
 














1973/07/27 夢の中で三島由紀夫の詩を
 














1973/07/27 こういう板
 














1973/07/29 おじいさんもあしをくみます!!
 














1973/07/30 タロコさん
 














1973/07/31 バスの中
 













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『1973/07/01 核爆弾によって、空間をつくる。』A、B 2021/05/10(月) 〜
『1973/07/02 まったくそういうことがないとわかるや』A、B、C
『1973/07/03 エ〜〜ベ〜〜チヨ』 2021/05/17(月) 〜
『1973/07/04 などというやじるし。』
『1973/07/05 名札』
『1973/07/06 ゼットとよんでしまうよ。』 2021/05/24(月) 〜
『1973/07/08 もっと化学的にいえないの?』
『1973/07/09 この男、永遠にねるのかなあ。』
『1973/07/10 アナアキウキワ』A、B 2021/05/31(月) 〜
『1973/07/11 うちわがよく共鳴するのだ!!』A、B
『1973/07/13 リンキュウビ』A、B 2021/06/07(月) 〜
『1973/07/14 こういう浮力の問題はむずかしい?』A、B 2021/06/14(月) 〜
『1973/07/14 カトリセンコウ』A、B 2021/06/21(月) 〜
『1973/07/15 夏 冬』 2021/06/28(月) 〜
『1973/07/15 という水のみ』
『1973/07/16 地論』
『1973/07/16 ジェントルマンだもん。』 2021/07/05(月) 〜
『1973/07/16 この差!! 最高!!』A、B
『1973/07/17 ひとでにかなうヒトデなし』
『1973/07/18 女の子を犯したい。』 2021/07/11(日) 〜
『1973/07/20 さる』A、B、C、D 2021/07/19(月) 〜
『1973/07/20 とにかく、動いていく方向がある。』 2021/07/26(月) 〜
『1973/07/23 人間の醜い心をいやすための器械』A、B、C、D 2021/08/02(月) 〜
『1973/07/24 380』A、B、C 2019/09/24(火) 〜
『1973/07/27 夢の中で三島由紀夫の詩を』 2021/08/09(月) 〜
『1973/07/27 こういう板』
『1973/07/29 おじいさんもあしをくみます!!』 2021/08/16(月) 〜
『1973/07/30 タロコさん』
『1973/07/31 バスの中』 2021/08/23(月) 〜

※ 『1973/07/01 核爆弾によって、空間をつくる。』 : 「perfect number とは??」  数学用語の完全数をいっているらしい。しかしなぜわざわざ英語で記しているのか謎。 別の何かを指しているのかもしれないが、わからず。

※ 『1973/07/02 まったくそういうことがないとわかるや』 : 「ロボットに対してはきついコトバをつかうというのは、みにくい。」  当時のこの感覚、今からみるとズレがあるよね。 会話できるAI機器にたいして、今の人たちは最初から、丁寧語を使ってるはず。ぞんざい、乱暴な言葉遣いで接するのはいたとしても少数。 つまり、対象を丁寧に扱うというのは、相手のためというより、自分のためであることが大きいってことか。
: 「実際にハレンチな事をする人の心のササエ。」  もっとハレンチな事をしてますよ、となぐさめている。芝居なので、仮になぐさめている。だけど、芝居、創作とはいっても、嘘と同じではない。真実が裏にある嘘なわけだ。 これはお芝居だけど、あなたよりハレンチな人はどこかに必ずいますから、となぐさめているというのがほんとの景色か。 (そういう回りくどい事を直観的に味わってもらうのが、芝居とか創作とかの本性かもね)
: 「エベチヨ これはどこからきた?」  辞書とか検索でヒットしないので、隠語、それも当時のwaka周辺のそれかも。 エロ+べちょべちょ、あたりの意になるのかな、語感からいけば。 実際はだいぶちがう、もっと穏当な意味かもしれない。

※ 『1973/07/03 エ〜〜ベ〜〜チヨ』 : 「エ〜〜ベ〜〜チヨ」  呪いの歌? (^^;  何かの既製曲に乗せているのかもしれないし、自作自演の脳内演奏とセッションしているのかもしれない。

※ 『1973/07/04 などというやじるし。』 : 「■:なんという?」  たぶん書かれている文字は「ζ」。これならば読みは「ゼータ」。  → 「φ(ファイ)」という可能性もあるか・・
: 「減 城 いいの?」  右下の交叉のようす、両字とも同じでいいの? どちらかは斜め左払いがなくて「戈」にはなってないのでは、という意でしょう。
: 「さわらぬかみにたたりなし これは真理だろうか? 考察!! ついに真理を得るのか? ぼくは?」  こうおおげさに言われると、深遠な意味が内包されているのかと思えてくるから不思議。  たしかにまあ、咀嚼していると、妙な味はしてくるような。つかまえられそうでつかまえられない。

※ 『1973/07/05 名札』 : 「だっと」  漢字で脱兎か。自動車のダットサンも外国語みたく耳に聞こえていたりして[英語でウサギの事をダット]を微妙に補強したか。
: 「「いや、はいってなかった。よかった。」といって、ぬれてるナフダをとりあげむねにつける。」  まあ、食品ではないし、ゆるそう(^^;
: 「「シドイ名フダという覚え方」といって、覚える。」  心記の記載予定項の暗記術。まあ、短時間の脳内メモのやり方ってところか。しかし、ほんと、なんでも書くね、waka君。
: 「こちとら ?」  近現代の俗語、程度に思っていたけど、調べると「此方人等」で、近世ごろからあったらしい。
: 「明日の分化委員会で文化祭実行委員に立候補してくれませんか、」  いわゆる根回しをされているわけだな。  文化委員会が正しい? おそらく、クラブや同好会の代表者の会合。  waka君は、将棋同好会と文学クラブの代表掛け持ちなんだから、常識的に、文化祭それだけでも異様に忙しいはず。実行委員なんて物理的に無理だよ、今考えても。  ・・という理由を述べて固辞しなさいな、美人?委員長相手でもさ。  (ずっと後の記載をみると、どうやら結局引き受けてしまったらしい。阿呆だ)
: 「stoptting こんなのある? 」  stopの進行形なら、stopping。
: 「耳の中がツンツンいたく、おなかが、ピンピンいたい。」  腹痛はわかるけど、耳の中が痛いとはなんぞや?  耳かきをやりすぎたとか? 水泳とかで水が入って何かやらかしてる?

※ 『1973/07/06 ゼットとよんでしまうよ。』 : 「しあさっての次は何というのか。」  やのあさって、らしいが、地域によって「やのあさって」と「しあさって」の意味が入れかわったりするらしい。 つまり、日本語としては混乱しているし、もう呼び方が分からない人も多そう。 なので、四日後と言ったり書いたりすべきでしょう。ちゃんと伝えたければ。
: 「■をゼットとよんでしまうよ。」  最初、「乙(おつ)をゼットとよんでしまうよ。」とあるのかと思った。 しかし、じっくり見ているうちに、ちょっと違うような気がしてくる。 これは、「Σ(シグマ)をゼットとよんでしまうよ。」かもしれない。
: 「元 ■ という漢字ある?」  元の上の横棒の無い形。πみたいな。  → さがしたらありました! 第2水準なのでデジタル文字で表示もできる。「兀」。コツ、ゴツが音で、高くつきでる、はげる、などの意とか。

※ 『1973/07/08 もっと化学的にいえないの?』 : 「まやくは少量でも、〜」  以下、素人で高校生のwakaの、ほぼなんの裏付けもない、麻薬に関する当てずっぽう理論。(証明する気のほぼない仮説)  よって、真偽は不明。(おおむね偽でしょう)

※ 『1973/07/09 この男、永遠にねるのかなあ。』 : 「高■■■ :どうして、こう、名前と現実が一致したのだろう。」  高■■■君は、抜きんでた好成績男子。display『1973/06/13 ruby』にてタカ■■氏としてすでに登場済み。
: 「もう、このキマツテストステルカァ・・・」  display『1973/06/14 すこしゆるい人』冒頭に、  >二学期の中間は、文化祭や運動会でかんばしい点がとれないだろうから、一学期のうちに点をとっておく必要がある。一学期の中間はあんまりよくないから、残されたのは期末だけである。<  とある。一学期中間(すでに済んでる)、一学期期末(真っ最中)、二学期中間(三ヶ月後ぐらい)、これらが順に、あんまりよくない、ステルカァ、かんばしい点がとれないだろう、ということになってしまっては、かなりやばい? 年間で考査が5回、そのうち1〜3回まで低迷となると挽回もままならないはず。遠目とはいえ、落第までみえてきているかも。
: 「こんどのテスト、ひどい点だろうから、このためにうちひしがれ、劣等感におちいったぼくを題材に物が書けるでしょう。」  日付が変わったばかりで、まだ朝になっていない。事前にこういうことを書いて、あるいは、言って、つまり、やる前から心折れているか、すでに。 または、だめだだめだと卑下して、ハードルを下げておいて、事後に思っていたほどはひどくなかったといいやすいようにしている、のかな?  ちなみに、期末テストの日程は、9日月曜、10日火曜、11日水曜の三日間か、または、12日木曜までの四日間ぐらいと思われる。(近辺の記事をみると、初日が9日なのは明記されている。最終日はいつだったのか記載がみつからない)

※ 『1973/07/10 アナアキウキワ』 : 「今、橋の上でこれかいてるが、ノートの白い面が、日に照ってまぶしい。」  朝、登校途上と思われます。
: 「先天的失恋者」  森鴎外『ヰタ・セクスアリス』にある語。
: 「人類の限界をまざまざとみせつけられるので、こういうことを思うと、カナシクなるのだろうか?」  夢、夢想を信じて、支えにして、生きていく、ということはそういう面があるよね。一瞬でも醒めた目でながめてしまうと、悲哀が世界を覆いにやってくるのが見える。怖い。また夢想信仰にもどるしか安寧はない。
: 「アナアキウキワ」  穴あき浮き輪。通常のドーナツ型の浮き輪の別称、空気のもれてしまう穴のあいた浮き輪、この両様に意味がとれる、といいたいらしい。
: 「問題集をやっているとき、みてはいけないのに、かくれるようにして、うしろの解答をみていたのを、」  一冊の問題集で、巻末に解答ページがある類。見たくなっちゃうよね、ふつうに。小学生男児程度では我慢がきかない。(しかしまあ、小学生wakaは、学級委員をよく任されるぐらい優秀だったから、カンニングとか解答盗み見とかしなくても好成績だったはずなのに。つまり、ゲーム感覚で、稼ぐのに貪欲なんだ。豊かに稼ぎ積み上げることに喜びを感じる、できるだけ食べたい、ズルしても食べちゃえばこっちのもの、というケモノ感覚) あまり罪の意識はなかったのでは。イタズラと同類のつもり、または、あくまでも裏切っているとしても自分の良心だけのことで、アンフェアとか他を不利にしているとかそういう意識はほぼなかったような。 おし■嬢は、小学生時代の、才女。 おし■嬢に非難され軽蔑されたりしてやっと、かなり恥ずかしい行為だったのかという意識がもたげてきたりしたのだっけ? (こういうときの女の感化力はつよい)
: 「ラピッドとは?」  rapid なら英単語ある。急速な、急激な、の意。
★ 朝にはなったはずだが、ページのこの辺り、この日の期末試験の前なのか、休憩時間なのか、終わってるのか、さっぱりわからないな(^^;
★ 試験期間真っ最中なのに、こういう記事をせっせと書いていていては、さすがに、あまり点数は稼げないであろう。
: 「幾という漢字の画数を数えるとき、「幺幺」を1つずつかぞえて「6画」とするのと、3画と3画をたして、「6画」とするのと、3画を2倍して、6画とするのと、どれが東洋的なのだろうか?」  ?? なにをいいたいのか、文意が汲み取れない・・  漢字文化圏の教養人はこういう場合、頭の中でどう計算してきたのかしら。ということを気にしているのか!?
: 「将棋盤はやっぱり、しまえるようなものでない、重く大きいものでなきゃならぬ。」  本格的な将棋盤を買いたい、所有したいという欲求、後年ずっと持ち続けたはず。買わなかった理由は、もうほとんど、高価すぎたから、というだけだったような。 しかし、パソコンやネット時代となり、デジタル画面で対局できるようになって、この欲求、急速にしぼんだ。実物の駒を手にすることがほとんどなくなってしまった。
: 「ぼくの四畳半では西の雨戸から中にはいることができる。西の雨戸は下方についているのだ。」  wakaの住んでいる家は家業の社宅という位置づけ。平屋。職場から道路一つへだてた北側にあり、身内では「うらのうち」と呼んでいた。wakaの居室は、北西の角。北側の窓はふつうの高さだったが、西側は茶室のにじり口のような窓だった。ちゃんと、窓の外側に引き戸を引いて戸締まりもできる作り。 父母にこういう形状にしたいわれとか、たずねたことはなかったな。 高校の後半、高校卒業後も、この窓を出入り口にして、様々な友が遊びに来た。玄関からではなく、庭から回り込んで、ここから窓をたたくのだ。
: 「サバのみずには、カンヅメをあける前にカンヅメごとおゆに入れて、おゆをあっためるといい?」  今もこれをしてます。美味すぎる。(要するに湯煎)
: 「左のような二本の中が空洞である棒を用意する。」・・・「すると、今まで、ほんとうに上のつつがのっていたように思える。」  というようなカラクリのある手技のアイデア。waka君、創案らしい。(実行に移しているのかは不明) 一人で遊ぶなら問題ないけど、わりと楽しめそうだけど、人にみせて感心させたいのだとしたら、練習を重ねないとなあ。それに、本文内にもあるけどエンピツの落ちる音などで、ネタバレもしやすいかも。  しかしまあ、すべてうまくいけたとしても、くだらない、というか、内容のない芸だな(^^; 意味無しがウリの芸か。  → 使い切ったラップ(食品包装用のラップフィルム)の芯がたまたま二本あったので、今、実際に試してみた。エンピツの代わりにボールペンを中にいれたが、数秒、上の筒がのっている状態を維持できた。中に入れるのを菜箸にしたらもっと安定させることができたが、これは逆にしっかりしすぎていて心棒がはいっているのがバレバレ。笑。

※ 『1973/07/11 うちわがよく共鳴するのだ!!』 : 「「ナニゴロゴロしてるの?」■■リ 「エイキをやしなってんの。」 「ゴロゴロして、ゲンキをなくしちゃだめですよ。」  妹の■■リは小学三年生ぐらい。八歳年上の兄を叱っている(または励ましている)。  おませさん? 
: 「「あしたでおわる、と考えるからいけないのだ。そうだ、あしたからはじまる!! ドドー―――ン。」」  期末テスト最終日の前夜、ということでしょう。 (となると、これを書いているのが7/11だから、期末テストは7/9〜7/12の四日間ということになるか)
: 「文中の「ガ」は「ンガ」とよめ、といったのは小学1年のときのかつ■■先生。」  なつかしい。一年の時の担任で、わりとおばさん先生だったよね。 鼻濁音、たしかに習ったけど、小学一年なんて、早期だったっけ。もっと上の学年で、たまたま担任外のかつ■■先生が授業しくれたとき? 

※ 『1973/07/13 リンキュウビ』 : 「7/13」  日付が変わった。明記はされていないが、期末テスト最終日はすぎたと思われる。  これで、いよいよ夏休み? (もうほぼ他人事ながら、なんだかわくわくする。笑)
: 「たとえ、いつも人の血をすっているようでも、いつもひっぱたかれていれば、そのうちすわなくなるかもね。」  だめ。百年二百年ぐらいの学習では、血吸いをやめそうにないな。つまり、種族保存のために不利ではなく、有利というか、効率がたいして悪くないってことでしょう。
: 「虫も夜中になり、すずしくなり、さむくなると、どこかでねるのだろうか。」  動物は睡眠しているらしいが、昆虫はどうなんだろうねえ・・ 休憩、休止みたいのはありそうだが。
: 「今日ォ ハタノシイ リンキュウビ  臨時休暇」  テスト後の休み? (生徒のためというより、先生が採点作業するから、かな)
: 「しゃべれ しゃべろ」  命令形は、しゃべれ。これが現在、ネット上の意見の大勢。しかしまあ、当時も今も、しゃべろは少なからず使われているってことらしい。
: 「「あなたの顔はどうなっているの?」 と、テガミ。」  文通相手なので顔が見えない、という設定らしい。
: 「いいかげんにしたまえ」「いいかげんによしたまえ」  言ってることは同じはずなのに、したまえとよしたまえは反対語ではないか、と。  うーん、これ、理由を明解に説明できない(苦笑)  前者は、もう十分だろう、そう自覚せよ、と諭している。後者は、もう十分だろうから、それ以上はするな、とより具体的に教導している。  というふうなところかなあ・・
: 「受難節」  じゅなんせつ。キリスト教で、復活祭の前の一週間をいう。
: 「「心の中を/あ/め/させようとする」とはどういうこと。」「いっくら考えてもわからん。」  左頁のごちゃっとしたメモ書きの一部がどうしても読解できなかったようす。 どちらかといえば、あっさりあきらめております。  → これはですね、左頁のメモでは「ローマ人のすばらしさ、アメリカ人はやむをえず、性器をだして、上とみとめさせようとする。」とあって、その終わりあたりで行替えしていて、「めさせようとする。」となっており、これがとなりにある別項目の「心の中を」につながるように見えた、そうとしか見えなかった、という誤読または見間違いだね。  一生わからないままになりそうだったけど、48年後、この通り解けておりますぞ、waka君!
: 「そんなふうに考えた時を思いだすと、自分の過去とは、サッカクでなく、ほんとうにあったんだ、という気になる。」  回りくどい気がするが・・  それでも錯覚の中でそう感じているだけかもしれないから、錯覚でないという検証には使えないように思うぞ。 つまり、検証ではなく、どれだけ「心がうなずける」か。真ではなく、信。
: 「スケートですべる スケートでころぶととれる?」  なるほど。
: 「なまいきそうな美人、やさしそうな美人はそれぞれちょっとちがった理由でいじめたくなる。なまいきそうなブスにはかかわりあいたくない。」  非道し! (^^;;;
: 「鳥がはやさをかえなければいつもまっすぐ下にたれている?」  鳥というより飛行機のようにみえる。  慣性力、だけでなく、空気抵抗もあるから、単純にはいかないよね。
: 「よこやまみつてるもがんばっているではないか。」  横山光輝。wakaが児童の頃、『伊賀の影丸』などで楽しませてもらいました。まだまだ忘れられた人にはなっていないって思った。どこかで何かの作品をひさしぶりに目にして、まだちゃんとそこそこのヒット作を描いてるって感じた。ということでしょう。 ちなみに、wikiによれば、氏の代表作の一つ『三国志』は、1971年から1987年まで連載されたという。本項の1973年当時は、まだその序盤か。
: 「ボーリングやってるときたしざんができなくなることあり。」  ボーリングに(7/11に「あしたのテストパーッとやって、ボーリングいこう!!」という既述あり)行っているとしたら、一人は考えにくいので、友といって遊んでいるんだろうけど、だれといってどんな話をしたかなど、まったく触れてないな。これは、めぼしい何かがおこらなかったということもあるんだろうけど、友人の名前とか経緯とか書きはじめるときりがなくめんどうなので、意識的に除外している、のではないかな。  こういう事柄は省略、というルールみたいものがあるもよう。学校の日々の授業の様子とか友たちの様子とか、書こうと思えばネタは尽きないと思うけど、そういう一般的な日記的内容は二の次、という序列みたいものがあるな、たしかに。(つまり、費やせる時間はかぎられており、それで書けるもの、書きたい序列の上位に、一般的な日記的内容はないってことでしょう)  なお、ボーリングの際、足し算がパットできないというのは、一度や二度ではなかったような気がする。たまたまとかではなく、重い球なげあそびである種の疲労、負荷がかかると、脳の単純計算の領域がマヒしやすい、とかの謎の連関がありそう。wakaだけなのかもしれないが・・ 

※ 『1973/07/14 こういう浮力の問題はむずかしい?』 : 「故 古文」  故=古+文 かと思ったけど、よく見たら、微妙に違うね。
: 「マスコミのみにくさは、」・・・「しゅうかんしを買うな、しゅうかんしを飼うな」  正論だが、窮屈か。オモシロイをすててしまうのは残念だよね。しかし、残忍を楽しむようなおもしろがり方は、賛成しかねる。程度の問題か・・
: 「うちの外側からみると、壁とぜんぜん調和しないマドが多いが、こういうのは内側からみるとまともなのか?」  wakaの住む家のことでなく、往来を歩いていて目にする一般の人家について、みたいだ。  → 現在、こういう不調和な感触をもつことはまずないが、それは半世紀の間に、世間一般の人家のデザインが洗練されてきたためなのか。あるいは、私の感覚が、不調和に慣れてしまい違和感をいだかなくなったということなのか。これはちょっと、どちらもありそうで、わからない・・ 
: 「大通りのはじとはじ(AとB)をいくなら、わりとかんたん。」  いったん、向こう側に渡ったあとに遭遇する十字路の横断歩道の場合、直進が赤なら、停まらねばならんぞ。また元の側に渡り直すわけはないし。 (なんかね、影踏みのような、ある種のゲーム的な扱いをしているか。停まらないで進みつづけられるか、というようなルールで)  ← いや、この項の趣旨はもうちょっと繊細か。AからBへ(またはBからAへ)向かうとき大通りの対岸になるけれど、信号が青の横断歩道にさしかかったとき渡ればよいので信号待ちという苦難に遭う確率は低くスムーズである。つまり、距離は離れていてもその行程の気持ちはなごやか。心の負担は小さい。一方、後半にあるように、大通りをはさんで対面するAとBの場合、近いのに、赤信号で待たされる確率は半分はあって、比較すれば苦難の色濃い。近いのに。・・というような不思議を言いたいんだろうな。
: 「ノ メ こっちが正しい!! 今まで、ヽ メ こっちにかいてたよお!!」  ほんとかい? 左上〜右下の斜めを先に書いてる、私、今も。  ネットで調べたら、おお、ほんとに右上〜左下の斜めが先だった。へ〜〜   こんな初歩的なことで、勘違いしたままか、半世紀も! (というか、本文の時点で自分でその間違いを指摘しているのに、直せなかったんだ、いつのまにか元に戻っていたんだ。へ〜)  → 上は、気の中のメについてだが、カタカナのメを調べたら、右上〜左下の斜めが先。私は左上〜右下の斜めを先に書いてる。  → ひらがなの め はどうか? 調べたら、これは、左上〜右下の斜めを先に書いて、次に の を書いている。私の書き順も同じ。  (うーん、こうしてみると、気 も メ も め も、同じ感覚で書ける私の書き癖のほうが、整合性がありそうなんだが・・ )
: 「外国の外交官が、ふにんしている国の言葉をつかわないのは、日本だけ。」  ほんとにほんと? まさかね・・ (半世紀前であっても、ちょっとまゆつばな・・)  赴任する以上、現地語はマスターまでは無理の場合でも、勉強はするでしょう!? 意思疎通の細部に齟齬があってはならないときは、共通して使える英語などとなったりはするのだろうけど。  日本だけ、というのも、なんかおおざっぱな言い方。先進国の中では、とか、条件がもっとせまい中では日本だけ、というようなことになるのでは、問いただせば。
: 「先生のたつ所は1つ高くなっている。」  以下、教壇の一つ高くなっていることについて吟味。 ・・・教壇が一段高いことの意味を、物理的な上下でばかりとらえているなあ。半分以上、象徴的な意味が占めていそうなんだけど。
: 「形もにてるし、音も似てる。」  「た」と「大」の相似をいってる。(発見したように)いってるけれど、もともと「た」は「太」の草体だったはず。似てて当然では。
: 「ぼくのうでのうちがわには、カにさされた、それにしては小さい赤いあとが点々と。」  発疹? 虫ならば、蚤とかダニとかもありそう。夏だし。
: 「なぜ、用をたす所を、便所というのか? 」 「便所 べんじょ びんじょ?」  辞書によれば、当初は、適切な所、という意味だったらしい。 古くは、「べんしょ」「びんしょ」とも読んだらしい。
: 「ぜんぜん勉強できないのに、文学クラブの部長になったり、文化祭の実行員になったりするやつがいたなんて!!  ぼくのこと。」  やはり引き受けてしまったんだね。(前段は『1973/07/05 名札』にあり)  自分に呆れているか。
: 「王 相手の王 から遠い所からせめると、せめやすいが、王までの距離があり、相手の王に近い所からせめると、せめにくいが、王までの距離がちかい。そこで、居飛車はせめやすく、振飛車はせめにくい。が、居飛車の陣はもろく、振飛車の陣はかたい。というより、いちどやぶられると、居飛車の方がもろい。」  だいぶ言葉足らず、または錯誤しているか。  本文は、居飛車振り飛車対抗型の場合、居飛車が攻勢となり、振り飛車が守勢となりやすいことを言っていると思われるけど、これと玉との距離を関係づけるのはおかしい。両陣営とも、攻撃陣は同じぐらい玉から遠いわけだし。  なお、居飛車の陣形がもろいのは、当時の常識の船囲いのためでしょう。左美濃とか、居飛車穴熊とか、まだほんとど開発されていなかった、流布していなかったと思う。
: 「え■の会 もうみはなされた? だいぶふざけたので、あんなふまじめなやつにこられちゃ、こまる、ということになったのか??」  江■の会、だったっけな。母校中学の理科系クラブの合宿(=八月頭ぐらいにある臨海実習)のサポートをするOBOGたちの会、だったような。在校生は夏の臨海実習の際、先輩OBOGの世話になり、OBOGになるとその中の都合のつく有志がこんどは世話をする、そういう順送りの仕組。OBOGは、学校の合宿所でなく、民宿みたいところに泊まったはず。夜は、未成年以外は酒ものんだり。(未成年でも大学生はのんでたっけ?)  本文にあるように、wakaはすでに高校一年の夏、OBとして参加しているもよう。一年前、1972年のことだけど、手帳とかノートとかにもこのときのこと、記載がなかった。(江■の会についての記載はここが初かも?) 1972年夏の参加については記憶にもほとんど残っていない。  そして、今夏については、参加要請、てつだってください、等の連絡が、この7/14の時点でまだ無いってことでしょうね。  だいぶふざけた、ということだが、基本まじめ人間のwaka単独ではまずありそうにないのだ。理科系クラブに所属していた、wakaの友人、悪ふざけを先導、扇動する、これらに合致するのは、笹■だな。(『1973/07/05 名札』参照)。笹■とつるんでだいぶはちゃめちゃしたので、翌年、笹■、wakaらはリストからはずされた、とか?  (先走って書いてしまうと、しかしこの翌年、wakaが高三の夏には、江■の会に参加できている。その詳細については、掲載がその辺りに達したときに)

※ 『1973/07/14 カトリセンコウ』 : 「セルロイドのせんめんきをストーブの上にのっけて、」  合成樹脂なんだけど、ビニールとかセルロイドとはちがうような。もっと硬そうな材質だったはず。 直火に当てれば、すぐ融けたり燃えたりしそうだけど、水が入っているとそうはならない。たとえ紙の容器でも(紙は実地には試していないが)、水が入っていれば燃えない(湯が沸かせる)そうだ。  本文で言っている事件は、ほぼ記憶が残っている。 まだ小学生ぐらいのとき、話題のしかしややエッチな外国映画をTVで放送するというので、姉が見ようといって、弟wakaもつきあった。そのとき姉弟のみ在宅。 冬で、ガスストーブを点けており、親からストーブにはやかんとか洗面器をのせて常に蒸気を発生させておきなさい、といわれていたのでその通りにしていた。 思っていたよりだいぶエッチで(そうだ、確か、ジョンとメアリーとかいうタイトル。今、ネットで調べたら、『ジョンとメリー』1969年米、これがそれっぽい)、姉弟ともちょっと息をのんで画面を見つめていた。 そして、息をのんでいたそれらのどこかのタイミングで、何か異和感があり、はっと気がついたらTVのそばのストーブで、洗面器が融け落ちているところだった。沸騰していた湯がすべて蒸発してしまったのだ。 姉も弟もあわてて、さすがに映画そっちのけで、火事にならぬようなんとか消火。  ・・・というような顛末。その後、やらかしちゃったものはしょうがないとあきらめて、融けたあと固まった洗面器の残骸はどかして、今度はちゃんと金属製の洗面器に水を入れてストーブにのせて、映画のつづきを(だいぶ間が空いてしまったが)鑑賞したんだっけな。 本文にもあるけど、弟は融けて崩れ落ちる洗面器をみたときゲラゲラ笑いだしたし、姉はかなりナーバスになって、しばらく(一二時間は)不機嫌でした。(^^;;  → 1969年公開の米映画をTVで放映ということは、早くても一二年、ふつうは数年後だろうから、指折りかぞえると、姉弟とも中学生以上でなければ計算があわないか。
: 「センメンキのせんぱい、」  これは洗面器つながりで連想したと思われる、まったく別件の記憶(についてのキーワード)。  今するすると、思いだしたが、どこかに集団で泊まったとき、風呂にはいった先輩(男)が全裸で外に出て来て、われらと顔があってしまい、先輩、とりいそぎ局所を洗面器で隠す。という小事件があって、あまりに先輩のようすとかアクションが滑稽で、みなで苦しいぐらい笑いこけた。このことをいってると思う。  集団で泊まったのはどういう機会かを考えると、修学旅行とか臨海学校は学年単位だから、先輩といっしょには行っていないはず。学年をまたいでともに旅行にいく、泊まる、という機会は、ほぼ臨海実習のみと思われる。wakaらが現役生徒(中学生)のときなのか、OBとなって江■の会として参加した高一のときなのか、そこまでは思いだせないけれど。
: 「あしのおやゆびのささくれを(?、つめのよこのちょっともりあがった皮を)かみとれた。」  おお! これはすごい。からだ柔らかいね。
: 「なぜ、どんなまほうびんも中をみると、カガミのようなメッキが、2ヶ所ほど、直径1cmぐらいの円にはげているのか?」  これは劣化で剥げただけ? それとも元々剥げていて、仕様?  新品売り場で確認するのが最善だが、当時にもどれないので、ほんとうの確認はこれではできないか・・ (現在でも、新品売り場の魔法瓶の内側に剥げた箇所があるなら、当時も仕様だったと言ってよさそうだが、剥げた箇所が無かった場合、当時も無かったとは言い切れないでしょうね)  → 今、ネットで調べたところ、どうやら劣化ではなく、仕様らしいな。(7:3で劣化と思っていたので、すくなからず驚いた・・)
https://support.tiger.jp/faq/show/522?back=front%2Fcategory%3Ashow&category_id=184&page=1&site_domain=faq&sort=sort_access&sort_order=desc
>魔法瓶は内瓶と外瓶の二重構造になっています。この内瓶と外瓶の間にマットと呼ばれる粘土を置いていますが、その部分に銀メッキがのらず、黒く見えているものです。このマットにより内瓶と外瓶のすき間を均一に保っています。
: 「サカエ町の方で、じゅうせいがつづけさまに4、5発。おそろしい。まったく、ことなった、考えもしない世界が、地理的(絶対的)にはすぐそこにある   パンクの音だったかしら?」  日付の変わる直前なので、たぶん深夜。  千葉市とその周辺に在住の方ならご存じと思うが、夜の栄町はアブナイ繁華街なのです。最近はちがうのかもしれないが、少なくとも、当時は。

※ 『1973/07/15 夏 冬』 : 「選手」  この語、言葉、じっくり吟味しようとすると輪郭があいまいになるな。
: 「ときどきふと、イモウトたちを、ふみつぶしたりしそうになる。」  こわい衝動だ。じゃれあそぶ程度に踏んだりは、してるような書きぶりだけど。
: 「ゆうしょうカップ はい」  勝利の美酒、褒賞の酒、そういう元々の意味を継いでいるんだろうなあ。 洋の東西でともに昔から、なのか。東洋には昔はなかったのか。
: 「いまさら、全国高校野球の大会球場を甲子園からうつすことはできないだろう。」  なぜ、移したい? (^^;  あまのじゃく気質ですな・・ 
: 「なぜ、いろいろの大会の主催者、スポンサーに、いろいろの新聞社がなるのだ?」  囲碁将棋もそうだけど、ようするに、読者である一般大衆の資金が、文化や競技を支えている。わるい構造ではないけど、というか、よくぞ巧みな仕組が成立してくれた、と思うけど、新聞社にメリットがあることはわかるけど、メリットに見合うぐらいの値付けになっているのかな・・  新聞社が持ち出し、つまり、過剰に払っているような気もする。逆にいえば、新聞社に多大な利潤をもたらしているようには見えない。  まあ、新聞社が、新時代の波にうまく乗っていってくれればそれでよし、新聞社が倒れたとしても、スポーツや文化の支え手が新たに交代するだけならそれはそれでいいけどね。
: 「まえばでかむと、まえばがおかしくなるぐらいかたいオセンベもある。」  前歯を一語(一回)のみ、という条件なら、「まえばがおかしくなるぐらいかたいオセンベもある。」でいいんじゃない?
: 「夏→夏→■→■→冬」  この形態変化は、かなりのウルトラCだな(^^)
: 「ぼくが足をくんですわったり、ねころぶのはちょっとくるしい。が、まあまあ、ふつうにそんなかっこができる。」  うーん、もうひとつ、見えないが、要するに、あぐらをくむことではなく、椅子などにすわったとき、足を組む(重ねる)動作をいってるか。 ふつう、かっこいい姿なんだけど、waka君は(太っているためか脚が短いためかで)かっこいいところまでは行かず、行かずとも、まあまあまでならちょっと苦しいながらも、できる、ってことかな。
: 「かっこ」「かたち」「すがた」  似ているし、成り立ち的にもなんとなく関係ありそう、たしかに。

※ 『1973/07/15 という水のみ』 : 「ゆびをなめて、それを足のケガにぬる。」  足なので口をつけられない、のでしょうね。いずれにしろ、指を介するにしろ直接にしろ、清潔とは言えないが、動物ならあたりまえの行為だろうから、一概に否定もできないと思う。
: 「という水のみ」  (このイラスト、射精するチンポみたい。^^;)  この飲み口、まわりの様子も含めて、なんとなく記憶の底の片隅にある。・・球場の水飲み場だ、たぶん、やはり。  ※なお、この頁右側に着いている薄茶色っぽいよごれ、何かで踏んづけたのか、あるいは、汗と土埃の腕あたりを押しつけた跡か。なんか、外で開いて書いていた痕跡っぽい。 (この日7/15は日曜日、そしてこのイラストやらよごれやらから、当てずっぽう気味に想像すると、高校野球の地方予選でwakaの高校が今ちょうど試合をしている、応援にきている、ただしあんまりのめりこんではいない、という状況もありそう)

※ 『1973/07/16 地論』 : 「A君、相対党をつくって、人々の思想を完全に自由にしようとする。が、相対党の最大の矛盾は、思想の完全自由をめざしていながら、相対論をおしつけようとしたことにあった。」  笑。
: 「もし、友だちと旅行するとしたら、このノートを夜、みられるかもしれないということを考えて、旅行などヤメロ。」  この冒頭文だけでいいのに、後続がしつこいね・・
: 「フクセイいっぱい。ヤルキナシ。デモヤラネバ、ワスレチャウ。 なるべくはやくしないと、連想が、うまくいかなくなる。」  この段落、上から矢印で関連づけられているけど、内容的には飛躍しててあんまり関連していない。  当ノート、心記にまつわる不安とか妄念とか、浮かぶままに書きつけている感じか。  フクセイ、つまり、仮メモ状態のものを清書すべき箇所や領域、これが手がつけられないまま大量にたまってしまった、と。なのでもう、清書しきれるものではなく、ヤル気がでない、と。 しかし、やらないと仮メモ(キーワードなど)から本来書くべき内容を(連想で)引き出せなくなりそう、と。
: 「答案かえってくる。A君、熱いといって下じきであおぐ。」  状況的に、暑いが適切。
: 「大帝 ダイテイ タイテイ >どっちによむ? 場合による?」  辞書では、たいてい。
: 「人頭税  じんとうぜい にんとうぜい }どっち??」  これはどちらもあり。
: 「だから、A君はあくまで、いいえ、といいはれば、抗弁できたろうに。」  ぬすんだ時点でアウトだよね、全知視点が審判するなら。
: 「先生たちも、問題をかえないで、いい点をとるやつをさがした方が、こういう悲劇はおこらなかったのでは?」  悲劇ではあるけど、珍しい部類の悲劇か。問題が変えられずにA君が良い点をとり犯人と判明する、ストレートな悲劇とくらべて、どちらがよいか、なんて決められない感じだよね。  宝をみつけたのに、もう素直にそれを寿げない状況に堕ちている、その落差の分だけ、悲劇性は濃いというべきか・・
: 「同じ事を悟っても、それが行動にあらわれる時は人によって、ことなる。なぜなら、人自身がもともと異なっているのだから。それぞれの人の本質的なもの、またそれぞれの人の目がことなっているからだ。そこで、一般式、公式である「悟り」が同じでも、そこに代入する数値、つまり具体的な事柄がことなっていれば、結果は異なる。」  むずかしく言ってるけど、要は常識的、あたりまえのことか。
: 「にげたァニョーボーニャミレンハナーイイガーオチチホシイガァルソノコがかわいーい」  ソノコとは、女房の子、そこにいる子、のどちらなのか、と。 しかし、ネットで調べると正しい歌詞は、「逃げた女房にゃ 未練はないが お乳ほしがる この子がかわい」ですな。 聴きまちがいか、あるいは、珍しいことだろうけど歌い手の歌いまちがいを聴いたか。 (浪曲、演歌の場合、故意に歌詞を替えるということもあったり? しかし、この子をその子に替える意味ってあるかな?) (観客の中の少女に名前を訊いたら、園子だった。とか)
: 「女房 :ニョーボ(にょうぼ)× ニョーボー(にょうぼう)○ }?」  にょうぼ、とも言うよね。辞書でも見出しになってるし。
: 「房 房 ?」  一字目は、頭が点。手書きの場合、点にする癖が少なからぬ人にあるかも。  まちがいとも言いきれないかも。

※ 『1973/07/16 ジェントルマンだもん。』 : 「それならいっそのこと、いたみもかゆみもなんも残さなきゃいい。」  かゆみなどが、蚊や蚤の戦略という観点だけど、素朴に考えれば、刺される人(動物)の側の防御反応、危険知覚のためなのでは。 攻撃されたことを知覚できないとしたら、まずいよ。
: 「ノミってちょっとちゃただけじゃ死なない。」  ちょっとちゃただけじゃ ← 意味不明。誤記なんだろうけど、正記が想像しづらい。ちょっとやっただけじゃ、か。
: 「ほんとにこうなのかしらね? あせがでて、それがジトジトきもちわるいのが、ノミがさしてるように思うの? なんで、アセがでてくると、チクチクいたいように思うの 感じる かしら? 汗の中の塩が結晶化するから?」  いずれにしろ、読んでるだけでも、きもちわるいね。やだねえ。  夏、湿気、身体にまとわりつく虫ら。じめじめでいらいらか。
: 「検事が被告の味方で、自白をした方が、被告に有利なことをしり、そうさせようと、好意から、証拠をにぎっているような態度をとっている場合。」  もある、かもしれない、という付け足しだろうか。裏の裏の想定? 
: 「もし、害虫がでて困るようだったら、生殖能力はずばぬけているが、害的行動をしない亜種をつくって、はなす。」  これはwaka君の独創ではなく、ニュースか何かでそういうような方策もあるということをすでに聞きかじっていたのでは?
: 「たとえば、生殖能力のないメスをたくさんはなすとする。そのメスと交尾したオスの努力はみな無。ところが、そうなると、次の世代は少なくなり、競争がゆるくなって、ダイハンショク。」  うーん、個体数減少、競争がゆるくなる、まではいいとして、大繁殖がロジックミスのような。同じ量の餌がとれるなら餌に見合った個体数までは回復できそう。以前と同じ量の餌環境なのに、以前を上まわる個体数までいくイメージがある、大繁殖には。
: 「そいつらはとても美しいのだが、その美しさで、人をつっていたのだ。」  赤字で「小説化!!」などとあるが、当時はどの程度なのかもう分からないが、今ではすでにありふれたアイデアだよね。

※ 『1973/07/17 ひとでにかなうヒトデなし』 : 「ひとでにかなうヒトデなし」  本項の意味しているのは、人手にかなうヒトデなし(人に攻撃されても負けない海の生物のヒトデなんていないよ)ということでしょう。 同時に、裏の意味として、海を荒らす無数のヒトデを人は駆除しきれるものではないよ、ともいっているはず。  前項でオニヒトデが登場しているので、本項でも海の生物のヒトデをいっているのは間違いなさそうだし、語呂のよい言い回しが気にいったのだろうと思うけど、 仮に(無理気味に)、ヒトデなしを人非人という意味にとるなら、「人手にかなう人で無し」と読むとしたら、しょうしょう、ダークな意味合いをまといそう。人非人は普通人の手に余る、手に負えない、みたいな。  さらに(もう本項からは離れてしまうが)、わずかに言い回しを変容させて、「人手にかかる人で無し」と言ってみると、もはや立派な諺じみてくる、ではないか!? (ちなみに、左の短句でネット検索したがヒットはしなかった)  あいつみたいなヒトデナシは、殺されてもしょうがない、早晩刺されるにちがいない、という呪い言葉になって、なんだかいかにもどこかで誰かがつぶやきそうだ。  「ひとでにかかるひとでなし」で、章題とかにいいかもな・・
: 「このくみあわせの中でAA、BBはどれとも矛盾しないが、ABとBAは矛盾する!!」  この項だけでは、説明不足でよく分からない。  → たぶん、これは、前項の注釈(または分析か発展か放散)だね。前項の人手、ヒトデがそれっぽい並びをしているので。  AAは人手−人手、BBはヒトデ−ヒトデをいい、ABは人手−ヒトデ、BAはヒトデ−人手をいう。ということかな?

※ 『1973/07/18 女の子を犯したい。』 : 「小説をかくという事はきたない事か、きれいな事か? 」「バカラシ、ワカラン、タリラリラ〜〜ン.」  ああ、なげだしてしまった(^^)  きれい、きたない、という問題立て自体が、解答困難だから、いきづまっちゃう。当初の「すべてを小説のために体験する人」の問題からもそれてしまってる。 (それに、小説、物語といっても、広いからねえ・・ どんな題材でどのように書くかによって、偽りや穢れに染まったり、ときには、これはもう人として許されない、なんてこともありそう。結果産み落とされた、魂を放り棄てたような作品、やばそうだけど覗いてみたい気もする。もちろん真逆の、真善美に適う創作によって産まれた作品だって無数にあるんだろうけど、いきすぎて、まったくの無菌状態、清潔きわまるようなことになると、魅惑とか吸引力とかが欠落してしまうのではという気もする)  すべては取材、すべては遊び、とみなせばみなせるが、(すべては舞台といったのはシェークスピア? 取材と舞台は似て非なるもの?)、そうみなしてもみなさなくても、大差ない人生をすごさなければならないなら、たのしげな、気分の楽な把握をしたっていいかも、たしかに。
: 「おみそれ、とは? この意は? 語源は?」  おみそれしました。おおざっぱに言ってしまえば、あなたを過小評価していました(申しわけありません)、おどろき、そして感心しました、と伝えている。 相手は、わるい気分はしないだろうな。

※ 『1973/07/20 さる』 : 「その言葉の真の意味を覚えるとき、その名目上の意味をしらない方が覚えやすそうだが、その名目上の意味を知って、それと対比させるか、それをインスピレーションのキーワードにして、真の意味を覚えることもできるし、しやすい。」  具体例がないと何を言ってるのかよくわからないよ(笑)
: 「苛× 苛○ >?  サイナム?」  デジタル文字の形の苛は×、旧字の(左右に分離した)草冠の苛が○、ということだけど、微妙なところらしいぞ。 (当時も使っており半世紀後の今も手元にある角川漢和中辞典によれば、草冠は、通常は左右に分離で四画、当用漢字では分離せずで三画、とある。よって、苛は当用漢字ではないので分離した草冠が正しい。とwakaは判定したってことか。 しかし、wikiなどみると、昭和21年に当用漢字が制定される以前、明治の頃の印刷物から、活字はふつうに三画草冠だったらしく、四画草冠が旧字というのは誤解だそうな。現在は、どちらが正しいといえない、いっても仕方がないような差異=デザイン差ということになっているらしい)  ふつうは、いらだつ、が読みらしいが、苛む(さいなむ)とも読むもよう。
: 「「ひとつ」から「ここのつ」まで、なんで、最後に「つ」がつくのか?」  つは、和語の数詞について物を数えるのに用いる接尾語、というのが辞書的な説明だけど、これって実は、疑問に答えてないよね。 物を数えるときの調子、区切り感、そういうのにぴったり合ってたってことなんだろうなあ、ツ、という発音、舌や口内の具合も。
: 「ぼくは学生服以外、まともに外にはいていける服を持っていないのです。うちで、はくふだんぎなら、たくさんあるのですが。そこで、外へは、とこやでもかいものでも、学生服。黒のズボンと白のワイシャツ。」  はく、はないでしょう。服なら着る、でしょう。いくら、夏場でズボンメインの服装とはいえ。(つまり、はくなら、服でなくズボンというべき)
: 「進水式 浸水式」  浸水に式はないよね(^^;
: 「浸 侵 >この差は? 」  浸水、侵入の差から類推できそう。
: 「オーヤン フイフイ フィーフィー >どっちが正しい?」  wikiによれば、欧陽菲菲(オーヤン・フィーフィー、繁体字: 歐陽菲菲)は、台湾出身の歌手。現地語での発音は、Fēifēi。
: 「シャンプーかけて、リンスすればフケとれる。 この意は??????????????」  実際、リンスって要するに何をしているの? 
>リンス 名 (英 rinse 「すすぐ」の意) 洗髪した後、シャンプーや石鹸のアルカリ分を中和させたり髪に油分を与えたりするために、レモン汁や油性剤などですすぐこと。また、それに用いる液。 精選版日本国語大辞典 (C) SHOGAKUKAN Inc.2006<
 ↑ おおむね想像通りだが、ちゃんと調べるのは初めてかも。
: 「「ひまさにも ああ ひまさにも ひまさにも」 しだいに喘ぐような調子で歌う。」  暇でしょうがない? ひまにもすめるあきのそらかな、のひまもわずかに含んでいる?
: 「A君の特徴になる? (8/3)」 「知らなかった、知らない、というべき? (8/3)」  これらは、は8月3日(二週間後)の追記ということでしょう。
: 「将棋はなぜ戦う?」  現在も(ときには毎日のように)将棋指してるけど、なぜ戦うかなんて、考えたことない(^^)  戦ってはいるけど、要するに、ゲームがたのしいんだよね。たのしいからくりかえして指す。勝ったり負けたり、一喜一憂、その総体がたのしい。くりかえしているうちに、習慣化して、その場にたてばもうそのまま心身をゆだねてしまうのがふつうになっている。というかんじ? 
: 「「茅盾」 なんとよむ???」  矛盾の誤植? かと思ったら、人名らしい。
>ぼう‐じゅん バウ‥ 【茅盾】 中国の小説家。本名は沈徳鴻。字(あざな)は雁冰。浙江省桐郷県の人。文学研究会に加わり「小説月報」を編集。写実主義を唱え、外国文学の紹介に努めた。代表作に「蝕」三部作、「子夜」「霜葉紅似二月花」など。((一八九六‐一九八一)) 精選版日本国語大辞典 (C) SHOGAKUKAN Inc.2006<
 当時も、この人の名を目にしたのかな? 
: 「A君は、B国の兵士。A君はC将軍の部下。C将軍が、B国をうらぎろうとする。A君はB国とC将軍のどちらにつくべき?」  A君個人だけの利害好悪で決められるならいいけど、家族がB国で暮らしているなら、そう簡単には裏切れないだろう・・ というか、ほぼ無理。一気にクーデターでB国を乗っ取るとかでないと家族の安泰は望めぬ。
: 「饐える」の偏二種「どっちが正しい??」  食の上部(傘の下)にあるのは点なのか横棒なのか、の差か?  饐える 食 良い  饐だと、横棒か。  手元漢和辞典をながめると、古い字体だと横棒になってる。これも、正誤を言いきれない差異の類みたいだ。
: 「A君、前に読んだ「明暗」をぱらぱらとめくり、数行よむ。それから、その本をしまって、「漱石みたいな迫力はないな。」と一人言。」  謎文。  漱石作の『明暗』に対してこの評は異和感なので、念頭にあるのは別人の文章か。『明暗』の文章と、その別人の文章(たぶんA君≒waka自身の文章)の迫力の差を改めて感じている図、ということになりそう。
: 「上■部とは? 意と読み。」 ■は月+専(右上に点)。じょうはくぶ、と読みそうだが、デジタル文字がみあたらない。 手元漢和辞典にはあり、上■で、肩に近いほうの腕をいう。
: 「まるで漢字が読めない。「石の血脈」の中の字なんか、とくに。ぼくの語力はなんてひどい程度か!!」  『石の血脈』、半村良の小説。
: 「小説にはよく性交シーンがでてくるが、そういうのをロコツに描写する小説にかぎって、子供が生まれない。また、子供のうまれる小説(純文学が多い)の多くは、ロコツな性交シーンをださぬ。 ほんと??」  おもしろい把握、区別。しかしまあ、エンターテインメントとしての性愛シーンの場合、子供云々は度外視が多いよね、確かに。
: 「噛む 掴む」  どちらも本文のほうが正字らしいが、デジタル文字にはなし。
: 「国 こっちの方がくにらしい。  國」  手元漢和辞典によれば、國が正字。新字体の国は、俗字の■(くにがまえの中に王)に一点を加えたもの。
: 「それは権力というもの自体が持って不明確さにつながっているような゛。」  小説中の不可解箇所の転写か。最後のなに濁点は、waka君の誤記っぽい。
: 「学生は四無主義なのではない。「コトナカレ主義」なのだ。すべてをすてているのはではなく、自分の小さな、平和な生活は守ろうとしているのだ。少なくとも、コトナカレ主義は四無主義より多く、四無主義はほんの一部をしめるにすぎぬ。」  四無主義をネットで調べると、無気力、無関心、無責任、無感動とか。無気力、無関心、無思想、無感動という説もあり。
: 「小学校の時の、日立の子と、中学のマヒは似ていた。」  ふと過去の記憶が浮かんできたか。マヒは、中学同級男子のあだ名。 日立の子は、当時は思いだせたんだろうけど、今はまったく記憶になし。
: 「犯罪組織の原則はこれではなかろうか?」  いわゆる反社会的組織、暴力団とかテロ集団とかは、これとはちがうような気がするな。 むしろ、一般企業でやっている、地道な小さな不正とその堆積みたいことなら、現実にある、ありふれてさえいる、という気がする。  具体例をなにかあげるなら、個々にとっては短時間のサービス残業を、多数にやらせて、膨大な人件費の節約(というより窃取または詐取)をはかる、とか。  何十年ものあいだ製品の規定の検査を省いて、労力と時間を節約した(というより顧客をあざむいて不当な対価を得つづけた)とか。  もっと巧妙な、実質的犯罪行為をしている企業って、あると思う。もちろん零細企業とは限らない。その精妙とまで言える仕組を、関わっているプロ(企業人)はよく理解して知っていて、知っているけれどそれで飯が食えているので口外はできなくて、という人たち、街のあちこちに棲息していると思うんだけど・・ 
: 「はしゃぐ のどがかわく ・・・??」  なにこれ、と思ったけど、ちゃんとそういう意味もあったんだ!  漢字をあてれば、燥ぐ。乾燥する、乾くなどの意がまずあったらしい。
: 「人種は異根か同根か?」  遺伝子解析でだいぶ精緻に検証できるようになってきたみたいだけど、異根、同根、まずこれらの定義をきちんとしてからでないと、先に進めないような。 どの段階から人間とみなすかによっても色々ありそう。 (単純に考えて、同じ祖から枝分れして別々の人種になっていったのではないの? つまり同根。  別々の祖の子孫が別々の地域で発展してそれぞれ独自の人種となった、あるいは、別々の祖の子孫がどこかの段階で交配して新しい人種が始まった、というのが異根説だろうけど、 それ以前に血統的にまったく関係のなかった二つの生物が交配できるものだろうか。 交配できるのであれば、それ以前の大昔のどこかで同じ祖から枝分れしているはずで、つまり、直近では異根にみえるけど、長い目でみれば結局は同根ということになる)
: 「鳩尾 :キュウビ :みぞおち」  なぜこの漢字なのかの説明がみつからないが、形状的な相似なんだろうな、たぶん。  みぞおちのほうは、みずおち(飲んだ水が落ちるところ)からきているそうだ。
: 「滴る したたる○ ほとばしる×」  ほとばしるは、迸る。
: 「残虐をきわぬ血を好み、」  うーむ。書物からの転記なら、ほぼまちがいなくその書物での「きわめ」の誤植でしょう。 きわぬる、きわぬ、なんて動詞無いもん。
: 「やにさがる、とは?」  にやにや、から来ているのが正式で、ヤニ(タバコ)との連関を感じるのは私個人の感覚、かと思っていたけど、調べたら、ほんとうに、煙管(きせる)、タバコが下地にあったよ。
: 「角川漢和中辞典P1463の「■」、P1474の「◆」なんかは、活字というより、手で書いたもののような感じ。」  既述の通り、同辞典、半世紀後の現在も手元にある。該当ページは音訓索引領域。  ■は、叔の下に衣。■は木+卑。確かに他の字に比べて字体がかっちりしていないわ。やや丸みがある。(手で書いたは言いすぎだけど)。たぶん珍しい文字なので、この領域用の小さいポイントのがなくて、活字を新たに彫ったりしたんだろうね。(語義説明のある本文頁ではかっちりした活字で印刷できている)  しかし、waka君、索引領域で、細かい字が無数に並んでいるような中から、よくまあ見つけてるよ、こういう微差を。  じっくりながめている、ほぼ読んでいる、楽しんでいる、そんな時間帯があったんだろうね、当時。
: 「自分と常識的に結婚できる女をむりやり暴行するのは、まだすくわれるのだ。年がちがいすぎたり、近親者であったり、特別な事情があったりする女とおかすのとくらべれば。」 「とても年上で、とても肉体的、身体的に弱々しいあまりきれいでない女の人、そして、よくみしっている人」「こういう人は死んでもオカスナ。」  半世紀前の日記的書き物とはいえ、今からながめると、女性に対する配慮を欠いて、かなり問題ありだ。  なお、後段の犯してはいけない女性の描写が、具体的すぎないか? モデルがいるのか? 記憶には浮かんでこないが(徹底的に禁忌扱いしたため記憶世界でも隠蔽されている?)。
: 「どうやら、うで時計止まる。またしゅうりにださねば・・・  と思ったら動く。が、すぐまた止まるだろう・・・・。」  数日後、時計屋にいっている。
: 「これからは次の日になったかならぬかを、ラジオか何かで知らねばならない。」  なぜ日付の境目が知りたいのか。境目で、心記に日付を入れるため。  なぜこれからはラジオか何かなのか。前頁末にあるとおり時計(腕時計)が(ほぼ)止まったから。
: 「ふつうの足」「キオツケの足」「ヤスメの足は?」  調べたら、ヤスメのときひらく(移動させる)足は左足でなければいけないそうだ。  なぜなら、右足を開くと、最右翼の人の右足(右へならえの基準)も移動してしまうからだって。  へ〜 ちゃんと理屈があるんだ・・
: 「サンネエンセ〜〜イ  ユウト オ〜セ〜〜イ」  流行歌『高校三年生』の節で歌う? 
: 「本屋で本をとろうとしたら、手がすべって、本が落ち、よごれる(orきれる)。やもうえずその本を買い、うちへ帰る。せっかく、かいたくもないのに金をはらったのだから、よまなきゃ、そんと思い、よむ。すると、一生に一度めぐりあえるかとうかの名著だったというお話。」  小話にかろうじてなってる? 起承ぐらいで物足りないけど、こういう控えめな、作為の薄いお話もありかも。
: 「「劇中詩」という題の小説」  ・・以下、物語の外殻のアイデア、だよね。それもおおまかな。  こういうのってむなしい、という気もしないでもないけど、こういうのって想像、妄想するのが確かにたのしいのも間違いない。 だから、中身がなくても、外殻だけで何か造形できれば、それはそれで作品たり得る気もするよ。  ・・しかし、まー、外殻だけで造形って、小説物語の場合、できるの? 中身がおざなり、となってもおもしろい? 
: 「上の穴に入れるさるには」図「こんなのがついてるけど、下の穴に入れるやつにはついていない??」  上の穴、下の穴、なんて文字だけだとエッチなことみたいだ(^^)  さる(猿)は、戸締まりのときの留め具なわけだが、今の人は知らないと思うし、私ももう何十年も見ていないか。
: 「「――」よりも何も書かず、空間をあけたままにしておく方が、感じがでるのでは?」  単に空白があいているだけだと、意が広すぎるのかな。見なれなくて(誤植のたぐいかと)とまどいもするだろうし。
: 「こんなかっこだと、時計の面が地面に垂直だったとき、針が下におちるようにまわっているときは、重力のため、はやくなり、上にあがるようにまわっているときはおそくなる。」「そこで、」図「こんなのをつけて、つりあいをとっている。」  真偽のほど、ネットでざっと調べるが、わからず。
: 「妖精と子供たちだけの広場。大人がはいろうとすると、ケガをする。」  ・・・ 小話だな。ありがちな設定とオチではあるが。  そういう軸の(あるいは、そういうお題=制約の)、もうすこし新鮮な事例(ほとんど別物でいい)で書けば、そこそこの作品にはなりそう。
: 「「君たちのどちらかが死ぬ。」「えっ?!」「さあ、このゲームをやりなさい、点数の高い方が死ななくていい。」」  次頁にも続きあり。  昔はなかったけど、こういうシチュエーション噺、特殊危機舞台、命懸け闇ゲーム、みたいなの、最近はよく目にするよね。このアイデア、発展させていれば、先駆けとなれたかもしれないのに、waka君。  なお、罪がどちらには、主犯は、催眠術をかけたほうは確か。A君は悪くても従犯、ふつうは無罪放免でしょう。裁判で見苦しい抗弁などしなければ、少なくとも実刑は免れそうな。
: 「死体をしらべたところ、時計がこわれていて、止まっている。」  以下、(自分の腕時計が実際に止まっていることから思いついた)小話のアイデアだろうが、没コースだろうね。  「しばらく何かしているうちに、何らかの理由により死ぬ。」 ← ここは、笑ってしまった。
: 「コケの一念とは? (ヨミウリより)」  これは苔に非ず。虚仮と書いて仏教関連語とのこと。文字どおり、真実で無いの意。ここから、浅薄、愚か、ばかまぬけ、へ。
: 「子供の頃、神社のいしがき(?) 土台? いしのたな? からおちたり、」  この辺りは、当サイトの、もくじ つづき > 破 『あとがき』でも記している。
: 「よびだし電話の所にデンワするのはなぜか気がひける。」  昔はあったよね、よびだし電話。携帯、スマホのご時世、今では絶滅か・・ 
: 「「科学」「学習」なんかの雑誌は、9月号を7月か8月ごろくばって、8月によむもののして夏の特集なんかをやる。他の月もみんなずれてる。いっそのこと、月をあわしちゃえばいいのに。」  いわれてみればその通り。 というか、こういうずれ、今でもあるのか? 週間とか隔週刊のマンガ誌は、今でもずれてる。月刊誌は読んでないのでわからんが。 まあ、発売後すぐ過去号になってしまうのは商売上まずいので、いくらか先の月を名乗る、という慣習が昔からあったんだろうな。  「科学」「学習」は、学研の学習雑誌で、小学生の頃購読していた(学校の渡り廊下のところで販売員が売っていたような気がする。いや、配っていたのか。代金はあらかじめ担任の先生が集めていたんだっけ?)。
: 「むつかしい  むづかしい ×・・・??  すずかしい」  すずかしいは、単純な誤記? 故意? 
: 「偏傾などというコトバはある?」  かたよる+かたむくだから、意味は明白だが、熟語としてはないみたいだ。
: 「弱者にとって、平等とは、「平等感」を得るものでなく「優越感」を得るもの。同じぐらいの所にいる、という事は、ぬけるということなのだ。」  弱者が強者を追い抜ける、出し抜ける、その可能性が高まる、という意でしょう。
: 「平等という状態は、それを維持するためにでなく、乱すためにある。弱者であった者が強者に変われる時なのだ。だから、ここでいう自己保存本能は消極的なもののみでない。」  だいぶ、シビアに吟味しておりますな。論理的に。倫理的にではなく。
: 「電話はダイヤルのもどる時間によって、番号を知る。  なんという日本語!!!」  今では、黒電話、と呼ばれる、昔タイプのダイヤル電話。そういうメカニズムだったようなこと、耳にしたことがあったような・・  これは、ダイヤル電話の仕組の解説を探してみるのが、真偽を知る最短かも。素朴、正攻法で。  (なお、ダイヤル電話をかける音だけで、電話番号を読み取った、みたいなアイデアが、小説かドラマの中にあって、それを読んだか見たかしているはず、waka君。それが、このときなのか、もっと後年なのか、だいたいの時期もいえないほどのあいまいな記憶だけど)
: 「「人々」と書く。が、ちょうど、行のきれめで、二つにわけられたら、「人 人」とかかねばならないよう。」  というルールをすでに小学校の時に習った。ルールというより、原稿書きの際のマナー的なもの。これは製本活字の際も踏襲されると教わる。  が、原稿の行の文字数と、活字製本の際の行の文字数がちがう場合がほとんどなので、このルールに関わる、原稿(作者)の意向をそのまま反映できるのかどうか、という問題を以下吟味している。  原稿が「人々」、製本段階では行の境目になるので、「人人」にしていいか、とか。 作者が行の境目で「人人」と書いたものを製本段階では行の境目にならないため「人々」としてしまっていいのかどうか、とか。 作者がもともと行の境目に関係なく「人人」としたかった場合とか。  → しかしこれらは結局、ゲラ刷りとか校正段階で、編集者が作者に丁寧に確認すれば済むことだよね。  → そして現在では、このマナー的なルール、もう厳格には適用されていない気がする。新聞記事ではふつうに行頭に「々」がきてる。デジタル文字の時代となって、行頭の流動性が高まって、編集校正段階で文字数の増減などしつつこのルールもいちいち整合させるのがめんどうすぎる、めんどうに見合う利便がなさすぎる、ということかも。  今、一太郎2016でテストしたけど、ワープロソフトもこのルールをふまえていないな。行頭に々がくるね。  小説の単行本などではどうなんだろう、最近買っても読んでもいないから、知見なしだわ。  wikiで「禁則処理」など見ると、ハウスルールといって、出版社によって禁則ルールがちがったりもするらしい。ワープロソフトでも様々か。一太郎でも設定しだいでどちらにもできるのかもね。
: 「人々 行でわかれれば人人」 「行でわけられた人人でない  人々でない」 「行でわけられない人人  人々でない」 「この対偶は上のどっち??」  対偶、とあるので、論理式で思考を整理しようとしているか。  いやむしろ、対偶とできるのはどっちかということに軸が移ってしまって、思考整理はもう後回しか。  行でわけられなくても人人 人々でない これが対偶か。

※ 『1973/07/20 とにかく、動いていく方向がある。』 : 「7/20のフクセイ」  赤字部分が、7/22の途中で清書している、7/20の記事。 例えば、仮メモを心記に直にエンピツ書きしているなら、その場所は7/20分の領域のどこかで、エンピツ書きに重ねてボールペン書きで清書したあとエンピツのほうは消しゴムで消すはず。そこで、他の日の途中にこのように書かれることはないと思う。よって、ここの清書の仮メモは別紙にあったのではなかろうか。ここに清書後、その別紙は捨てられたのだろう。
: 「人間の心は静でない。動いている。速度がある。加速度がある。等加速度運動かもしれぬ。とにかく、動いていく方向がある。1図において、」 ・・・  以下、いくつかの図をまじえて論じているが、言いたいことは大体は理解できる。 何か革新的な外部要因によって、各個人の上下関係が入れ替わるようなことがあっても、 各個人の運動方向が以前のままであれば、早晩、上下関係は革新前の状態に戻ってしまうよ。だから、大事なのは外部要因でなく、各個人の運動方向なんだ。 ―― という趣旨ではなかろうか。 悪いことは言っていないんだが、言いたいことに比べて文章が長すぎる、図入りの論述なんて大げさすぎる、(要はまわりくどい)ような気がする。 半分以下の文章量で、すっきり言えるのではなかろうか。  論ずるというよりも、検討吟味段階なんだろうね。他に伝えたいというより、自分で納得したいのほうが大きそうなので、まわりくどくても(エレガントでなくても)組み上がっていればかまわないのかも。
: 「ニナムナ、という語ある??」  辞書になし、ネット検索もヒットなし。  古語で、になむ、という言い回しはある。関係あるのかなあ・・  (こういうの、引用元の文脈から推測するのが近道なんだけど、もちろん今となっては、引用元がなんなのかまったく不明です)
: 「放課後、エ■■さんという先輩くる。」  文学クラブ関係の記事。放課後とあるので、この7/20はまだ登校日でしょう。  この書きぶりからいえるけど、文学クラブの先輩に初めて会ったみたいだ。 こうして眺めると、面白い(奇妙な)クラブだよね。いつもは休眠状態で、文化祭で発売するための文芸誌の準備をしなければならない時期になると、もぞもぞと眠っていた部員が動きだす、というところか。 仮に、このとき、エ■■先輩が動きだしてくれなければ、たぶん、この年、二年生(先輩がいないという話だったので、当初wakaのみが部員ということになっていて、当然wakaが部長という名目になっている)だけでは文芸誌は発行できなかったと思われる。ノウハウが何もないから。 で、このあと多少なりともノウハウの伝達が成ったので、この次の年(wakaが三年時)も文芸誌は発行できた。
: 「■村君やしの■君やシン■■君に、この事いう。」  この辺りが、wakaと同学年の文学クラブ員。wakaが勧誘したというよりも、自然になんとなく増えていた、というところではなかったか。勧誘もせず、クラブの存在もほぼ知られておらずなので、残念ながら後輩(一年生)はいない。  将棋同好会とはちがい、文学クラブのほうは、定期的な会合も、普段の活動も、ほぼ全く無しだったはず。部室ももちろんなし。(将棋同好会にも部室はなかったが、放課後の教室で将棋盤をだせば対局できたし)  ただ、三年時ぐらいに、クラブ員の間で、ノート(創作or雑記帳)を回したりはあったか。
: 「「オーケストラ」の中の「ー」というのを書きたくないために、「オルケストラ」とかく人。」  いるのかい、そんな人? というか、ー が書きたくないからではなく、原音に近づけたくて書くがふつうでは? ごく少数はかっこつけがしたいから気取ってそう書くかもしれないけど。ー が書きたくないなんて、いてもどこかに一人ぐらいだろう。
: 「アンホンランシン」  これは、アホラシイ、を装飾して発音している(と思う)。
: 「■■コすわっているぼくをうつ。」  兄妹のこぜりあいなんだろうけど、今からみると、ほほえましいばかり。
: 「四つ足の動物は、前右足と後左足を前にだし、次に、前左足と後右足を前にだし、これをくりかえして、前にすすむ。」  これを前提として以下述べているが、前提自体があやしいなあ・・ 四つ足とひとくくりだが、動物種によって歩き方(走り方)がちがうのでは? それに確か、馬の足運びは、なみあしのときと走るときではちがっていたりするはず。
: 「まさに、ちょうどよい、必要十分である歩き方??」  前提自体が仮定、その上で、分析してみました(想像してみました)、ぐらいのことだろうけど。
: 「「ヨーソロー」とは??」  wikiによれば、船を直進させることを意味する操舵号令。「宜しく候(よろしくそうろう)」が変化したもの。
: 「古い人は、新しい若者を、男か女かわからない、といって、バカにし、批難しているのでは? ただ、男か女かわからないなあ、と思って、正直にそういうのは、ほんの初めの頃か、ほんの一部の人なのか?」  言いたいことの重心がすんなり伝わらない文ですな。しっかり観察したり、ちゃんと吟味したりした上での非難ではなく、もう半ば口ぐせのようになっている、他の人の受け売りで言っている、なんてことはないのか、という意か。

※ 『1973/07/23 人間の醜い心をいやすための器械』 : 「細く、白い体。美しい顔。優しい目。小さなきれいな声。いつも夫のいうとおりにしている。」・・・「夫の友達も彼女の美しさ優しさうらやむほど。」  小話の前半という感じだ。後半がないのが残念だけど、ここまでだけでも雰囲気、独特な味がでてる。
: 「事前に知らせるのと、知らせないのではどっちが残酷か? より、残酷でない方をやってあげたい。しかし、死刑それ自体が残酷すぎる。やめるべきだ!!」  当時のwaka君は、死刑に否定的か・・  しかし、凶悪犯罪の抑止力として、また、遺族の報復感情を考えると、今は否定はできないなあ・・ 
: 「きれいな手ぬぐいのたたんだのを、本のしおりにするのもいい。」  小ぎれいな布をしおりにする、という発想ではなく、手ぬぐいとして使っている、使えるものを、しおりにも併用する、そこが「いい」という感覚だろうね。
: 「きれいな手ぬぐいのきれいにたたんだのをすばにおいておいて、好きな時につかうのはいい。」  そば、でしょう。
: 「ど根性ガエルはおもしろ〜〜い。梅さんがいい。」  当時のマンガ。単行本、たくさん買った。
: 「過去の恥かきがおれを悩ます。」 「あのときの事実はいつまでも消えない。」  ・・と言っているけど、半世紀後の今、何も覚えていません! いつまでもなんてことはなかったよ。時の力はすごい。
: 「一人で、恥をかかないように、1人でくらしていたいとときどき思う。一人でくらすのが好きだ、とときどき感じる。身内の人たちはまだいい。他人の人たち。いっしょにくらせばくらせる。が、美少女たち。彼女たちの存在がぼくを一人にさせたがるのか? ぼくを悲しくさせるのか?」  終盤、唐突に登場する美少女たちとは何か。恋または性愛を象徴する妄想のニンフたち? 
: 「私たちは、「一目失恋」をする。」  一目惚れ、の対語として思いついたんでしょう。
: 「友だちはぼくとつきあうとおもしろいの? オカボが、」  オカボは、中学同級の友人。
: 「ぼくはお父さんとお母さんからそれぞれ強裂な個性をうけついだので、ぼくの心の中では、行き方生き方の基本となるものが、2つの極にあつまり、1つでないため、分裂し、分裂症となる??」  強烈、だが、分裂にひっぱられたか。
: 「ぼくは勉強も、つねに人より、授業より前を予習していて、人より優位な立場にいて、はじめてやるきをだすのか。よゆうがあればやるきがあるのか? ところが予習なんかより複復習をしなけりゃならないような、よゆうのないときだと、勉強する気がでないのか。はげしくがんばって、よゆうをもたねば、ぼくはだめなのか? もしだめなら、がんばれない。」 「もしだめなら、がんばれないから、がんばろうとしてもムダ。」 「もしだめでないなら、がんばれる。が、なぜがんばるか理由がない。(今までは、だめにならないためにがんばる、とした。)  クソ、シネ。」 「とにかく、がんばれ。」  前半の分析がまるまるあたっているなら、いったん遅れてしまうと追い上げられない、ということになって先がない。よって、とにもかくにもはげしくがんばって、余裕のあるポジションにたち、そこからまた落ちないようにがんばり続けるしかないわけだなあ・・   わりとたいへんな立場だ。この高校の勉学、あまくなかったということだろうか。waka君の基礎能力が、どうもいっぱいいっぱいだったという感じもするなあ。  今思えば、もう少し余裕を持てるレベルの学校のほうが、たのしく充実した高校生活ができたかも、とも想像できる。
: 「なぜ次第を、しだいとよむ??」  次の音読みが、ジ、シだった。ならばそれほど不思議でもない。  ちなみに、姿、資、諮などは、次を音符とするそうな。
: 「ぼくはぼくの物語りの中で外国語をカタカナにしたのを、あんまり使いたくない。そういうのを好かない。」  うん。これは長い間わりと、こだわっていたか。  最近になってようやくゆるくなってきてる、こだわりから自由になってる気がするけど。
: 「テレビやラジオで遠い所の特派員か何かに、電話をかけるとき、いつも、「○○さん、○○さん、―― 」と何どもよんで、やっと○○さんがでる。とてもしらける。」  あれは、まったく同時にやりとりができるわけでなく、衛星経由とかで電波が往復するのに多少の時間を要しているから、なんだよね、確か。  今現在はどうなのか? 電波の伝送速度は同じだから同じ事情なのか。それとも光ファイバーだと、人間の感覚的にはもう同時応対が可能なのか。うーん、わからん。理屈で考えてもわからないし、最近TV視聴ほとんどしてないので(海外とのやりとりの場面にも遭遇せず)過去との比較ができてないし。
: 「「君は?」 「ぼくか。ぼくには父の遺産がある。一生遊んで暮らせる。が、一つだけやりたいことがある。」 「なんだ?」 「核兵器の製造。」」  ・・・ 以下、会話劇。というか、個人的に核兵器製造を願う主人公の決意表明。  核兵器をもつこと、活用することのほうが、中庸に近く、まったくの否定、拒絶は極端すぎる。外国が皆悪なら、日本も多少は悪に染まらなければあやうい。などと論じる。
: 「ためしに聞いてごらん、そしたら、相手は、核兵器が多くの人を殺すから、というだろう。そのぐらいの答えしかないんだ、考えていないから。多く人を殺す物は世の中にいくらだってある。ふつうの爆弾、戦争、餓死、交通事故、火事、公害、水難、震災、・・・それなのになんでことさらに核兵器をあげるんだ。」  この餓死に、エンピツ書きで「キガ?」と付けて差し替えるか迷ってるふう。さらに頁上辺に追記で「しかし、会話だから、このぐらいまちがえてもいい。s49.2.24」  本文記載は1973年(昭和48年)7月だから、半年後の書き込みですな。
: 「人類の生と死を冷静に見る目をもつべきときがきたことを知るべきだ。とりみだすやつは、人類以下のやつであることを知るべきだ。冷たい澄んだ目が、これからのわれらの目である事を知るべきだ。それはそれで、しあわせじゃないか。かなしさもたのしさも、結局、今と同程度さ。」」  小話、物語としては、体裁が整っていないけど、言葉の語気はある、主張もある。このように主張し、叫ぶのもありだろう。しかしまあ、現状分析と一つの進路提案ではあるけれど、悲しいかな、個人とその仲間たち程度の微少パワーによる提案、素案、またはぶちまけ、言ってみれば妄想にすぎず、世界は微動だにしそうにないな。日本国内なら、さざ波程度にはなりそうか。
: 「幼稚○ 幼稚×」  幼稚×の幼は右側が刀。
: 「水難   水災 なんでこういわぬ??」  水災という語自体はあるようだが、ほとんど聞かないわな。
: 「左のようなことを|いったら|発表したら|だれかにうらまれて、ころされる?」  左というのはこの頁左領域の、核兵器肯定主張会話劇のことでしょう。  殺されはしないだろうけど、巡り合わせによっては、(肯定でも否定でもどちらかの極の)偏向団体の構成員に目をつけられたりがありそうだ。  しかしまあ、現実的には、素人で無名の一高校生の声など、ほぼ100%、世間は無視するだけで、なんの反応も無しというのが順当かも。
: 「このごろ、学校にいかないので、人前にでない。」  次頁で、「夏休みになってからほとんどまるで勉強していない。」と記している。
: 「入く 行く  入り行く=入く  この「入く」という意味の感じはおもしろい!!!」  おもしろいけど、入く、という語は無く、入るだよね。
: 「今、時計屋に自転車で行ってきたのだが、帰り道、信号でとまっているクルマの前を自転車をひっぱりながらわたろうとした。すでに赤だったが、車はとまっている。そこでわたった。が、手前の車は動かなかったけど、一つ向こうの車は動いた。死ぬ所だった。」  あかんな。こわすぎる。こういうヒヤリハットがしょっちゅうあった気がする。  どうも、状況把握、周囲との意思疎通、これらがまだ幼いレベルなのか。つたないというか、不安定というか、あぶなっかしい、未熟。  守るべき時、突破するタイミング、そういう要領とか反射神経とかが、どんくさいのはもう本性に近く、経験とか修行で直すにしても人よりだいぶかかりそう。  ・・ではあったけれども、こうして、年を重ねて生き長らえることができた。それなりでもついには適応できた、幸運もあった、ということか・・   (なお、7/20に、「どうやら、うで時計止まる。またしゅうりにださねば・・・」と言っている。四日後、ようやく実行したもよう)
: 「今の大人たちの常識は正しいのか? 正しいとして、今の青年たちにそれだけの常識が身につくだろうか。身につかないとしたら、ぼくはとても心細い。ぼくが大人になったとき、ぼくのまわりの大人がちゃんと今の大人のもつ常識をもっていれば、ぼくは安心して、異常な事ができる。 が、ぼくのまわりの大人が、ほとんど、常識をもっていなかったら、ぼくは不安で、異常な事ができない。むしろ、常識的なもの、正常なものを、みきわめようとするだろう。」  すでに大人になって久しいが、まわりの大人はそれなりに古めの常識をもっている。つまり、私は安心して異常なことができる状況のはずだけど、あんまり異常なことはしていないな(^^;
: 「江戸時代のみならず、長い歴史の間、身分の差があり、身分のちがう者同志が結婚することは許されなかった。こうなると、身分の差がしだいに種族の差になっていくのではなかろうか??」  というような事情を読んだり聞いたりすると、すぐ、カムイ伝の、正助とナナが浮かぶ。(ナナは存在感あるよね・・ とくに大人になってからのナナ)
: 「「知らざれぬ」とは???」  どうも無い語っぽいな。文語調だけど誤りっぽい?
: 「「確度」 新語? 今日、できた? すこし前にできた?」  今日ってことはないだろうけど(半世紀後の今辞書にのってるけど)、比較的新しい語、近世よりうしろ、明治辺りのような気がするが、ネットなど調べても語の成立時期はわからなかった。
: 「初○ 初×」  ×は右が力。
: 「5500円で買った時計の修理代が2500円。2度目の修理だが、1度目は2000円。」  これはつらいね。新品買いなおしたいよね。
: 「若化 じゃくか こんな語ある??」  ないみたいだね。
: 「ぼくのサンダルのつっかけにはには、茶の中に白のおびがはいっているのです。」  サンダルとつっかけが畳語。にはが衍字。 白の帯というのが、模様のことなのか、サンダルの帯自体のことなのか。描写が曖昧というか、あまいというか。
: 「ぼくは、まだ、テレビからでてくる超音波を聞けます。テレビのつけはじめはきこえますが、(それも小型テレビ)きいているうちに気にならなくなるのか忘れます。大人になると、きこえなくなるのかしら??」  いわゆるモスキート音、若者にしか聞こえないといわれる高音域、を言っているんだろう。
: 「画商ずれ、専門家はだし」  づれ、が正しい表記みたいだ。さげすんだり、ののしったりする場合のそれは。  はだしは、そのまま、裸足。裸足で逃げるの意だそうな。(専門家が裸足で逃げだすぐらい、すぐれている)
: 「あくる  :明る○ 明くる×  :翌る ?」  明る× 明くる○ みたいだぞ。  翌る、と送り仮名があるなら、あくると読むしかないんだろうけど、手元漢和辞典など見ると、翌には訓読みは無し。
: 「扉○扉×  扇○扇×  おうぎ○ おおぎ×」  扉の上が点は○、扇の上が点は×、という当時の把握。 だが、今、デジタル文字の明朝体や行書体を見比べてみると、なんとなく、どちらも横棒が正解、だけど筆記体の場合は点のように見えてもしょうがない、という辺りなのではと思う。
: 「足首は細い方が健康的。」  これは、女子についての感想だろう。
: 「7/24の夜■■に泊まる。7/22も。」  職場から道路一つへだてた北側に、社宅として、wakaの住んでいる家がある。  この職場、夜間には宿直する必要があった。  たいていは、wakaの家の大人の誰かが泊まり、ときどき一般の男性職員が任にあたる。  で、wakaの家の大人が誰か泊まるとき、どういうわけか、その大人は、wakaの家の子供の誰かを一緒に泊まらせたがった。  具体的に言うと、wakaの家の大人というのは、wakaの祖父やwakaの父。 wakaの家の子供というのは、wakaの姉、waka、wakaの上の妹■■コである。 wakaの母は、自宅(社宅)で朝食の準備などしなければならないので、ほぼ宿直することはない。 wakaの下の妹■■リは、当時まだ幼かったということもあるし、喘息もちということもあって、やはり泊まることはほぼなかった。  wakaの祖父や父は仕事だからしょうがないとして、 つきあわされる子供にとって、この宿直は、できれば避けたいお手伝いというところ。wakaなどにしてみれば、いい大人がどうして一人で泊まれないのかがよくわからなかった(今でもよくわからないよね)。 まあ、子供たちがご飯が食べられるのはこの職場で大人たちが働いているからということは確かなので、 家業を手伝うのは当然、という空気が、大人たちにはあって、迷惑、またはうっとうしかった。(当然、泊まりたくないと拒んだりもあったし、子供同士がその夜の宿直を押し付けあったりということもあった)  ただし、タダ働きではなく、一ヶ月後ぐらいに宿直料ということで、子供にとっては結構な金額を給料袋でもらうことができた。(それでもいやなときはいやだった。^^;)  行って、要は布団で眠るだけなんだが、夜中に二人で建物内を見回る、朝寝坊せずに戸をあけて朝出の職員を迎え入れる、家にもどる前に敷地やまわりの歩道を掃いたりする、ぐらいの軽作業はあった。
: 「喜 喜 どっちが正しい?」  喜の上部が、士か土かだけど。デジタル文字でも手元漢和辞典でも、やはり、士。  次に掲載している『1973/07/24 380』の藁半紙でも書き比べている。
: 「うちでねてたらふとった。ボーリングひどい点。」  一人でボーリングはなさそうだから、だれかといったんだろうけど、詳しいこと何も書いてないなあ・・
: 「A国とB国が戦争。A国のC君、うらぎって、B国に。B国は、C君を重用しようとしたが、C君のようにうらぎりやすい人はとても、という意見がでて、軽くあつかう。」 「それとも1度うらぎった人は、もううらぎってしまったのだから、1度もうらぎっていない人よりもうらぎりにくい??」  うらぎられたA国はC君を憎むだろうから、A国にふたたび与するのは無理そう、という意味でも二度めの裏切りはしにくいでしょう。ただこれだけが理由なら、第三国、D国に与する裏切りはしにくいというほどではないかも。
: 「おやしろの中の神様  さびしくなって人間の世界へ  }小説の題材」  次に掲載している『1973/07/24 380』の藁半紙にあるメモと呼応している。
: 「泥沼」の沼「この音は?」  しょう、でしょう。
: 「「難き」とは?」  かたき(形容詞)、がたき(接尾語)、かな。
: 「すまじき、とは?」  すまじきものは宮仕え、というよね。
: 「ぼくはイビキをかいてねてるのだろうか?」  wakaの父はよくイビキをかいていた。 宿直の晩など隣で寝ている父のそれをえんえんと耳にするので、もしかしたら僕もこうなのかも、と省みているのかも。
: 「枝葉のひろがっている所を何という?」  これ、思いつかないし、さがしても見つからない。あまりにあたりまえすぎて、名付けが忘れられてしまったか。  → 樹冠、が一番近いか。ピッタリとはいえない感じだけど。

※ 『1973/07/24 380』 : 左面一番下にある「おじぞうさんと■■■の会話」は難読。「しかし」「かかし」「くもと」などと読めるけどいずれももうひとつ。もしかしたら「ムかし」か・・  → 直上のメモ群との整合からいけば「おじぞうさんとくもとの会話」が一番すんなりしてるか。

※ 『1973/07/27 夢の中で三島由紀夫の詩を』 : 「さわらとさくら なりたとなるとう > よく混同。互いにまちがえる。」  四つとも千葉県の地名、だったっけ。
: 「ぜんざい よいかな、 > ?」  善哉。
: 「■■の■■のアスファルトがしいてある所はみにくい。」  家業の職場の敷地のそれを見苦しい、そぐわないと感じている。
: 「秀吉の妻、おねね。これは秀吉より年上のように感じる。これは「ねね」が「ねえ」「ねえさん」に通じるから。」  ネットで調べると、秀吉のほうが十歳は年上というのが通説。本文はwakaの語感だけのことでしょう。
: 「日本人は豆ばかり食べてる?」  味噌、醤油、豆腐、納豆、みんな大豆だし、ということか。
: 「夢の中で三島由紀夫の詩を声をだしてよんだ。 ひるねの時」  三島割腹自殺は1970年(昭和45年)11月25日、本文より三年前、wakaが中二のころ。  wikiで三島由紀夫関連みてて、初めて気づいたけど、wakaの父とほぼ同じ年齢でした。三島自決当時、うちの父ちゃんと同い年、とかの気づきはまるでなかったな。

※ 『1973/07/27 こういう板』 : 「フラワー flour 粉 flower 花 >スペル忘れるあわれさよ!!」  うーむ、ATOKイミクル(で呼び出す、ジーニアス英和辞典 第5版)、発音も聴けるけど、両者を聴きわけられない!? → ああ、発音記号が同じでした! 
: 「impossible を「重要」だって。」  不可能。 important が重要。
: 「机の下に木の板、棒がかけわたしてあるのは足をのせるため?」  名称をネットで調べたけど、みつからず。  まあ、足のせ板でもあるし、構造補強もしているのでしょう。
: 「■、致、到、倒 }??」  ■は、にんべん+致。これ、デジタル文字にはなく、手元漢和辞典でもみつからず。つまりこういう漢字はないのかも。  致の字、意外と使われる場がないよね。致命傷、一致、招致ぐらいか。よく見るような気がするのは、到と紛らわしいから?
: 「「等閑」という語を知らなかったような。」  とうかん。だが、なおざり、とも読むそうな。  ちなみに、私、等閑視を「等間隔・視」のような意味にとっていたかも。正しくは、無視する、おろそかに思う、だそうな。
: 「なぜ、みんな(日本人は)北方領土を欲しがるの?」  ソ連の奪取に納得できないんだろうな。ソ連に負けたつもりはないから。  しかしまあ、日本側の公式見解のようなものがあるはずなので、一度ちゃんとよんでみたい。
: 「美しい花。美しい蝶。花に蝶のとまった美しさ。どうして、美しい花に美しい蝶がとまって、美しい物をつくりだすのか? どうして、美しい物どうしがくっついたのだろう。自然がそうしたいから? とにかく意外な美しさ/であろう。/だ。」  定番の美、のようだけど、不思議と思えば不思議でもあるけど。ただし、それが美しいと感じる人の心が関わるから、花と蝶に不思議の軸があるのか、人の感性に軸があるのか、にわかには定まらないかも。  なお、本文の蝶は、虫偏でなく足偏だな。誤記であろう。
: 「眼光紙背に徹る」 「てっす 徹す }かと思った。」  眼光紙背に徹す、でも辞書あり。
: 「徹 撤 >てっする この差は?」  徹するは、貫き通すこと。撤するは、取り払うこと。撤去。
: 「AとBどちらか疑問であるとき、心のいくぶんかはAに、他のいくぶんかはBにかたむいている。 そこで、Aだとしたら、「Bかとも思ってしまった。」 また、Bだとしたら、「Aかともおもってしまった。」 とするべきであろう。 ここが、新しく気づいた所。今までは一方からしか見ていなかったような。」 「極端  Aだとしたら、「Bかと思っていた。」 B 〃 「Aかと思っていた。」」  わかりません・・   どこが新しいのか、一方からしか見ていない状態ではどうなのか。  Aだとしたら、Aへの思い入ればかりを見ていた、疑問である以上、Bへの思い入れも少しはあるということをなおざりにしていた、というようなことかなあ・・  すごい深遠なこと(シュレディンガーの猫に類するようなこと)を言っているのかとも思うし、すごいくだらないこだわりをしているだけのような気もするし。こまるね・・ 
: 「 { 冷たく明るい光 暗く熱い光」 「※ ( 明るい 暗い  ( 熱い 冷たい 」  明るい、冷たいには「る」や「た」が入って長め、暗い、熱いは簡潔。明熱、暗冷ではなく、明冷、暗熱が近しいもの同士ではないか、という気づきか。
: 「気のおける相手:間のへだたっている相手  気のおけぬ相手:間のへだたっていない相手  ほんと、これでいいの??」  「気のおけぬ相手とは、ゆだんならない相手というようなものと思っていたのだが! そして、気のおける相手とはその逆。 これはたいへんなことですよ。」
>>き【気】 の 置(お)けない  相手に気づまりや遠慮を感じないさまをいう。 精選版日本国語大辞典 (C) SHOGAKUKAN Inc.2006<<
 なんだよね。しかし、頭で覚えても、心にはすんなりこないから(現在でも)、ふだん遣いはあぶなくてできない言い回しになっちゃってるかもね。私だけでなく世間一般においても。
: 「レポートや宿題はだす事に意味がない。やる事に意味がある。だす事に意味を認める人は、人に貸さない。損だと思うのだ。ほんとはだせない人がだせるなんて、と思って。が、やる事に意味を認める人は人に貸す。 だす事に意味をみとめていないためと、友だちのためと、そして、友だちがそのレポート、宿題をだす事に夢中でやる事をせず、損するのをみて、よろこぶため。友だちはだせるから満足。自分は友だちが損してると思って満足。」  この文章だけで言えば、心情がダークだよね。だすことに意味を認める人が主人公(表の役)だろうけど。  たぶん、友だちに宿題やレポートを貸してあげて、その理由付けにかいているんでしょう、waka君。ちょっと劇的味付けをしたりして遊んで。
: 「■■リはようズボンをはいています。」  そうだよね。下の妹■■リのスカート姿、制服以外ではあまり印象に残ってないかも。(当時はまだ小学生だから、制服は後年)
: 「しばいをやるとき悪役になるな。 あぶないからキャッチャーになるな。 >お父さん、」  爆。なんなんだ(^^;; 親のいましめとしては、特異? 個性、お人柄がでますな。
: 「ペース リズム >この訳は?」  歩調 と 調子 で、近しい言葉になるか。  しかし、例えば、「ペース、リズム、テンポ、これらの違いを説明せよ」なんて問題を出されたら、悩ましいよね〜  → 今調べたかぎりでは、pace の原義は「歩み→歩幅」、rhythm の原義は「調子よく流れるもの」、 tempo はイタリア語で、速度をいい、pace と意味が重なるところがあるらしい。

※ 『1973/07/29 おじいさんもあしをくみます!!』 : 「醜い  見にくい これから「醜い」ができたのでは??」  たぶんそうだろうね。
: 「ナメコ=ナメコタケ ・・・?」  「ナメコニナメコタケ }?」  一行目は、ナメコとナメコタケは同じなのか、という疑問。  二行目は、=(イコール)をニ(に)と読んでも意味が通る面白さをメモ、なんでしょう。  ちなみに、調べると、ナメコが正式名。ナメコタケ、というのは無いみたいです。 (ナメタケ、という別名はもっているとか。ただし、エノキタケを調理したものもナメタケと呼ぶ場合があるとか)
: 「おじいさんもあしをくみます!!」  おそらく、一般で見かけたおじいさんではなく、wakaの祖父のこと。足を組むなんて若者っぽい仕草が意外だったか。
: 「いいて 良い手   い て   い てえ   い たい (そいつは、)いたい(ナア)」  いいてが変移していたいになるみたいよ、と。  将棋を指しているとき、相手によい手を指されて、そいつは痛いなあ、とぼやく。いいてがいてえ。この地口、面白いじゃん、と。
: 「良い よい   「い」とよんでいいの?」  いいのよ。
: 「文学は他の芸術にくらべて、手にとりやすい芸術なのだ。なぜなら、いくらでも複製をつくれる文字によっているのだから。複製でも同じ文字を使っていればひとつも作品の品はおちないのだから!!  絵画、音楽、etcは、文学のこの利点にはおよばぬ!!  文学とは、多くの人の芸術になれるということなのだ。他は、少数の人、個人の人の芸術になれるのみ。が、文学は多くの人の芸術であるというわけではない。個人の芸術であってもかまわぬ。」  もうひとつ、ウソっぽいというか、正論からはずれている気がする。文字という特性はわかるけど、音楽も絵画もそんなに狭くはないでしょう。場合によっては、文字よりも広く深くあるいは直(じか)に心に届きそう。 (なお、訂正前の「が、文学は多くの人の芸術にならねばならない、というわけではない。」のほうが前後のつながりがよさそうだ)
: 「今みたいにまるでなにも手がつかず、なまけぐせがで、やらなくちゃとあせるばかりの時は、千葉駅にいって、キディランドにいって、屋上のゲームにいって、地下のおせんべいを売るとこにいきたい。」  夏休みだし、行けばいいじゃん。  千葉駅屋上にまだゲームセンターがあったんだな。数年前(本文より四十年以上あと)に同じ所に登ったけど、廃墟のようになっていたよ。最近、駅ビルの新装が完成して以降は、まだ登ってないけど、あの廃墟スペース自体、整理されてしまったのかな。(こんど帰省したら確かめてみるか)  そうそう。あの屋上、ゲームセンターの上に、円形の回転展望室のようなものもあった。喫茶室で座ったまま外の景色が回る。半世紀前にあの設備は、斬新だったかも。(回転するそこへどうやって入室したのか、いつごろまで稼働していたのか、詳細は記憶になし)
: 「山で救援隊に助けられたら、莫大な金の借りができる――??」  公費ではないの?  → ざっと調べたところ、公の機関の捜索だけなら無料。民間に依頼となると有料(で、場合によっては莫大な費用がかかる)。

※ 『1973/07/30 タロコさん』 : 「その種の個体が増えに増え、遺伝子のくみあわせがいろいろになってくると、その種から、新しい種が生まれるのか? つまり、新しい種のいでんしのくみあわせが、おこるようになり、おこりやすくなるのか? つまり、その少ない可能性が、絶対的な全体量が増えたために、おこりやすくなって、やっと、1人、生まれるのか?」  一説としてはありえる、か。  でもたぶん、進化というのは、個体数が異常に増加しなくても、あったはず。新種、またはその芽は、恒常的に生まれているけれど、環境がともなわないため、定着しない(新種の血統が淘汰されてしまう)というだけでは? 環境が変わって従来種では生きづらくなったとき、にわかに、新環境により適応した新種が勢いを増す、という感じでは? 
: 「昼食。左どなりに■■リ。ぼく、はしでおこうこをはさんで、■■リのしょうゆざらの上でとめ、「かして。」 ちょっとして、■■リが首を動かし、ぼくがしょうゆをつける。」  食事時の、兄妹の、なんてことはない一コマか。
: 「ボウズ デブ ブオトコ >これぼく。よくそろった。」  かっこうを気にしてますな。おとしごろ。  ブオトコってことはないと思うぞ。ボウズってのは散髪してるだけで、禿げてるわけじゃないし、どうということはない。デブは絞ればいいだけ。
: 「またすぐあいましょう。 すぐまた >どっちがまとも? ぼくは上をつかってしまった。」  ほんとにすぐ再会の予定ならいいけど、ふつうのさようならの場合なら、「ではまた(いずれ)」だろうなあ・・
: 「オカボはまず山の家にいき、いないと、ぼくのうちにくる。」  笑。この高校二年の中頃の時期、中学の級友のオカボや山との交流が変わらずあったわけだ。高校は別々になったけれど、夏休みなので会いやすいってこともありそう。  どちらかといえば、wakaや山は市街地に在住、オカボは郊外なので、オカボのほうから市街地に出てきて、友を訪れるパターンが多い。
: 「のにし」  これはお西のまるめ呼び。お西も中学の級友。
: 「「のち!!」 「あとでころす。」」  これ、別れの挨拶だな、言葉づらにあまり意味のない(笑)  ころすのほうがオカボのせりふ。
: 「比は 三画○ 四画× 五画× こっちに思ってしまう事多し。」  三画のはずないよね。四画だよ。
: 「呀っ :あっ  牙○ 牙× 四画!!」  ×は五画になってる。かつ、縦棒下のハネもなしか。  呀を、あとよませるのは、ふつうではない(特殊すぎる)か?  → 手元漢和辞典みたら、国訓で「あっ」。驚くことばを書き表わすときに用いる。とあった! 意外とふつうなのか。

※ 『1973/07/31 バスの中』 : 「グループ交際をすすめるけど、孤独な少女や少年はどうなるの? 愛におちいるなら、一対一になるのじゃない?」  大人たちは(一対一の男女交際でなく)グループ交際を奨めるけど、という文脈か。  グループに所属していない(グループに入りづらい、グループが苦手な)者はどうしたらいいの。 グループ交際をしたところで、熱くなってたかまれば結局は一対一の交際になるんじゃないの。 と、文句をつけています。
: 「よく、60進法の時間の単位と10進法の数の単位が同居できるなあ!!」  素朴な感嘆だよね、いつもは忘れている、気づかないが。  (さらに言えば、60秒=1分、60分=1時間なのに、60時間=1日にはならないという理不尽。もだえ苦しんでもいいぐらいのことだよ、ふつうまともな感覚をもっていれば)
: 「人間の歩みもふりこと同じように、同じ足の長さなら、一歩に要する時間は同じなのではなかろうか。そして歩幅の大きい人が速くあるき、小さい人がおそいのでは?」  仮説、仮定としては、着眼よし。真かどうかは、実験や証明しだい。
: 「点々で 時を示す 何時何分かを数字で示す 掲示板が銀行や、千葉駅にあるけれど、この板の正面あまりから陽がさすとき、その数字は非常に読みにくくなる。」  ドット表示の時刻掲示板ということだろうね。半世紀前のものだから、今と比べると精細さは雲泥の差なのでしょう。  正面あまりから、は、正面あたりから、か。
: 「A、BはそれぞれC、Dを、 C、DはそれぞれB、Aを」 「AはCを、CはBを、BはDを」 「これと、これは同じか?」  男女の相関図らしいが、入り組んだ図と円環図だけど、二つはほぼ同じと思える。
: 「くも 雲 の形をみて、芸術作品をつくったA。同じ雲をみて同じような芸術作品をつくったB。A、Bともに、盗作といいあう。」  なんだかね、素朴な自然と、せせこましい人間を象徴するような。
: 「オカボンちにしようたいされると、いつも部屋でまんがボンをよんでおわりなのだ。半日むいにすごすような。」  オカボのうちに招待されると。無為に過ごすような。  オカボ、遊びの企画(くわだて)が、得意じゃなかったりして? 話題の振り方とか?  (または、発起と受手のコンビなら回っていくけど、オカボもwakaも受手体質なので、コトが始まらないってかんじかも)


当頁 2019/09/24(火) 〜