表紙
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1973/08

 














1973/08/01 すべて、2つの星は
 




















1973/08/01 オモロ
 














1973/08/03 というテレビの見方
 






















1973/08/05 バチーン
 














1973/08/07 せじゃないの?
 














1973/08/09 「八月九日の通話」
 
















1973/08/10 中にいれば、ビルにいるも同じ。
 














1973/08/12 どのようにまとめたらいいか。
 














1973/08/12 ここをひんまげて
 














1973/08/13 このぐらいの大きさがいい?
 














1973/08/14 ♪
 














1973/08/15 エッベチヨオーノオ グッチャグチャアー
 














1973/08/15 ♂ ♀
 
















1973/08/16 あみめとは
 














1973/08/19 やしゃまごが生まれるまで生きていよう!!
 














1973/08/21 コリコリやってむくのだが
 






























1973/08/26 ジスマークは子供の顔
 
















1973/08/28 くすくすわらう
 












〔表〕


〔裏〕


〔裏、180度回転〕


〔表、右90度回転〕

1973/08 3大宿題
 


















1973/08/31 いろいろな虫の声がする。
 













画像 アップ
『1973/08/01 すべて、2つの星は』 2021/08/23(月) 〜
『1973/08/01 オモロ』A、B、C、D 2021/08/30(月) 〜
『1973/08/03 というテレビの見方』 2021/09/06(月) 〜
『1973/08/05 バチーン』 A、B 2021/09/13(月) 〜
C、D 2021/09/20(月) 〜
2021/09/27(月) 〜
『1973/08/07 せじゃないの?』 2021/10/04(月) 〜
『1973/08/09 「八月九日の通話」』 2021/10/11(月) 〜
『1973/08/10 中にいれば、ビルにいるも同じ。』A、B 2021/10/18(月) 〜
『1973/08/12 どのようにまとめたらいいか。』 2021/10/25(月) 〜
『1973/08/12 ここをひんまげて』 2021/11/01(月) 〜
『1973/08/13 このぐらいの大きさがいい?』 2021/11/08(月) 〜
『1973/08/14 ♪』 2021/11/15(月) 〜
『1973/08/15 エッベチヨオーノオ グッチャグチャアー』 2021/11/22(月) 〜
『1973/08/15 ♂ ♀』 2021/11/29(月) 〜
『1973/08/16 あみめとは』A、B 2021/12/06(月) 〜
『1973/08/19 やしゃまごが生まれるまで生きていよう!!』 2021/12/13(月) 〜
『1973/08/21 コリコリやってむくのだが』 2021/12/20(月) 〜
『1973/08/26 ジスマークは子供の顔』 A、B 2021/12/27(月) 〜
C、D 2022/01/03(月) 〜
E、F 2022/01/10(月) 〜
2022/01/17(月) 〜
H、I 2022/01/24(月) 〜
『1973/08/28 くすくすわらう』A、B 2022/01/31(月) 〜
『1973/08 3大宿題』A、B、C、D 2022/02/07(月) 〜
『1973/08/31 いろいろな虫の声がする。』A、B、C 2022/02/14(月) 〜

※ 『1973/08/01 すべて、2つの星は』 : 「あきびんはせんをつけて、すてるべき?」  半世紀前の、リサイクルの常識はどうだったんだろうね・・  ふつうは、ビンと栓の材質が違うから、分離すべしなんだろうけど、 栓のない空きビンが放置されて水がたまり蚊等が発生するからよろしくない、なんて理屈もあったか。
: 「午前中、ねてたら、念力でものを動かせる夢をみた。みえない所の物も 透視してみてはいるが、 動かせる、とわかってよろこんでいた。」  超能力者になった夢か。悪くない。高揚するよね。吉夢の一種といっていいのでは。 
: 「昔、白は他の色と同等に考えられていたのではないか?」  ふうむ。こういう疑問に気づく、わりと鋭いじゃないか。  子供の頃から、絵というのは、白い紙にさまざまな色のクレヨンや色鉛筆で描いていくもの、と思わされてきたために、 現実にも白い紙のような基礎とか土台があってそこに色々なものがのっていると感じてしまっていた、のではないか、という気づき。 白はまだ未完成、なんらかの色を塗られて一人前、だから白は色のない色、という感覚か。
: 「超の走が走るの走とはきづかなんだ。」 「この2つが同じと気づくと、走がはしるという意を示さないような気もした。」  どういう気がしたんだろうね。走るよりのろいのではなく、逆に飛越するぐらいのイメージか。
: 「すべて、2つの星は下図のように、両方とも円をまわっている。」  正しいのかどうか、waka君の解説だから、信用度低し。  現在の私の理解だと、重力の鎖でつながれながら互いにまわっている、という感じなんだが、 星二つならまだしも、三つとかになるともうわからなくなる(笑)

※ 『1973/08/01 オモロ』 : 「マメトウフ」  豆豆腐? 豆入りの豆腐? 小さな豆腐? 豆腐は大豆の加工食品なのにさらに形の残る豆を加えて固めてあるみたいな? → 当時は何を指したのかよくわからないが、現在検索すると、マメと豆腐をまぜたりする料理のレシピがそこそこの数、ヒットする。
: 「三郎がきらいなとき、「太郎はへびと三郎がだいきらい。」と書いたり、言われることある。こんなところに、こんなふうにへびをもちだしたり、他の何かをもちだすのは、いつごろだれがはじめた? 今は、どのような意味をもつ?」  人は、へび嫌い、くも嫌いに大別される、とかきいたことある。嫌われ者の代表格ということで引き合いに出されているってことでしょう。語調に勢いもつくし。  「へびと同じぐらい三郎がだいきらい」ともいうか。なんとなく、女子のセリフであるほうが収まりがよいような。
: 「「くさりもかえたので、料金は前にいったのより500円あがります。」 「それはないよ。あんたのみたてがいけなかったんだろ。2000円だ。」」  この客はwaka君のキャラじゃないので創作会話だろうが、既述(一週間ほど前、display『1973/07/23 人間の醜い心をいやすための器械』)があるので腕時計を修理に出していたのは事実。引き取るとき、上と似たようなことを言われたか? あるいは、引き取る以前の妄想か。
: 「必」の書き順。二通り吟味しているが、ネット情報では、二つ目が正解らしい。
: 「なんか、夏休みよりも学校にいってる時の方が自由に思えてきた。ふしぎだなあ。学校の方がおもしろいように思えてきた。ふしぎだなあ。」  制約が多いはずなのに、不思議だよね。でもこういうことありがちな気もする。
: 「二刀流をつかうなら、短い刀は右にさしたらどうだろうか。」  昔の武士、サムライが、重いのを二刀も腰紐に差していたって辺りが、感覚的にわからなくなるよね。 改めて考えてみると、邪魔でしょうがないような気がしてくるが・・ 当時の彼らには日常的なことで、気にならなくなっているんだろうか、やはり。
: 「なぜ、刀は2本さした。この2本のそれぞれの名称は?」  刀と脇差か。  wikipedia には、>>江戸時代武家諸法度の第一次改正により、武士の正式な差料が大小二つの刀を差すよう定められ、大刀(だいとう)を本差、小刀(しょうとう)を脇差として装備することになった。<< とある。
: 「馬の尻尾は、ただ毛があるだけ?」  それでは尻尾を動かせないでしょう。
: 「オモロ」  面白い、の意。  イラスト。天板と底板の間に、糸がつながれているが、そのつなげ方が、素直でない感じ。三態?   これを実際に製作した場合、安定して静止できるのか? 例えば、三態目のようなものを組み上げたとき、四角い板の上に物を置けたりするのか?  実験してみないとなんとも言えないような・・
: 「ボールペン。」  三色三本のキャップとさやの組合せを変えている図。インク(芯)の色は、キャップとさやの色以外の残り一色、ということらしい。
: 「さや=キャップ・・・?」  筆記具の先端にかぶせるものを、キャップともいうし、鞘(さや)ともいう、と気づいたらしい。 なので、キャップと筒、という言い直しを考案したようだ。
: 「夏は水のある所がきたない?」  どう解釈したらいいのか、言葉足らずですな。  虫が発生したり藻や草が繁茂したり、生物が活性化する様子をいうのか。
: 「ま■■たちきたりぬ。」  従姉妹たち。
: 「他人から推測されるA君の心。 A君が感じる自分の心。 A君の真の心。 }この3つがあるだろう。 もっとある?」  わりと有名な所では、四つの心というのがあるよね。自分が知っている知らない、他人が知っている知らない、の組み合わせで四つ。自分が知っていて他人も知っている自分の心、自分が知っていて他人の知らない自分の心、自分は知らないけど他人は知っている自分の心、自分も他人も知らない自分の心、の四つ。  ジョハリの窓、ということで、wikiなどに載ってるな。
: 「たとえば○ 例えば○ 例ば× シン■■はよく、「レイバ」という。」  シン■■君、何度か名前が出てる。  display『1973/06/13 前へならえ』 の注記で、シン■■君のことを、「そこそこ親しいクラスメートのはずだが、顔などまったく思いだせず。」と書いた。 しかし、その後、display『1973/07/20 とにかく、動いていく方向がある。』にて、シン■■君が文学クラブ員と判明。 たいして人数のいなかった文学クラブ員なのに、顔が浮かばないってのはおかしいな、と何日か、断続的になんとなく気にしているうちに、逆に文学クラブ員のリストに「あいつ」がいないのは変だということにも気づいた。 で、まもなく、そうか、シン■■ってあいつのことだったのか! と閃き、符合。 シン■■君という呼び方が、本名そのままではなかったので、別人かと勘違いしていた、私。 高校卒業後全く会っていないけど、ほがらか、でも皮肉屋なところもある、ひょうひょうとした男子。笑みとともにある語り口が自信ありげな。
: 「おんでる」  追ん出る、か。
: 「こう考えれば、まともに女性とつきあえるだろうに。 ところが、美醜がそのまま強弱になるため、美女に対する、私、醜男は、強者に対するまけん気のつよい弱者のごとくけんかごしになってしまうのである。」 「アカニシカキタ内のをいくぶん使う。」  志賀直哉の小説の主人公名。あの短編の文言をまねたか借りたかしいているってことでしょう。
: 「ドアのかぎをしめたら、ドアのとってをグッとまわしてみてあかないのをたしかめる人が多いだろうが、片方にまわしただけでたしかめるのは不用心。もう一方にまわしたとき、あくかもしれぬ。つまり、もし、カギがはまっていないとするとき、とってをまわす場合、片方にまわせばあくが、もう片方にまわしたのではあかない。それなのに、そのもう片方をまわして、あかないので、カギがかかっていると思ってしまうかも。」  カギを何度もたしかめる、強迫神経症的なくせは、私の場合、過去も今も健在。本項はその証拠、まだきざし程度だったのかどうかはよくわからないけど。
: 「A君、プールサイドで気持ちよくねてた。うとうとねてた。 ・・・・・ 」  類型的ながら、オチもほどよく決まった小話。もうすこし丁寧な語り口に修整すれば、格好はつきそう。
: 「嫌 なんで、ここに女がくるの? 好き ここにも女がくるね。」 「好きだ嫌いだには、男にとって、女が関係するのでしょう。」  手元漢和辞典によれば、好はそのまま、若い女の美しさの意。嫌には、女偏であることのことさらの説明はなし。  ネットで調べると、大昔、漢字の生まれた頃、通常の人間は男で、女は通常の人間としては扱われなかった。女偏の漢字群は、男からみた女のふるまい(男の観察対象である一段低い女性たちの様子)を表わしたのだそうな。  (つまり、人間からみてかなり異質な動物たちに、けもの偏をつけた感覚と相似、ということらしい)(男偏の漢字が極端に少ないのも同じ理由らしい。男は観察対象というより自分らのことなので男偏はあえてつける必要がなかった、つけるなら人偏をつけたってことなんでしょう)
: 「はやうまれは4月1日まで? 4月2日からおそうまれ? はっきり知りたい。4月1日はどっちでもいい?」  どっちでもいいということはないはず(笑)  文部科学省のサイトで詳しく説明されています。>>よって、4月1日生まれの児童生徒の学年は、翌日の4月2日以降生まれの児童生徒の学年より一つ上、ということになり、一学年は4月2日生まれから翌年の4月1日生まれの児童生徒までで構成されることになります。<< とのこと。
: 「ればそく」  「レバ則」のことでしょう。漢文方面の語。  すなわちの同訓である則ち、即ち、乃ちなどのなかで、則ちの働き(仮定や条件と帰結との密接な連関を示す)を他と区別するための呼び方のこと、だそうです。( ← 手元漢和辞典など参照した上で書いてます)
: 「日本はアメリカ的社会に確実に近づいている。小数のエリート。養われる多くの脱落者。」 ・・・  以下、米国に比較して日本には違う様相がありえると説く。(なお、小数は少数が適切)  「しかし、これと同等にはならない。日本にはアメリカにはない伝統がある。日本古来からの文明が生きている。近代西洋的なものをきわめられない人は日本的なものに自分をかけることができる。」 ・・・  「日本で、近代西洋的社会機構がきわまればきわまるほど、その一方で、日本的社会が力を得てくるだろう。伝統は死なない。老化をしても、水を与えればすぐ生き生きとしてくる。近代西洋的社会において、不用になった水はそれを吸いたがっている伝統に流れる。そこで、日本はアメリカのようにならない。アメリカは不用になった水を吸う者がいないから、いまに水びたしになって、その中に沈んでしまうだろう。」  という結論だが、日本の伝統に期待しすぎているような気もするな。  結語の水びたしが何を意味するか、いまいち具体像が浮かばないけど、やばそうな雰囲気はわかる。しかし、何か不都合が生じればそれを掬い上げて着実に修整していくしたたかさが米国にはあるよね。そこぢからみたいもので、まったくあなどれないものが。  2021年現在、米国は、分断する社会、増大する貧富の格差、そういう構造的な問題に苦しんでいるかにみえる。それらでさえ、米国なら克服していけるのかどうか、半世紀前のwaka君の予言が当たってしまうのかどうか、見届けたいですな。 そして、日本はどうなっちゃうの、神がかり的な調和でしのいでいけるの、にっちもさっちもいかなくなって破綻してしまうの・・? という辺りももちろん。 ただ、それらにつきあうにはさらに何十年もの時間が当方にも必要になりそうなので、ややあやしいけどね(^^;
: 「今だに、遊びほうけている。悲しいよう!!」  夏休みだしね、むしろいっぱい遊ぼうよ。ゆるす(笑)
: 「大童 :おおわらわ :?」  調べると、髪型関係の言葉となるらしい。
: 「ほどちかい  ほどとちかいはわかれていない? 2つで1つの品詞?」  いちおう、1つ(の形容詞)とみなして辞書にも載っているが。
: 「一月500円どまり」  ひとつき500円どまり。どまり、に関心のようす。
: 「「?」の形はどこから来た?」  waka君の吟味、「2つのうちどちらか=?」が元であったとして、これが短縮されていき「2○」となり、ついには「?」となった。  ここまで来ると珍説というより妄想だな。  wikipediaでは、>>ラテン語のquaestio(質問する)の最初のqと最後oを縦に重ねた合字という説がある。<< といっているが、なぜ縦にする? waka君のレベル(こじつけ)みたいな気もする(笑)
: 「神名四案とは?」  謎だな。検索しても出てこないし。同音異義語がまじってる?  引用元(原典)の文脈がみられるなら、なんとかなりそうだけどねえ、半世紀前の何かしらなので、もう遠すぎます。
: 「三顧の札 三顧の礼 >?」  三顧の札ってのはないよね。劉備と孔明の逸話、知らないはずはないと思うので、何か一時的な錯誤(ゲシュタルト崩壊的な理由で漢字が読めなくなっていた、すくなくとも札と礼の区別ができなくなっていた、とか)の状態にあるのかも。
: 「博奕 :バクエキ バクチ ・・・?」  ばくえき、こちらの読みがむしろ正式らしい。  ただし、本文の博奕の博、木偏になってる。
: 「ごはんを少ししかたべなければおかずが多くたべられ、おかずをすこししか食べねばごはんを少ししか食えぬ。」  最後がおかしい、あるいは、前記と矛盾している。  実際問題として、おかずをたくさん食べるからご飯もたくさん食べられる、という理屈も成立しそう。
: 「ビールコップにいっぱいすこしずつ、最後にククーとのんだよ。ちょっと頭がいたい、ほんのちょっと。」 「お母さん、酒ののめない男なんて、およそ(つくづく)つまんない。のまれない程度にのめるようにしろだって。」  要するに、未成年でありながら、母親が飲ませてるんだよね。(^^;;  といっても息子、すでに十六才か。( → 高校卒業後、十八才頃には立派な酒飲みになってます)
: 「称 との う }?」  訓読みは、とな・える。別に、たた・える、もあり。  称う、は、たたう、と読むのが正しそう。となう、でも誤りではないようす。 しかし、とのう、は少なくとも書き言葉としては辞書等に載っていない。
: 「仇名 :アダナ」  渾名、綽名がふつうか。本名とは別のよび名。愛称や蔑称。  仇名、徒名は、男女関係についての噂や根拠のない悪い噂とか。浮き名、悪評に近いらしい。
: 「宿尻る しくじる }?」  もろ当て字か。この一帯、たぶん、何かの小説を読みながら気になった語をメモしている。
: 「今、右のようなへんな虫がスタンドの所にきました。草色というか、草と青のまじったうすい色をしていたよ、全体的に。 なんというのかしら?」  左のような、ですな。  なんだか、かわいい姿だ。
: 「リードペーパータオルにでてくる日本人の女性。声も大人。顔もすずしい大人、といった美しさ。気品と質素。」  キッチンペーパーらしい、検索してみると。リードがブランド名。となると、そのTVCMの中にでてくるタレントってことでしょう。 今はもう名前とか確認のしようもないか。(半世紀前ぐらいのTVCMの動画、ネットにはいくつも揚がっているみたいだ。とはいえ、このCMに行き当たったらキセキ的かも)

※ 『1973/08/03 というテレビの見方』 : 「法律をしらない人が法律をやぶってわるいか?」  刑法第38条でこの関係が定められているもよう。(ただし、一読ではすんなり理解できない・・)
: 「世界の本を日本語に訳せないものだろうか。」  世界中のすべての本を、という文意だろうな。  量的に無理でしょ。人が訳すかぎり。 世界中のたいへんな数の人々が日々文章を書くわけで、日々、たいへんな数の本が生成されているのに、日本語に変換できる翻訳家は、比較すればほんのすこししかいないのだから。 よって、本国で多少でも評価されている本の中から翻訳対象を選択することになるだろう。本国でほとんど評価されない(しかし訳されれば日本で大変に評価される)本が、視野に入る可能性は低い。  → ただし、現在(および将来において)は、機械に翻訳させる、という手段がある。 精度を上げていけば、いずれ、生身の翻訳家の能力を凌駕しそうだ。 そうなると、世界中のすべての本を、というのも無理とは言いきれなくなるか。 無理ではないけれど、誰がそれをするのか、費用はどこから出るのか、大量に翻訳できたとして誰が読むのか、など、別の壁はまだ幾重にもありそうだけど。 でも、本文にあるwaka君の願い、「日本人の感覚で、他国では認められない本を認」める、これについては、質、量ともに、ぐっと実現されやすくなるのかも。 そして、もちろん、日本では認められない本(初版千部、それでも大半が売れないまま朽ちるような本、あるいはネットの片隅で百年経ってもカウントが百にも達しないようなサイト)が、他国で認められる(ミリオンセラーになったり数々の賞を得たりサーバーがパンクしたり)ってことも!? (おおげさ ^^)
: 「本」が形態変化して「右」へ。相当に強引。
: 「つめのきりかすがばらばらでてきた。」  なにこれ。どこから出て来たの。  だれの爪、足か手か、あたりも気になる。  waka君が自分のを切ったばかりのそれ、ではなさそうだよね。  といって、他人が切ったものが、相当な時間経過後に、どこかからでてくるってのも奇妙だ。  これはたぶん、過去にwaka君自身のを切って、そのときのwaka君が紙か何かにくるんで、机の中に放り込んだもの、でしょう。それを本文当時のwaka君が発見して、しかし、放り込んだことなどまったく記憶に残っていないので、だれのものとも分からなくなっている図、ということ、かな?
: 「戦い:タタカイ 互い:タガイ }似てる  一方がもう一方のもとなのでは?」  たたかうの元はたたく、たがいの元はたがう(違う)、だそうだから、似てはいるけど、同源ではないだろう。
: 「本朝×異朝であって、 本朝×次朝 ×前朝 ×etc }こんなのじゃない。」  本朝のみ、存在する熟語。他はwaka君の、説明の用のための造語。  つまり本朝の本は、今の、という意味ではなく、正しい、という意味だと言いたいらしい。  (朝は朝廷。我国ならそうかもしれないが、中国のように王朝が交替してきた国について使用する場合だと、今の朝廷、という意味合いになりそうだけど)
: 「将棋や囲碁の印刷では長い線を交差させて、めをつくっていくのではななく、「+」という形をいくつもつかっているのです。 なぜ、長い線をつかわぬ。」  比較絵図あり。  罫線、表などの版組の仕方、か。当時の印刷だからなあ・・ 罫線活字みたいものがあったんだろうなあ・・   とくに、将棋、囲碁の盤面図となると、それぞれ特有の工夫がなされていたのではなかろうか。うーん、幾種類かの現物(当時のそれら印刷物)を今、子細に比較検討することができれば、半世紀の経験値の蓄積もあり(後年、印刷会社でバイトもしたし、デジタルだけど罫線文字も知ってるし)、もうすこし詳しいことがわかるかもだが・・
: 「もし、1月 ひとつき という時が与えられて、作品を1つつくくれといわれたら、1月かけて、1つの作品をつくってはいけないらしい。どんなだ作でもどんどんつくり、どんどんつくった中でいいのをえらぶ。油ものってくる。いい作品と悪い作品の差がはっきりする。1つだけをねちねちつくっていたら、自分の力量の実体がつかめぬ。」  とはいえ、作家の性癖、文章の制約、題材にもよるよね。  たくさんつくるのが、ネタ段階なのか、下書き段階なのか、などの階層の問題もありそうだし。  ある程度、テーマが絞られている場合とか、書きたくてしょうがないものが最初からあるときとか。  過去作でうまく行った方法を、またなぞるとかもありがちだろうね。
: 「くらべる しらべる >とても似てる (∵ ○)」  ∵(なんとなれば)の理由○は、「く」と「し」が形態変化しあう仲だから、ということらしい。
: 「どちくせう!! じゅくに行き忘れた。 8:00になりアカヒゲの音楽きいて、すこししておもいだす。」  どちくしょう。  すっぽかしちゃったのね。夏休みになって、生活パターンが以前と違ったためだろうね。  英語塾なのだが、その塾が好きとか嫌いとかでなく(どちらかといえば嫌い、面倒がっていたけど)、waka君は要するに、約束を違えることのほうが嫌なのだよね。  なお、アカヒゲは、『赤ひげ』で、当時毎週金曜日、NHKで放送していた時代劇ドラマ。原作:山本周五郎。
: 「日本人ははしをよくつかう。 はしは右手にもつ。 そこで、はしを口に入れると、右の口もとから、左のほおに向かってはいる。 そこで、いつもつかう人は、右の口もとがさけぎみになり、左のほおが外にでっぱる。  ? 」  考えすぎ(病的?)の気がする。外人でも右利きが多いなら、(ナイフやフォークで)同じようなことが言えそう。  ただし、ごく軽微だったり、そう思いたくない無意識のため、実際はそういう理由でそういう左右の非対称が生じてしまっているのに、無頓着だったりするだけかも。人々。
: 「ねまきの中にパジャマは含まれるのか? くわしく説明せよ!!」  なんとなく、和装なら寝間着。上着とズボンの洋装ならパジャマ。パジャマも含めて寝間着はありだけど、和装の寝間着も含めてパジャマはないな。
: 「AはBにふくまれる BにAはふくまれる >この差は??」  同等のはずだけど、どちらかといえば、AはBにふくまれる、といいたい。後者は、BにはAがふくまれる、としたほうが据わりがいいかんじ。
: 「けとうのさかうらみ、とは?」  下種の逆恨み、という慣用句との混同か。  けとう(毛唐)は、外国人を卑しめて言う語、と辞書は述べている。
: 「うらみに思う人から逆にうらまれること。← さかうらみ 」  人の好意を曲解してかえって恨むこと。でもあるそうな。(例えば、親切に忠告してもらったのに、その人をうらんだりすること)
: 「彳:ぎょうにんべん。 行という字に彳がつかわれるので、ギョウニンベン、というのか?」  だろうね。しかし、彳がデジタル文字(第2水準)にあったとは!  → ついでに言えば、手元漢和辞典の彳部(ぎょうにんべん)の中に、行はないのだ! なんということでしょう・・  さがしたら、行は、行部(ゆきがまえ)の筆頭にあり。ゆきがまえの文字とは、術、街、衝、衛など。
: 「ある作品をテレビ作品にするとき、一般受けするような題をつける。  そこで、一般の人はみてみようかな、とみる。その作品の作者の他の作品、もしくは、その作品を読んだことのある人、彼のファンは、なんで、一般うけするような題をつけて、彼らしい原作の題をつけなかったと不満ながらもテレビをみる。そして、原作を曲げてると、テレビをなじる。でも、結局たくさんの人が見ることになる。」  笑。何を言いたいのか、ちょっとあいまいな。  原作、原典の高さや硬さを噛み砕いて流布することには、罪もあるだろうけど、あんがい馬鹿にはできませんよ、という口ぶりか。

※ 『1973/08/05 バチーン』 : 「別世界」「月世界」  葛藤、決闘、骨董、殺到、執刀、窃盗、卒倒、鉄塔、熱湯、筆頭、沸騰、立冬、劣等なども同類か。
: 「「同類項」を「同類」と同じように使うのを考えだした、使いだしたのはぼくではないの? それともぼくより前の人がいた?  ぼくがよく使った言葉を社会の、テレビの中の人なんかがよく使ってる。ぼくがもと??」  自意識過剰か。だれでも思いつく程度の軽微な言い替えというだけ、あるいは、もともとすでに広まっていたのを耳にしていつか自分が思いついたようなつもりになって使っていただけ、とか。  テレビにでられるような「ぼく」であったなら、本文のようなことも無いとは言えないだろうけど。  ← ただ、「同類項」という語は、妙に「据わり」がいいんだよね。 「同類」を短縮するのではなく、伸長させているのに、そう言い替えるのがわずかに快感なのだ。 だから、テレビの中の人も、waka君も、ついそうしてしまったのでは。そういう事情もありそう。 (同類項が同類と同じように使われていることは辞書にも載っている。例文は1932年だから、だいぶ昔からなされていたらしい)
: 「まやくは無臭? 無臭のまやくなんてあるの?」  ネット情報をざっと眺めると、無臭ということはなく、独特の強めの匂いがするそうです。
: 「デブでニキビで頭がわるくて、運働ができなくて・・・何かとりえがないのかね、もう。」  何か失敗をして、または大恥をかいて、自己嫌悪におちいっているのかもね。  指摘はそれぞれ、そこそこ当たってはいるだろうけど、ひどいというほどではないよ。 つまりおおまかにいってしまえば、waka君のそれらは、ふつうの域。  取り柄がないということもないと思うんだけど、具体的に秀でたところとか得意なこととか、いざ思いだそうとしてもすぐにはでてこないってだけ(笑)  でも、ふつう、誰だってそんなもんでしょ? 
: 「お姉さんのハラヅツミもいい音。」  横で、弟もねころんではらづつみか。  この姉は、お嬢さん風、しっかり者の真面目キャラなのだが、根にはこういうひょうきんさもあるんだよね、きっと。waka君の姉であるだけに。
: 「袋 :ふくろ :こんな字かけなかったよ。」  前項で、こんな簡単な字、かけずに辞書を引いたよ、ということでしょう。
: 「周到 :しゅうとう :しゅうち、とよんでしまうことあり。」  致はちだけど、到はとうだけ。
: 「■■コも、ボーリングのストライクをホームランといってしまうよう。ぼくもだよ。」  笑。上の妹の■■コ、言語感覚が多少ずれているのだ。(兄も似てるのだけど、この妹のほうがズレが大きいかもしれない)
: 「ねてる」・・・「バチーン」  望遠鏡のそばで寝ており、足でけって(足で脚をへし折って)、望遠鏡がたおれて体にあたった、という連続絵図。  失敗話だけど、ありきたりで、とてもおもしろいという事もないから、創作マンガではなく、実際にあったことを絵で述べた可能性が高いな。文章よりわかりやすかろう、と。(そしてその手法は成功している)  ただし、望遠鏡の脚、かなり丈夫だったはずだし、二十代の頃もちゃんと立っていたという記憶があるから、へし折るまではしてなかったかもしれない。(つまりこの絵図には誇張もありか)
: 「このコインのはじをはじく。」・・・  コインを平面で立て、指で押さえる。このコインのはじをはじく。 はじいたコインが回る。これを上からたたいて押さえたときのコインの表裏は、はじく際のコインの傾きで操作できる? できそう? という思いつき。  たぶん、何度も試行して、ほぼ操作できるという見込みがついて、ここに記載していると思う。
: 「金星と火星、どっちが地球に近い?」  軌道のどこに位置しているかによるんだろうなあ・・   平均公転半径(おおむね太陽からの距離のことと思われる)は、  金星:約1億800万km  地球:約1億5000万km  火星:約2億2800万km  ということなので、おおざっぱにいえば、地球に近いのは、金星のほうなのでは?
: 「自分がなまけるのを、ほんとだれかのせいにしたくなってしまう。夜があると思っていたら、いつも■■。■■にいけば、勉強やるきおこらぬ。」  display『1973/07/23 人間の醜い心をいやすための器械』の注記で詳しく説明しているが、この夜も家業の職場の宿直を命じられているらしいな。いやいや従っているもよう。  父母らにしてみたら、成人近くになってきて、甘やかしてばかりでなくそろそろ家業の実務に慣れさせていきたい、って目論見もあったんだろう。  でもいやなんだよ(爆)
: 「お父さんのいびきはすごい。いびきというのは、音がでて、それからすこしの間息をすいこめないため音がでない。それからちょっとすこしして、やっと息をし、また音がでる。だからずいぶんあぶなっかしくも聞こえる。」  父との二人宿直で、いびきを聞いてる。  ほんと、父上のいびきは、大きめでした。(というと、自分はいびきをかかないみたいな書きぶりだけど、寝ている間のことは知らないし、ずっと一人暮らしだしで、実はいびきをかいているのかもね、父譲りの)  なお、この項の記述を読むと、父のそれは、単なるいびきではなく、睡眠時無呼吸症候群と名づけられる疾患の域に達しているのでは、と疑ってしまうよ。  父が硬膜下出血で倒れたのは、この約15年後。関係があったのかどうか・・
: 「エベチヨはアベクンが変化したのだったっけ? アベ アベッチョ エベッチョ エベチヨ  たぶんぼくのつくった名でない。」  中学時代のクラスメートのアベ君のあだ名では、と。この呼び方をはじめた(つくった)のはぼく(waka)ではないはず、と。  エベチヨは既出。display『1973/07/02 まったくそういうことがないとわかるや』『1973/07/03 エ〜〜ベ〜〜チヨ』等で、エベチヨの起源をさがしてもいる。ここに答えがあったか!?  でもまあ、アベ君のあだ名が起源としても、waka君としては、出どころを忘れてしまいながらも、エベチヨという奇妙な語感が気に入ってしまって、ふいに浮かんでくることがあった、たびたび口にしていた、ということではと思う。 だから、アベ君が大好きとか呪ってやりたいとかの意趣は全くなかったはず。
: 「広島に原爆がおとされたのは、アメリカがいけないばかりでなく、日本も、また、全人類もいけなかった・・・?」 「少なくともアメリカだけがいけないのではない。アメリカの軍人の一部だけがいけないのではない。日本人だって十分いけなかったはず。」  そうか。8月6日か。
: 「「犯人は、我々はパレスチナ人だ、といったのです。」「そうか。それじゃ彼らは日本人かもな。」「え、どうしてです。」「我々はパレスチナ人だ、といったのだろう。これは日本語だ。」「いや、英語で、そういったのです。」「じゃあなぜ、そうことわらない。あいまいな報告をするな。」「はい。」」  こまった上司だ(^^; どこの組織の話か知らないけど、やりとりが高校生レベル(というかwaka君レベル)だね、かなしいかな。
: 「めったなことでは  めったもない・・・?」  ふつうは、めったにない、でしょう。似た意味の、一度もない、にひっぱられたのかな。
: 「ポンとポンは対抗しない。ポンとチイは対抗する。チイとチイも。が、チイとチイの対抗をなくすため、チイは次の人しかできない、となった?」  麻雀、まだほとんど理解していない、初心者段階と思う。
: 「都市に星がでなくなると、皆、星の存在を忘れはじめ、宇宙への夢をもちにくくなる?」「とにかく、星のみえる空はすばらしい!!」  思いつきでかいているだけとは思うが、わりと的を射ているところがあるかもね。
: 「つめたい つべたい」  つべたい、もいちおう辞書に載っている。そのぐらい、口にされる言葉なんだ。(ちべたい、となると載ってなかった。方言ならありそう)
: 「床におとしたゴハンツブも見えない。」  これは自作の諺、とかではないな。 書かれているそのままで、近視のため、ちゃんと見えない、見えなくなっていたよってことでしょう。
: 「あつくて、体中にあせが流れて、あちこちがチクチクしてくると、ほんとに心がいらいらしてくる。」 「ただあつい時より、水をのんだり、メシをくったりのあとの方がどっと汗が流れる事多い。」  真夏だねえ。
: 「まくらにあたまをのせてねるのはいけないか?」  そのための枕なのに、なぜ? どこからこういう発想が?  枕や姿勢によってはうつむき気味になって、気道圧迫とかの懸念もないとはいえないんだろうけど。
: 「落語 落話 >?」  辞書によれば、おとしばなし(落話・落咄)が先で、あとから落語という言葉が成立したとか。
: 「キリスト教の天使の出現」  (7)の、一本足(しっぽ?)が折り畳まれたようになって二本足のようになっている図、斬新、というか、奇妙、異様(^^;
: 「オニのツメ ノ? 」  鬼の角。「大悩より新しい脳 それがツノ?」ではないか、という図。  そこそこの発想かと思う、当時にしてみたら。 でもこのアイデア、その後の半世紀の間にいくつも同工異曲が生まれた気がする。現在では古びてしまった。
: 「オスは両手でもって、オナニーをして、性器をきたえられた。メスもそうだろう。それに両手の発達によって、性戯がおもしろくなった?」  縷々、妄説を述べてきているけど、これは的外れではないような。
: 「遠心力を円心力とかいていたよ!! これではイミがぎゃくにもとれる??」  display『1973/05/31 そこで、右ききの人がでてくるのか?』でも、かいているよ。
: 「犬も足をあげてひっかからないように小便をする。人間のオスもしかり。 なぜなの? ただジャ−でもいいのに。」  ぬれるのが気持ち悪いじゃん、単純に。  なぜ気持ち悪い=不快に感じて、避けるようになったか、それが生体にどう有利か、不利の回避になっているか、あたりに答えがあるんだろうけど、研究してくれている学者さんとか学生さんとかいるんだろうか・・
: 「血は下半身、特に性器に流れると同時に、頭にも上る。これは頭と性器をつりあわせているためでは? つまり、頭と性器は対等なのでは?」  自由に思念をひろげているが、述べられている(まゆつばの)理屈にも、そして題材やイメージにも妙味を感じているみたいだ。
: 「A君、オフロにはいるためパンツとシャツをぬぐ。」 ・・・  「パンツはそこにひっかかっているのとどうじに、ぐるぐるまわる水にもついていたから、そっちにひきこまれる。ひきこまれながら、ひっかかっている所が、タイマーのつまみをまわす。そこで、パンツがつまみからはなれたとき、タイマーは5分をさしていた。」  オチ無し、か。当然時間短縮で、ちゃんと洗えませんでした、洗えていなかったでしょう、がオチなんだろうけど、これではほぼ何もオチてないか。よって、途中のプロセスの面白味がキモなんでしょうな。
: 「人の体では、すべて、受け入れる所が上に、だす所が下にある。」  「食物、水は口でうけ、下からだす。脳の情報を遺伝子にして、性器からだす。 その他として、音は耳でうけ、口でだす。空気はふつう鼻でうけ口からだす。もし、光をだす所があるなら、目より下。」  面白いね(^^)
: 「こういう所からも、頭と股が対等であることがわかる。」  「アタマとマタ  マタ タマ  アタマ キンタマ」  ノッテル。笑。  偶然ではない気がしてくる・・ 
: 「もとの生命体の6本の突起のうち、しっぽの部分が、人間にはない。そのかわり、人間には性器がでてるのか?」  「つまり、しっぽがない分だけ性器が発達したのか?」  「生命体のエネルギーを10とする。」  発生(進化)過程において、この10がどう分配されたかの、連続イラスト解説。  四つ足と人間では、しっぽへの配分がないだけ人間の性器への配分がおおい、と。  こだわりますね(^^) うれしそう。このまま無理が突き抜けられれば、トンデモ理論でもひとりだち(支援、支持、承認が他からもらえたり)できるかもね。
: 「人間が大繁殖したのは、しっぽがないためではなかろうか?!!」  革命的な発想(でもたぶんまちがい)。
: 「ふつうの人はどのように息をすってはくだろうか?」  ささいだけど、おもしろい分類。
: 「男が夢の中で女の乳房をつかんでいるとき、ねているその男はたいてい、自分のむねか、にのうでをつかんでいる。 ほんと?」  いかにも頭で考えたふうで、嘘っぽいが、たしかめていない(たしかめづらいよね)。
: 「人前でも、いつでも、どこでも、やりたいときに恥をかくことなくオナニーをするにはどうしたらよい?」  試み的に設問をたててみただけ? そういうことを是非したいなどとは望んでいないはず!?  (答えになっているかどうかわからないが、エアオナニーをきわめる、などということはできないだろうか。オナニーをしたつもり、イメージ、空想の中でオナニーをして、実際に肉体を反応させる。  うん、ここまではありえそうだな。すでに誰かしている気がする。  実際に肉体を反応させることすらしない、ピュアなエアオナニーなんて高みももしかしたらあるかも。イメージの中で最初から最後まで完遂、精神のみがここちよい疲労、とか!?)  (いや、そもそも、オナニー自体が、疑似行為≒空想の中で性交をしつつ的なもの。よって、エアオナニーはそういうものを二層重ね、ピュア・エアオナニーは三層重ねている。かなり高度な技ってことになるのか!? 高度すぎてつまらなそうでもある(笑))
: 「拒據■◆」  ■、◆ともに、广で、中に単純な画数がそれぞれ入っているんだが、デジタル文字に見当たらず(手元漢和辞典でもそれらしき文字見当たらず)。これらも、そして、拒據を加えた四字としても意味不明。
: 「牛乳をかむようにして飲むとよい。」  猫の牛乳の飲み方を見せながら、父が男児wakaにこの通り諭したことがあった、たしか。
: 「間口 :まぐち  門口 :もんぐち× かどぐち○」  もんぐち、という読みもあるらしい。
: 「聞くは一時の恥、聞かぬは末代の恥」  一時は一旦、末代は一生といわれることもあるもよう。
: 「一時 いちじ いっとき >どっち??」  前項の場合、語の勢い的に、いっときか。
: 「いそうろう、たばという字をよけてよみ。  どういう意?」  waka君がどこかで目にした古川柳なんだろうけど、これがいくら調べても、意味がわからない! 難解・・  ネットで検索したところ、「居候たばという字をよけてのみ」という酷似した川柳を発見。しかしその掲載頁に句の解説はなく、これも意味不明。  よみ、のみ、のどちらかが正でどちらかが誤なのか、どちらもありなのか、というあたりも、句の意味が解明できないので判定できないまま。  → というわけで、検索しても手がかりがみつからないので、答えをどこかでみつけるのではなく、自力で解釈しようと、苦闘。  ずっと(足かけ数ヶ月?)、たば、の二字をよける前の単語は何だったのか、つまりたばを含む語で意味のある数音の言葉は何か、という方向で、いわば文字パズルのようなことを考えていた。  しかし行き詰まり、一時はほとんどあきらめ。で、放置していたんだけど、ある日、二字をよける前の単語をさがす、というのが方向違いだったのかもと、ふと浮かぶ。  → 「たばという字」は「束という字」で、束=束ねる。居候君は、束縛を嫌う自由人ゆえに、この字を忌み字にしているってことじゃなかろうか、と。これなら、よけて読んでも、よけて呑んでも、かろうじて意味は通りそう。  御の字、ほの字、等という言い方があり、長太郎を長の字などともいったはず。「束という字」も、文字というより、だれか人を指すのかも。「束ねとなる人」つまり、統括者、おさ、とか。これだと、よけてのみ、はよりしっくりしてくる。  以上、あくまでも、なんとか思いついた暫定案。正解だという確信は無し。
: 「くださいませんければ  くだされなければ  ??」  くださいませんければ、はいかにも変だよね。古い小説あたりからの引用か?
: 「看病が美しいのでさじをなげ」 「夫を看病している妻がうつくしいので、医者が、その夫をにくらしくなって、もうだめですよ、という―― ?  こうなら、けっさく!! ちがうなら、どういう意?」  この川柳も紹介しているサイトはあっても、意味解説はなし。  これは想像するに、本文の意味まではなく、医者が来たが、妻が美し過ぎるので、これは房事過多による衰弱、どんな薬も効きませんとサジを投げた、ということでは? 
: 「みんなが が死するわけではない。 多くは死んでも、少数は残る。べつにまあたらしことではない。 10分1ぐらいはいくらなんでも残る。 )メシが3人分、人が10人。みんなにわるいからとだれもたべずに死ぬなんてことがあるか!!」  3項前の「ざぶとん3枚。人が10人。」の発展形なのか。餓死などと、いきなり深刻。
: 「瀾れる  瀾」  1字目は中身が東。
   手元漢和辞典によれば、「ラン」「なみ」が読み。なみだつ、とか。  瀾れる、の読みは謎。ながれる、か? はげしくなみだつ、意もあるらしいので、みだれる、もありか。
: 「目じゃない 目にものみせてやる >?」  この二つ、前者は否定していて、後者は肯定しているのに、意味するところは似ていないか、といいたいんでしょう。  これを吟味するには、それ以前に、それぞれの言い回しの起源をちゃんと知ってからだよね。  目にものみせてやる、はだいたい想像できるけど、目じゃない、が手探りか。  見るに値しない。博奕の目にもならない。などが候補だけど・・  (ともに、俺が上、お前が下、というもの言いなので、似て聞こえる。目じゃないの目は俺の目、目にものみせてやるの目はお前の目、だから否定と肯定になる。ということ?)
: 「祖父は孫をカンドウできるの?」  感動ではなく、勘当だね。  法的にどうこうではなく、縁を切った、縁を切られた、と双方が思えば、事実上の勘当となるんでしょう、現代では。
: 「日本人の主食はゴハンときまってらあ。さもなきゃパンてのが相場だ。そんなのにいつもそばってえのはふざけてるじゃねえか。」  聞き書き? または、江戸っ子風に最近のwaka君の家の食事メニューに文句をつけてるのかな。  あるいは、文句をつけているのもポーズで、メニューのかたよりの記録を残したいだけかも。

※ 『1973/08/07 せじゃないの?』 : 「本、読んでんですよ。」  文意ではなく、おそらく、で−でのくり返しが面白い、と。
: 「本を枕にしていいものかしら。」  足げにするよりはましか。
: 「ここは何というの? せじゃないの?」  帙(ちつ)は別のことなんだよね。  ネットで調べると、本文の通り、背で正解。
: 「家尻切り、とは?」  やじりきり。家尻で、家や蔵の裏手をいい、家尻切りで、そこの壁に穴をあけて盗みに入る意となるそうな。  これは調べないとわからんわ。
: 「ひとつ忘れる。」 「「きようびんぼうとは」ということだったらしい。」  一項、書こうとしてたんだけど、書く内容を忘れる。 直後思いだして、忘れたのは、「器用貧乏とは」ということだったらしい。・・といってる。  ただし、「きょうびんぼう」と読めなくもないか・・ このつもりで書いたとしたら、器用貧乏の聞き間違いor読み間違いか。京貧乏(京の着倒れみたいなことか)、今日貧乏などの語が引用元で実際につかわれていたってこともないとはいえないが、脳内ではそんなふうに変換されて一体どういう意味、由来なんだと少々興味がわいた、のほうがまだありえるかも。  ちなみに辞書を調べると、器用貧乏人宝(きようびんぼうひとだから)という成句があるとのこと。 器用貧乏な人は他人には重宝がられるが、その人自身は一つのことに撤しきれず大成しない、という意だそうな。 人宝、字づらとはうらはらに、なんかせつない語だ。貧乏くじを引きやすい資質ってことか・・ (パシリ属性?)  (でも、こまごまと他人の役に立てて感謝もされるってことだろうから、わりと幸福な人生かもしれないな、大成なんてこととは無縁でも)
: 「準 准 >この差は??」  ほぼ同じ使い方をするもよう。  → というか、手元漢和辞典によると、准は、準の画数を省略したもの、準の俗字、とのこと。つまり同じもの。 官庁の文書に関する用語には、准が多く用いられる、とも。
: 「つるむ :交尾む」  連む、という語もあって、交尾むとはいちおう別語らしい。
: 「「身売りをしてた金さんが、せっせと働らいて金をため、自分の身になったとよ。」 「どこの店でいくらなんだい。」 ・・・  落語調の会話劇。30両の給金を貯めて30両の借金を返したが、雇った大多屋は、30両の給金を払ってそれを丸々返させたわけで損得無し、金さんの10年はただ働きじゃねえか、と一時は盛り上がる。  ・・・ 「このあほんだら。いいか、大多屋は金さんに30両貸した。それから、10年半まとめて30両の給金を払った。しめて60両だあ。金さんはだからって、30両返した。もう30両はお店で働いてはらったんだ。いってえ、大多屋のとこがいけいない。金さんに60両もはらってんだぞ。」」  ということで、錯覚が解消されて、幕。  落語調だけど、錯覚してましたってだけでそれが解かれればそれだけのこと。オチとは言えないな。  つまり落語を創作したかったのではなく、とっかかりは、waka君の何かおかしいという気づきを吟味するための会話体裁だった(この錯覚の陥りやすさについても吟味しているかも)、ということなんだろうけどたぶん、それをこのように仕立てるシャレごころは、まあ、わるくないよね。(あるいは元になるような、似た筋立ての落語があるのかもしれない)  「大多屋」という一般的とは言えない固有名詞の出所は何かな。デタラメでないなら、その元になった落語で使われていた? 大店(おおだな)からの類推、ひねり? それとも、現実にある千葉銀座あたりの店の名称を借りた?
: 「浅黄幕のよみは?」  そのまんま、あさぎまく、ですな。  ネット情報によれば、浅黄(=浅葱色、青系の色
)と白の二色の縦縞で構成される幕で、神事などに使われる。  歌舞伎で使用する浅黄色一色の幕も同じ呼び名、とのこと。
: 「おじいさんが長生きをすると、そのまごに同じ名をつけるという風習。日本にも西洋にもあるらしい。例えば、エジソンがそうだ。 トーマス・A・エジソンだっけ?」  とwaka君はいっているけど、真偽未確認。
: 「おじいさんは108才。まだ死んでいないが、おじいさんのむすこ夫婦の3男におじいさんの名をつける。108も年をとれば、これからいつ死んだって長生きだ。えんぎのいい名だ、というわけ。ところがおじいさん、」 ・・・  エピソードとしてはおもしろい。物語にはなっていないが、その美味しそうな部材にはなってる。  前項を受けて、お話を語ってみた、というところか。  (高校二年生の夏休みのこの時期、どうやら、秋の文化祭で発売する文学クラブの文芸誌の原稿(作品)をひねり出さねばならないというプレッシャーがあったみたいだ。そこで、小話程度でもなにか産み落とせないかと模索しているのでは、その一つではと思う)
: 「帰る これを「けえる。」とよんでいいの?」  そうふりがなを振ってもいい感じ。少なくとも、どこかの方言だろう。
: 「苦心 苦辛」  苦心とは別語だが、苦辛という語もあり。
: 「今日から、心をいれかえて勉強します!! しかし、あしたから高校野球があるんだな〜〜不安だなあ〜〜」  笑。夏休みのお楽しみだよね。
: 「これはもう本能的なものだ。」  喜びと失意の差が大きければ大きいほど、墜落の衝撃はひどく、傷も深く、心はどくどくと出血する。  本能かどうかはわからないけど、そういうの、大昔からさんざん体験してきたんだろうな、人類。

※ 『1973/08/09 「八月九日の通話」』 : 「■■中には漱石先生の「坊っちゃん」の原稿があるのです!! 中学の頃、ちらっとみました。」  中学時代、学校の玄関そばのホールに展示してあるのを見たことはたしか。あれは本物だったのか、複製だったのか。 本物として、文豪の生原稿、意外と意外なところが保管していたり、というのは、わりとリアリティーあるよね。 
: 「はだしでたたみをきつく、体重をかけてこすれば、痛いようなあつさを感じる。もえたよう。」  摩擦熱か。あるいは、皮膚がきつくこすられてヒリヒリしてる?
: 「「通話」というのを書いたけど、どうもぼくの心のキズがにじみだしていない。」  「「通話」を「八月九日の通話」と改題した。」  結局、これを、この高校二年の秋の文化祭で発売した、文学クラブの文芸誌に載せた。waka君の作品の、初めての活字化。  記憶では、自己評価はあんまり高くなく、しかし他に思わしい作品ができず、しかたなく、という経緯。 原稿はシュレッダーしてしまったかもしれないが、活字になった当該誌は、残っている。 しかしまあ、もろ、執筆時の現実の日付をそのまま題名に採っているんだね、この作品。
: 「昔は、あくまでも、そんな悪事をしませんでした、としらをきったものだが、このごろはあっさりはくじょうする。」 ・・・   waka君自身のことなのか、世間の傾向をいっているのか、どちらにもとれそう。 この項を終わりまで読むと、後者のような気がしてくる
: 「「担え銃」:になえじゅう」  になえつつ! が正しい。小銃を肩にかつげ、という号令。
: 「快美 快味 >?」  あまり耳にしないが、ともに辞書に載ってます。
: 「封じる  ほうじる ふうじる >??」  封ずる、で、ふうずる(ふうじる)、ほうずる、の二つの読みがあり、それぞれで別の意味をもつ。 ただし、ほうじる(封じる)という語、読みは辞書(精選版日本国語大辞典 (C) SHOGAKUKAN Inc.2006)に載っていない。
: 「うつつ 現実 ゆめごこち >なぜ、相反するような2つの意をもつ? 反しないのか?」  うつつは本来、現実、実在、正気などの意なのだが、 〔(「夢うつつ」と続けていうところから誤用して) 夢か現実かはっきりしないような状態。また、そのような状態にあるもの。(イ) 夢を見ているような心理状態。夢見ごこち。夢。まぼろし。(ロ)うっとりとした状態。(ハ)正気のないこと。魂のぬけたからだ。(ニ)仮睡して、うつらうつらしている状態。 精選版日本国語大辞典 (C) SHOGAKUKAN Inc.2006] の意味も、もつようになったそうだ。  夢見ごこち、での用法、この辞書は例文を太平記から引用している。相当昔にすでに誤解が生じていた、ということになるよね。  困ったもんだ、という懸念、疑念、または不便、昔の人は感じなかったんだろうか。おおらかだったのかな。語意がまぼろし系だから、曖昧なのもしょうがない、そういうもんなんでしょう、みたいに思えたのかな。  (ところで、うつろ、うつけ、うつらうつら、等々誤用うつつの兄弟姉妹のような語が浮かぶんだが、こういうのは兄の誤用うつつの後から生まれた、または、誤用うつつの子供ってことでいいの?  そうではなくて、こちら側のうつ(空)が、正しいはずのうつ(現)と同じぐらい根が深いような気がしてくるんだが、私の思いすごしなのか)  → 〔https://ameblo.jp/gogen3000/entry-12600869436.html 「うつ(空)」と「うつ(現)」「うつつ(現)」の語源〕このページにくわしい説明あり。「夢うつつ」と続けていうところから誤用して、で済ませられるほどには単純ではないのかも・・ 
: 「お母さんは外人が魚をたべないのにはらがたち、というか、それほどでなくてもおもしろくなく、日本人なら、とたべさせようとするのか?」  魚料理を、息子や家族に食べさせようとするのか、の意か。 ハムとか肉料理とかを好む息子や家族がおもしろくなく、か。  あの母親、そういう面もあった。自分は白身魚なんか特に好物で。  味は魚も悪くないと思うんだよ。しかし当時のwaka君、魚は骨があってほぐさねば食べづらい、このめんどくささをいやがっていたような気がする。同程度の味覚なら、簡単に口にできるハムとか肉に軍配、ということだったか。 (もっと幼い頃は、魚は目玉がついているので、気味わるがったりしたかも。しかし、これ、牛や豚の目玉がついていたらもっと気味わるがっただろうから、誤解、錯覚の一種でしょう)
: 「周作人」  しゅうさくじん。中国の翻訳家、随筆家。魯迅(周樹人)の弟。  本文の言葉、本人の言かどうかの裏付けはとれず。  しかしまあ、どこかから名前こみで転記しいるはずで、まずそうなんでしょう。
: 「ロボトミーはぜったいにうけたくない。 みずからほっせざる所を人にほどこすことなかれ、と医者は考えないの?」  後半、ただしくは、己の欲せざる所は人に施す勿かれ。 〔ロボトミー 【名】 (英 lobotomy) 一九三五年、ポルトガルの神経病医E=モニスにより始められた精神外科療法。視床と前頭葉との間の神経線維のつながりを切断し、それによって生ずる人格変化を用いて、主として重症の統合失調症やてんかんを治療しようとしたもの。一九四九年ノーベル賞を受けたが現在は行なわれていない。ロベクトミー。 精選版日本国語大辞典 (C) SHOGAKUKAN Inc.2006〕  Wikipediaによれば、 〔日本では1942年(昭和17年)、新潟医科大学(後の新潟大学医学部)の中田瑞穂によって初めて行われ[5]、第二次世界大戦中および戦後しばらく、主に統合失調症患者を対象として各地で施行された。 また、1975年(昭和50年)に「精神外科を否定する決議」が日本精神神経学会で可決され、それ以降は行われていない。なお、このロボトミー手術を受けた患者が、インフォームド・コンセントのないまま施術した精神科医の家族を殺害するという事件が発生している(ロボトミー殺人事件)。〕  ということだから、本文の1973年当時、下火とはいえまだ行なわれていたかもしれないのか。
: 「どこかで、みしらぬ人と写真をとったA君。その少女から、「写真できたらおくってね。」「ああ。」 それで2人わかれる。住所を聞かないでどうしておくれる。が、二人ともそんなことは承知。おくるきはないし、おくってもらう気もない。」  カメラのついた携帯、スマホが当然のご時世、もう本文のような光景は存在しないんだろうな。  他人に写してもらうぐらいなら、自撮りするか。友だちなら、自機を貸して写してもらったり、友だちので撮って、送信してもらったりか。
: 「こまたがきれあがった人がいい!!」 「ここを「よい」というと、感じがちがう。」  「「腰から下が長く、すらりとしていきだ。」 国語辞典の言葉だが、イロケがあっていい。 とっても美しい感じ。あの人の感じに似てる。」  当時は気に入っているようだが、現在では何かしっくりこないよね。言葉が中途半端に古い?  それにたいていの場合、女子のすがたかたちに感動するとき、それは、ナマの肉体にではなく、装いをまとった姿態に対してなんだよね。声も聞ける。静止してもいない。言葉以上に表情が語っている。いろいろあいまって、いい、と感じる、ためいきがもれる、ということになるはず。  リアルさが物足りない、浅い薄いと感じるためか。

※ 『1973/08/10 中にいれば、ビルにいるも同じ。』 : 「キー key つけて 、 気いつけて」  これをダジャレで片付けてしまうのは、ちょっとかわいそうかも。
: 「1つ忘れる。」  「プラス1をやるとマイナス1になり、マイナス2をやるとプラス1になる。このプラス1やマイナス1などにあたるのを忘れる。」  さすがに、意味不明だね。このような感触程度は覚えていたらしいが、半世紀も隔たったところから、忘れた本体を復活させるのは至難じゃ(^^;  (やる、が為す意のやるではなく、渡す意のやるだと仮定する。(1)自分の山からプラス1を他に渡すと、自分はマイナス1になる。(2)マイナス2を渡すとは、プラス2をもらうと同義。(1)によって自分の山はマイナス1となっているから、(2)によって、これにプラス2がくわわると、つごう、プラス1となる。・・ということなら、前半の計算は理屈が通る。後半でいうところの、あたるの=あたるもの、は依然謎のままだが)  (やる、を為す意と仮定する。(1)ある者が、プラス1、積極的に打って出たが、裏目に出て後退してしまい、結局マイナス1。(2)ある者が、マイナス2、消極的にやり過ぎなぐらいにひかえていたら、皮肉にもそれが幸いして思わぬ利を得て、または災いからのがれて、プラス1。・・というようなことなら、忘れた本体というのは、塞翁が馬というようなことではないのか。または、禍福はあざなえる縄、とか)
: 「夜、ニャシャの家にでんわ」  上辺にある薄書きメモ。ニャシャは同学年で文学クラブ員の■村君のあだ名と思う。 本文にもあるが、文学クラブ員たちに電話をしているらしい。(たぶん、秋の文芸誌関係)
: 「どこそこのめいしゃにほけんしょを」 「あんな所に まで いくの  あんなひどい あんな遠い」  今も巷ではそうなのかどうか。  当時、千葉のwaka家の地域では、医者にかかる場合、あさいち、まだ営業前に保険証(だったか診察券だったか)だけもっていって順番とりをしておくのがふつう。(医院も中に入れるようにしてある)  たとえば、家族のだれかがその日医者にかかるとしたら、家族の中の元気な者がひとっ走りして置いてくる。 というわけで、waka君が家族のだれかの眼医者受診のために、その任に当たっている、要請されている、ということでしょう。 でも、いやがってるみたいね(笑)。なまけものでもあり薄情でもあり甘やかされた恩知らずでもあり。
: 「夏の夜はどうしてもそばをくわなきゃいけないの?」  母親がそばを作ってしまうんでしょう。waka君、お好みでない感じだ。  そば一般が当時は口に合わなかったのか(若い頃は選べるならもっぱらうどんだった。今は、そばが、同じかそれ以上に美味しいと思っている)、母親のつくるそのそばが、美味しくなかっただけか。(後者の可能性、すてきれず。うちの母親、栄養的には十分な料理はつくれるみたいだが、美味いかどうかといわれれば息子としてはすぐにはうなずけないのだ・・)  それに三世代であるwaka家の食卓、メニューやら調理やらは、子供や青年主体でなく、大人や老人主体だった。 ときには主婦である母親の好み主体だったり。(本項のそばも、真夏だから、みんな、食欲細るでしょ、という思い込みか。高校三年男子は、真夏でもがっつりしたのが食いたいのだよ!)
: 「どうしておれは電話を1本かけるごとに気がふさぐのだろう。事務的な事のために、すぐく気心のしれているというわけではない友にかけるのはなんてつかれることか。」  文学クラブ員への何かの連絡をしているんでしょう。夏休みなので、学校で気軽に伝えて回ることができないため電話で。伝達事項の内容がめんどうとかではなく、電話すること自体に負担を感じている様子。 まあ、当時は必ず固定電話だから、まず先方の家族のだれかが電話口にでるので、失礼にならないような挨拶、応対から入らねばならず、気疲れすることはたしか。 経験値浅く、大人たちのようなちゃんとした話し方ができなかったかもと、いちいち気にしているのかも。  (もしくは、伝達しなければいけない、ということだけはわかるんだが、何をどのように伝えるべきかが整理できていないうちに先走って双方すっきりしないようなことになってしまっていたか。原稿依頼としても、書いてほしいのか、無理してまで書くこともないのか、そこらへんがハッキリできなかった、waka君に義務感はあっても情熱がなかったとか)
: 「しん■■には妹があるような。」  しん■■家に電話した際、妹が応対したか、声がしたか、か。  文学クラブは、ふだん集まって活動するということは皆無に近かった。 要は、クラブとしてはほぼ休眠状態と言っていい。wakaも「いちおう部長」というだけ。しかし、秋の文化祭で文芸誌を発行するのだけはしなければいけない雰囲気、というか、先輩の圧はあった。 結論から言ってしまうと、この高校二年時の文芸誌、wakaの学年で作品を載せられたのはwakaのみ。 (つまり夏休みのこの時期、同学年のクラブ員たちに原稿依頼の電話をしていたとしても収穫は無しだったってこと。waka以外、この年の文芸誌の九割方は、先輩三年生の作品)
: 「いるすをつかえば借金をかえさなくてすむ??」  「るすだと借金をとられなくてすむ?」  「これでは、いつもるすにすればいいのだ。経済なんて、ちょろいちょろい。」  さすがに、そうは思っていないとは思うが・・ 居留守でやりすごして踏み倒せるなら苦労はない、金がらみの現実がちょろいなんてありえない、という反語的な口ぶりを「これでは」に感じる。
: 「「クイーンでなに?」■■リ 「女王。」ぼく。」  クイーンでなに? と読めるが、クイーンてなに? と書きたかったのだと思う。  妹に尋ねられて答えているだけだが、女王といわずに、女王様といい、様にアンダーラインを引いている。(様をつけたことを書いておきたい、というのが本項でしょう)  これは、SMプレイの「女王様」が念頭にあったため。中学の頃、クラスの悪ガキ仲間の中で、それ関係の話が流行った(おもしろおかしく物語るヤツがいて皆で楽しんだ)。で、もう数年経っているが、waka君は女王ではなく、つい女王様といいたくなる。いってしまう自分をまた楽しんでいる。そういう事情。
: 「心」 「火」  心が「したごころ」や「りっしんべん」になったり、火が「れんが」になったり、の辺りや、したごころとれんがの相似も、気になっているようす。
: 「ぼけなす君は彼が手を下した悪事の現場から逃げた。自分がとがめられるのがこわいからではない。彼の心と体はつねに、第3者、ぼうかん者、なにも知らない人を欲したからだ。」  そういう心理、なんとなく分かる。そういう人、きっといる。
: 「てっぺんがのびる木 ねもとがのびる木」  通常、てっぺんがのびるように思えるけど、木の年輪のことを思えば、根元も年々、横に成長しているわけだよね。  (根元が上に伸びる、上を押し上げる、というのは重力的に大変そう、という気はするが・・?)
: 「しかし、上でのびるなら、きやすく、スイッとのびられるだろうが、ねもとからのびるのではねもとより上のすべての重量をおしあげてのびねばならぬ。」  と、当時も心配していたか。
: 「螢光星。」 「長い間、星は太陽の光をうけて、その光りをたくわえる。そしてしばらくすると、またみずからひかりはじめ、しばらくしてまた、植物がはえる。はじめは、太陽光線をあまりうけずに、螢光星の適度な光りをうけられる針のような木。」  幻想の惑星。良い文章ではないし、理屈的にもおかしいかもしれないが、異境感はある。絵で見てみたい。
: 「植物のしかばね。 これは他のまともな語で何という?」  枯死、枯草、倒木・・ これではなにかずれているか。 ぴったりした語が浮かばんな。植物の死、というのが、昔の人には動物のそれほどには不穏なものには思えなかったので、語がないのかな。  (たとえば、木の家に住んでいるとして、畳や柱は生物的にはもうしかばねのはずだが、住人は生物的なぬくもりを感じていると思う。人にとって植物は、生死の境界のあいまいなものどもなのでは)
: 「地球に他の星から生命がたくさんやってきて、」 ・・・  以下、まとまりがないけど、興味をもっている方面ということはわかる。  ここらへんの謎の一端でも、手がかり的なものでも、明らかになってくれるとうれしいんだけどなあ・・  (明らかにできていないから夢がみられるってことかも。もどかしいから答えを求めてしまうともいえるか) 
: 「電話がなければ来るものとみますけど、  電話がなければ来ないものとみますけど、」  これは、みますけど、では少々耳慣れないよね。  考えますけど、や、みなしますけど、ならふつうに聞こえる。  (考えますけど、や、みなしますけど、がやや上から目線で失礼と感じて、やわらげたくて、みますけど。これはありそう)

※ 『1973/08/12 どのようにまとめたらいいか。』 : 「ハランバンジョウ」 「ここの意は?」  波瀾万丈。波瀾は小波と大波。万丈は極めて高い、極めて深い、などの意。
: 「すずむし みずむし >アクセントがちがう。」  みずむしは、平板かな。
: 「不可視を漢文的に読んだらどうなる?」  みるべからず、か。
: 「こういう原稿用紙 400字 はどのようにまとめたらいいか。」  以下、三通りを、図示。  わかるけど、どれでもいいようなことを迷ってますな。経験、知識がないので、原稿用紙のまとめ方に正式な作法とかマナーがあるかと思っているんでしょう。  (今なら、わざわざ半分に折らずに、右端をまとめて済みだろうね。いや、それ以前に、パソコン入力を印字するだけ、または、データをUSBとかに保存するだけとか、印刷所に送信するだけとか?)  (文化祭で発売する文芸誌程度なら、パソコン印字したものをコピーして、ホチキス留めか糊付けの手作業で済みそう。 仮に印字するのもコピーするのも同じプリンターなら、消費するインクは同じなので、コピーではなく、最初から必要枚数の印字かな。 とはいえ、これができるのは、せいぜい百部ぐらいまでか。それより部数が多くなると、インク代とか製本の手間とかを考えた場合、印刷所のプロにお任せしたほうが金銭的にも効率としても品質ということでも賢いかもね)  (現在、文芸誌を手作り、と仮定。判はA5程度。つまりA4用紙裏表で4頁分。二段組みとして、一段が20字×30行なら、1頁で1200字=原稿用紙3枚分。A4用紙裏表で原稿用紙12枚分。 部員が6人で、各人原稿用紙20枚相当を書くとしたら、全体で原稿用紙120枚。一冊の総頁数は40となって、A4用紙換算で10枚。 100部印字するとして、A4用紙1000枚か。裏写りを避けたいのでやや厚手の紙。製本段階で、前小口(背の反対)の紙揃えがむずかしそうだ(ここが乱れているとベージを気持ちよく繰ることができない)。 ・・用紙代、インク代で、やはり数万円はみておきたい。おおざっぱな計算だけど。 そして、原稿がすべて期日に仕上がったとしても(無理だろう、だれかが落とす)、素人ばかりの作業なので、印刷、製本で右往左往、インク切れ、乱丁、誤字発見でやりなおしまたは手書き修正、押し切りカッターで小口を切りそろえようとして怪我して血がでてこれで一騒動、などなどで押しに押して、文化祭の前日半徹になったり。笑)  (ふうーむ・・ いまどきの高校生なら、そもそもこんなアナログ作業はせずに、文芸誌をネット上のデジタルデータとして公開するか。 どうしても販売したいなら、お客さんからお金もらって、スマホに伝送するとかかなあ。そこらへんは、工夫すればなんとか・・  うーん、なにかちがうか。購入となるとやっぱり現物がほしいか、人は。  高校の文化祭、要はお祭りだから・・ その中をそぞろ歩くとき、文芸誌って、手に持てる小物、グッズの魅力もあって、だからこそ買ってくれる(お金を出してくれる)というところがありそう。事後には記念品となりそうだしね。 ・・となると、少しは表紙に凝りたいような。色つきの手触りのいい上質紙(これがまたけっこうな出費)、洒落たデザイン、イラストなんかで気をひきたい)  (・・などと、たのしく、架空の出版を妄想してみました)
: 「ふけた夜  深くなった夜、という意だから、夜が過ぎさろうとしている、朝になろうとしているととるのはまちがいか。  深くなった夜とはつまり、太陽からはなれたようなこと。朝がきそうなのでは深くなったとはいえない。またあさくなっているのだ。」  なるほど。おっしゃるとおりだと思う。  (ちなみに、朝と浅いは、関連してるのかな?)

※ 『1973/08/12 ここをひんまげて』 : 「クニトリ{  」  1973年当時のNHK大河ドラマは「国盗り物語」なので、そこからの引用(聞き書き)ということらしい。(司馬遼太郎の原作小説はたぶん当時はまだ読んでいない)
: 「坂本二郎 坂上二郎 >?? よくまちがえるのだ。」  坂上二郎はコント55号だが、坂本二郎ってだれ?  → wikiで調べると、どうやら、当時のNHK解説委員(前身は大学教授)。NHKで目にすることが何度かあったんでしょう。
: 「にきびの男の子がよくながめてなやんだ小さな長方形の鏡。それを、他のある男の子が使うようになると、その子もにきびをもつにいたる。」  これは、小さいながらホラーだな。
: 「ねずみばしり、とは?」  門や出入口に付属する構造物の名らしいが、辞書やネットでいくつか説明を読んでもどういうモノなのかがはっきりしない(文章だけでは想像しづらい)。これだよって、絵図などで示してくれるところが見つからなくて。 できれば、それをなんで鼠走りというのかの由来も知りたいところ。
: 「■けだ君や■かじま君、その他のやつらと交友を深めるためだけにも、英語じゅくに行きつづけるべきか?」  学校ならまだしも、英語塾で交友主軸というのは、目的を取り違えている感じだぞ。  こう書くからには、英語塾、やめたいと思いはじめているんでしょうな。まあ、母親に行かされているわけだが、本人が意欲ないんじゃ意味ないと、その本人が考えている、そんなところか。
: 「ベルトをみじかくする方法を知らなかったのだ。母にしてきされて恥をかいたのだ。1つおぼえたよ。でも、ぼくの方法だって、いいじゃん.」 ・・・  「うちのおばあさんにベルトをもらったときもぼくの方法でやって、しかも、だれかにふつうの方法をおしえてもらい、恥をかいて、ひとつおぼえたつもりなっていたのでは?」  〔うちのおばあさん〕は前年に亡くなっているので、当然、それ以前のこと。 つまり、だいぶ前にかいた恥をまたかいたってことでしょう。懲りない、覚えない、waka君。
: 「なぜくりなのか? くりの花の香りがナニに似てるから?」  というのは邪推と思うが、では真相は?  Wikipediaによれば、 〔「大きな栗の木の下で」(おおきなくりのきのしたで、英題:Under the spreading chestnut tree)は、イギリス民謡をもとにした童謡。作詞者・作曲者ともに不詳。ヤロミール・ヴァインベルゲルの編曲(1939年)が知られている。〕  ということで、栗は原歌からの直訳。左の通り、作詞者・作曲者ともに不詳ということだし、歌い継がれてはきたが、いわれなどははっきりしない、謎、ということでいい気もするが・・  あとは、イギリスの民俗関係で、栗に何か特別な意味合いが付加されているかどうか辺りを研究すれば、もしかしたら視界は開けるかもしれない。  かもしれない、けれど、現時点では、私はここまで。あとは、どこかにいるかもしれない物好きさんに、お任せしたいです。
: 「ある人の目の中にわからないようにテレビカメラをいれておく。すると、その人の生活がとてもたくさん記録できてしまう。プライバシーも何もあったものではない。」  当時は、SF的妄想の域だっただろうけど、現在なら、すでにあるか、なくても容易に実現できそう。
: 「「ある人」とかいたのは、男、女、という性別を考えないでほしい、と思ったからなのではない。男にしても、女にしてもおもしろいけど、どっちか一方とはきめつけたくない、どっちもおもしろい、と思ったから。」  ふうむ。消極的な両義ではなく、甲乙つけがたいためやむなく両義にした、と付け足したいのだな。  (しかし、これはたぶん、ある人と書いた時点ではやはり、そこまで考えて書いていなかったのでは。妄想を続けているうちに、男でも女でもそれぞれでかなりおもしろいことになりそうだと気づいて、後付けで、こういう意味だったんだよ、こういう意味にとってほしい、と付け足したくなっただけでは)  (よって、書くとすれば、〔「ある人」とかいたけれど、男の場合でも女の場合でもそれぞれだいぶ面白いことになりそうだ。〕という風にしたほうが、率直ですっきりしてたかもね)

※ 『1973/08/13 このぐらいの大きさがいい?』 : 「ヤマのうちにヒモ オカボのつかった自転車についてる やつ。」  ヤマ、オカボは、中学時代の同級生。高校は別になったが、つきあいは続いている。  waka君の私物である自転車のヒモを貸したら、返ってこない、とかの事情ではなかろうか。 ヤマのうちにあるはず。オカボの使ったヤマの自転車の荷台に巻き付いていた、たしか。 などと、取り戻すべく、または取り戻すことを忘れないように、推測こみでメモしているのだと思う。
: 「不詰はふづめ、とよんでいいの?」  将棋用語として、あり。
: 「晩○ 晩×」  ×は免の四角の中身がごちゃっとしているが詳しくは読み取れない。
: 「十分というと、十分 じゅっぷん を思いだしてしまう。十分 じゅっぷん がなければ十分 じゅうぶん はぴったり心にはまる。充分はちょっと、心がなれていない。」  そうそう。今もそう感じる。
: 「「十分ある。」 「十分だ。」  「じゅっぷんある。」 「じゅうぶんだ。」」  これは会話なわけね。  両者、文字におこさないかぎり、ふつうに会話しているとしか思ってないのでしょうな。
: 「■■にメシくいにいくめんどうさ くえばふとるだろうという考え あまりハラへっていない。まんぷくではないが、食いたいわけでない。」  いろいろ書いてますが、要するに、従業員でもないのに、■■=職場のまかないを食べるのはバツが悪い、というのが本音だったはず。  小さい頃は、親に言われるまま、とくに違和感なく(皆にかわいがられもしていたし)職場の食堂を利用していたのに、長ずるにつれ、公私の区別を理解してくると、何か釈然としないようになった、食べる資格がないような気がしてきて恥ずかしさも感じる。  というような具合か。  しかし、親の立場からすれば、親として子供らに食事を用意したいが、土日祭日でも稼働する職場のため、学校が休みの子供らのために自宅(職場の北側にある社宅)に戻って食事を用意するよりは、職場の食堂に子供らに来てもらって食べてもらったほうが、だんぜん面倒がないわけで。  公私とか細かいことはどうでもいいから、さっさと食べちゃってくれ、という気持ちだったかも。
: 「利害の一致。ひるめし/はくわぬ。/には行かない。でも、みっちゃんがすしもってきたので食う。」  職場の昼食に寿司がでたんでしょう(何かの会合のお流れなどで)。食べにこないwakaちゃんのために、みっちゃんが自宅にもちかえった、と。  これを利害の一致というかは疑問だけど。食いにはいかないが、持ってきてくれるなら食う。わがまま坊ちゃんにしかみえないけどね(^^;;  みっちゃんは、職場のほうの職員ではなくて、wakaの家のお手伝いさん。 (どうも、みっちゃんは、やめたり、また働いていたり。私の記憶では、幼い頃みっちゃんがいて、その後やめて、中学高校の頃もみっちゃんがいて、高校の頃またやめて、だけど。私がおぼえていない、知らないだけで、まだ何度か働いたりやめたりがあったやも)
: 「バッターに球がくるとき クシャミ。」  見逃すだろうが、それ以上に、危険かもしれない。気がそれるとしたら。
: 「トランプは、このぐらいの大きさがいい?」 「ふつうの大きさはでがすぎる?」  ということで、実寸大の四角を描いている。  少々小さい? ない提案ではないだろうが、やはり、通常の大きさのトランプのほうが、手に馴染みやすい大きさという気がするな。  通常の大きさは、長年、多数の人によって、吟味され承認されてきたわけで、やはり最適解なんだろう。  (ここでは画像を拡大しているし、ご覧になっているブラウザの側でも拡大縮小が効いていたりするだろうしで、リアルそのままの大きさとは異なっていると思う。なので、比較できるように、市販の通常のトランプの実物画像を右側に貼り付けておきました)
:  「とうちきろう」  このあたり、やはりNHK大河ドラマ「国盗り物語」つながりの記事か。 8/13は月曜日なので、視聴したのは前日ということになるが。
: 「おのうのほんとの名は何といったっけ??」  信長の正室の濃姫のことだろうね。  といっても、wikiによれば、史実としての記録、濃姫についてはほとんど無いとか。信長に嫁いだあとは、ほとんど何も無しとか。  よって、史実としてはほんとの名前はわかっていないらしい。(濃姫は、美濃から嫁いだ姫なので、そう呼ばれただけで、本名ではないそうだ)  NHK「国盗り物語」での役名は、帰蝶、その後、濃姫。帰蝶というのは、江戸時代に成立した書物が言及している彼女の名前。  よって不確からしいんだが、本項でwaka君が思いだそうとしている「ほんとの名」ということなら「帰蝶」でいいのかも。
: 「おのうが信長にいったときと、秀吉がいったときと、どっちが早い。」  濃姫、秀吉、どちらが先に信長と関係したかってことだろう。  Wikipediaで調べると、 〔天文18年2月24日(1549年3月23日)に濃姫として知られる道三の娘は織田信長に嫁いだ。〕 〔(木下藤吉郎は)天文23年(1554年)頃から織田信長に小者として仕える。〕 とある。つまり、濃姫がすでに嫁いでいる信長に、藤吉郎は仕えることになった、という順序なわけだ。  ふむふむ。
: 「信を「のぶ」とよむのはなぜ?」  手元漢和辞典によれば、信は、伸、身、親に通じて、のびる、のばす(伸)の意もあって、のぶとよむらしい。
: 「華 :はな?  訓よみは何という?」  はな、はな・やか。
: 「目から鼻へぬける、とはどういう意?」  辞書的には、非常に賢くて判断も素早い、という意味。  サイトによっては、視覚も嗅覚も連動して優れた働きをする様子から、などともある。 が、この説明ではなんか異和感があるよね。五感のうち二つだけじゃんね。  以下、私なりに考えてみた。  気の流れみたいものを昔の人は感じやすかった。 目で見たもの耳で聞いたことを、頭で咀嚼吟味して、そういうことか、ならばこうすべきだろう、と言葉にしたり行動に移したりするのがふつうの人の気の流れ。 しかし、とても優れた人は、目で見たものをすぐ下の鼻から出しているように思えるぐらいに、この流れが速い。  この様子を、感嘆しつつ、目から鼻へ抜ける(ようだ)と言っている。そういう表現なのではないかな。 (私は少なくともこっちのほうがしっくりする)
: 「ひでよしはさるどし生まれだって。」  という説もあった(天文5年(1536年)丙申(ひのえさる)の1月1日生まれ)とか。
: 「日向 :ひなた」  日常語のひなた(日の光のあたる場所)はこれ。  ひむか、ひゅうがの読みのときは主に地名。  ひなたのアクセントは平板、ひむか、ひゅうがは頭にある。・・のかな、現代では。
: 「実検 首実検  実験」  しらべると、実検のほうは、首実検の場合にほぼ限定されるみたいだ。
: 「なぜ「注」は「そそぐ」とよむのに、「注意」と同じ意をもつのか!!」  注が注意の略だから、注意の意味をもち、注自体にはその意味はない。・・というのは誤り。手元漢和辞典によれば、注自体に、くわしくときあかす、という意味がある。注は註の書きかえ字ともある。
: 「磔殺」  〔たく‐さつ【磔殺】《名》 はりつけにして殺すこと。磔刑(たっけい)に処すること。 国史略(1826)五 「秀吉又捕斎藤利三殺之」 精選版日本国語大辞典 (C) SHOGAKUKAN Inc.2006〕  たまたまだろうけど、この辞書の例文にも秀吉が登場している。  Wikipediaによると、 〔斎藤 利三(さいとう としみつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。明智光秀の家臣。春日局の父。〕  本能寺の変ののちの山崎の戦いで敗走。 〔・・秀貞が利三を騙して捕縛し、秀吉に突き出した。一緒に潜んでいた利三の息子二人は斬られたとされる(『兼見卿記』)。6月18日、市中引き回しのうえ、六条河原で処刑された。23日、光秀と利三の首と胴体は繋がれて、三条粟田口で改めて磔刑となった(『兼見卿記』)。〕  とあるので、精選版日本国語大辞典の例文はこのときのことをいっていると思われる。  NHK大河ドラマ「国盗り物語」の「本能寺の変」放送日は年末近い1973年12月16日。 本項の記載日は、1973年8月13日。  よって、この大河ドラマでこの磔刑、磔殺をみて、ここに磔殺の文字を記すに至った、辞書の例文に秀吉が登場したのはたまたまなどではなかった! ・・とは言えないみたいだ。半年もずれてるしね。残念ながら。  → ただし、大河ドラマに触発されて、この辺り、なんらかの文書、書物を、調べるか読んだりはしているみたいだ。信、華、目から鼻へ、日向、実検、磔殺など書かれている文字、言葉にこだわるような記事が続いたところから推すと。

※ 『1973/08/14 ♪』 : 「世界中が食料不足にみまわれた。N国には食料がうなっていたが、」 ・・・ 「N国からはついに餓死者が出なかった。」  自分らだけ食えればよし。分けてあげない、教えもしない。あさましいふるまいだけど、国家として正しく機能している、ともいえるのかも。Nはたぶん、日本の頭文字。
: 「味方をだますなら、敵から。 この具体例はあるか?」  すぐには思いつかない・・ (が、連想するのは、国内ではパッとしなかったアーティストが、外国で売れて、それが評判になって国内でも売れる、というようなケース。わりと耳にするような)  しかし、味方をだます事を主目的に、敵を欺くって、どういう状況よ。敵を倒す事が目的でないわけでしょ。クーデターをしたいとか? あるいは、国内の反乱分子を鎮めるための工作とか? 
: 「「どちらがいいか、」というと、2つの物があるように思うが、これは偏見で、3つ以上でもいいのか?」  意味的には、3つ以上もかろうじてありらしいが、ふつうは、2つをいうよね。  3つ以上なら、「どれがいいか」だよ、やっぱり。
: 「金庫は小さいと、金庫ごとぬすまれる。」  なんか、笑。  でもマジで、盗まれないように(容易には運び出せないように)わざと重くしてあるものなのかも、金庫って。
: 「こうかすいそうり」  謎・・ しばし悩むも、次項をみて、ああそうか、と気づく。  校歌吹奏裏、かな。TVで夏の甲子園大会をみてるんでしょう。
: 「甲子園はどこにあるの?」  中高生の頃は、大阪にあるような気がしてました。正しくは、兵庫県ですな。  でも、今あらためて地図をみると、兵庫県の中でもかなり大阪寄りにあるみたい。  (千葉県にあるんだけど、かなり東京寄りの場所にある東京ディズニーランド。なんとなく似ている。関西の人は、東京都にあるような気がしているのでは?)
: 「とちぎ ぐんま >どっちが北?」  この頁上辺の薄書きメモ。  地図をみると、隣り合う両県、東西に並んではいるんだけど、東の栃木がやや北寄り、西の郡馬がやや南寄り。
: 「とうだい もとくらし  もとがくらい もともと暮らしていた。」  どうも、モトクラシ、でひとまとまりに聞こえて、もともと暮らしていた、という意味にとっていた、児童の頃、確か。  そして、高校生になっている当時も、下暗しとわかっていても、元暮らしが二重写しのようにうかんでいたと思う。  灯台守の、灯台で生まれ育った子供、とかのイメージがぼんやり。
: 「幕を■だって。」  幕に見えるけど、暮と書いているつもりでしょう。  ■は、暮の草冠の無いかたち。  (つまり、前項の暮は、草冠をあとからのせた、と)
: 「|| ♪ |||」  五線と音符群。  手元に楽器が(アプリも)ないので、音を聴くことはできていないです。見た感じでは、素朴な曲調。  音をわかっていて書いているのか、半ばでたらめに書いているのか、実際に演奏してみないと、なんとも。
: 「珠玉はしゅぎょくとよんでいいの?」  いいのよ。
: 「「シシリアさん。」 「何でしょう。」 「ぼくどうしたらいいんでしょう。サブリーダーを1日4ページ、どうしても解けない数学の問題を1日3題もやっていかねばならない。」 ・・・  笑。  八月半ば、そろそろ、夏休みの宿題の圧がかかってきている頃合い。  愚痴っている相手、シシリア嬢のフルネームは、アレクサンダー・シシリア・ベリーブ。  もう時期ははっきりしないが、中学か高校のどこかで夢にでてきた妖艶美女で、以来、心の友(恋人未満)と思っている、waka君が。そんな事情。  中東か南欧あたりの、多少年上の、おねえさんだったと思う。
:  「ジョーカー ババー >なぜ? ※ババぬきとはいうが、ジョーカーぬきとはいわぬ。」  wikiで調べると、元々はジョーカーを加えるのではなく、クイーンを1枚抜いて51枚のカードを使って行われていたそうだ。  よって、1枚のクイーンがマッチングできず(≒結婚できず)売れ残るところから、命名されたとか。  (なるほど、そうだったのか。だが、しかし、ちょっとひどいね、これは・・ 現在、だれかがこんな命名したら、袋叩きに遭って、社会的におわっちゃうよ!)
: 「た→た→■→ひ→HE」  「た」が形態変化して「ひ」、最後の「HE」は「へ」じゃないかと思うが、英語の「he(彼)」ということだろう。
: 「○○駐日大使、というのを聞くと、中国にいる日本の大使、みたく思ってしまう。 李駐日大使」  駐日が日本に駐在という本来の意味とは、逆に感じてしまう、日→大使とひきずられて、日本の大使、と錯覚してしまう、その感じはわかる。  さらに、駐日と中日の音が同じなので、中国にいる日本の大使というふうに聞こえる、混乱させる、ってことか。  で、いちおう調べたところ、この李駐日大使というのは、どうやら中国の大使ではなく、韓国の大使(1971年 - 1973年)!  だいぶそれてますな。(当時はたして韓国大使と分かっていたかどうか・・)
: 「自分の妹が自分より年上の男と結婚すると、自分より年上の弟ができる。 オモロ」  高校生waka君、たわむれに書いているが、これオモロどころか、ほんとうに実現してしまった!!  だいぶ後年になるが。
: 「とびけり とびげり >?」  (連濁して)とびげりが一般的で、とびけりとはいわれないわな、ふつう。
: 「おかあさんはおとうさんをあなたとはいわないよう。あんた、となら、ときどきいうよう。」  なんと呼んでいたっけ? 「お父さん」がふつうだったかな。名前+さん付けもあったかも。  私(息子)がいる場面で「お父さん」とよぶのは無理なく自然。私がいない、二人だけの場面ではどうだったか、私はいないので聞いてないから、たしかなことはわからないな。
: 「かとりせんこうをたくと蚊がでる? かとりのけむり外の所に蚊が集中?」  皮肉な現象だけど、ままあることだよね。  ふつうは見えないところに隠れているだけでいないわけじゃない、それがあぶり出される、というような具合で。  (蜂の巣をつついたような、という慣用句を連想する)  (悪の組織をつぶしにかかったら、タガが外れてしまい、却って事件が多発した、というような場合も相似していそう)

※ 『1973/08/15 エッベチヨオーノオ グッチャグチャアー』 : 「凡ゆる  ?」  すべ・て、およ・そ、が公式の訓らしい。 (転記元では)俗に「あら・ゆる」とよませたいのかも。
: 「※NHK、夜7:00のニュースのインタビューで若い女性が、「勝戦記念日」の語を使用。」  それって、waka君の耳にはそう聞こえただけなんでしょ? ニュース内ってことは編集を経ているわけで、NHK側も「勝戦」と発言したと認識してかつ放送したということはないでしょう。(その若い女性の滑舌がおぼつかなかった、あたりかなあ)
: 「エッベチヨオーノオ グッチャグチャアー」  この下にある蛇行する線は、語の高低または強弱を示すか。  エベチヨという発語が気にいってるみたいだ。もう何度か登場している。  二行目は、ダンダダ ダンダン ダンダンダン と区切るのだと思う。
: 「敗戦の国は男が少ない。そこで、権力者がはやく決まり再建が早い・・・・・?」  力学的におかしいな。再建のためのわずかな利点となるかもしれないが、男が少ないと多方面で再建の大きなさまたげとなるのでは?  (それもこれも、女性をみくびりすぎているか。 戦争は男が始めるものだから、敗北、失敗したら、数が減り意気も消沈したら、女が再建をになう、主導する、というほうが力学的にはありそう)  (もちろん現実は、頭で考える力学的なそれらのようには簡明でなかったと思う。 女も敗戦には意気消沈しただろう。生き残った男も生き残ったからこそ必死になってがんばった、ということもあっただろう)
: 「貧しい国には男が多い。女が多いと子供がたくさん生まれるので 貧しいと、やしないきれぬ。働くエネルギーをもつ男が多く生まれて、子供をやしなえる社会をつくらねばならぬ。」  これもなんだかおかしい。  裏付けがおろそか、思慮浅く、ちゃんと立ち上がっていないような。  栄養状態によって、妊娠する男女比が変わるなんてあるのか。  (魚類でそういうのがいるようなことは耳にしたことあるけど・・  実際に男女比がいびつになるとしたら、間引き、戦争ぐらいだろう。性別判定による堕胎というのもいくつかの国であった、いや、今もあるらしいが・・)
: 「反政府運働家が地下にもぐる、というが、」  運動は、運働と書く場合もあると思っていたけど、辞書に載ってないな、運働は。

※ 『1973/08/15 ♂ ♀』 : 「人は自分のためだけに生きるべき? 自分の自信力だけを信じて生きるべき?」  ・・・  「近親相姦すると遺伝に悪いという事ができたために、人は他人ともつながりをもたねばならなくなった。」  ・・・  「考えてみれば、一生親の愛の中で生きれれば幸福だろう。しかし、それはむずかしい。」  ・・・ 「しかし、今、近代の国は自分本位が多い?  ? 」  思考実験をしばし、という感じ。どうも結論が見えなくなって、見通しがはっきりしなくなって、立ち消え?   元々は、前項の「なぜ生んだ」辺りなんだろうけど。
: 「ぼくにあまり、勉強以外の事をさせるべきでない。」  これはどうやら、家業を手伝えの圧があって、反抗によって、はねのけ、手伝わないことにした。 その言い訳ってところ。
: 「さもないと、ぼくが勉強をしないのはこんなことをやらせられたためだ、というように考えて、ぼくに勉強をしない理由を与えてしまうからだ。だいたいにおいて、あまり正当な理由ではないにしろ。 だから、何もやらせず、勉強をしないのは、自分がやらないからだ、という事を直視させなければ。何もやらせないと、とたんに勉強をしだして、そういうふうに直視できなくても、勉強をやったんだからいいじゃないの。」  どうも文章が乱れているようで、結局筋は通っているような。  とにかく面倒なこと(家業かかわり?)をやらせようとしないでくれ、かな。 そんなことをするぐらいなら、勉強をしたほうが(させられたほうが)ましだよ、と。  → 前々項、前項、本項と、この辺りの流れは、実際の具体的な(そこそこの強さの)、親からの(家からの?)圧があって、これを拒み、拒んで心細くなった自分を励ましたく、(自己強化して防衛するために、そして気休めや腹いせのためにも)いろいろ書いているフシが濃厚。

※ 『1973/08/16 あみめとは』 : 「ぼくは確実にきまった時に暇をとれる単調な仕事をしつつ、その暇の時に多いにたのしむ生活がしたい。たのしむ、といっても、人なみのレジャーなんてあほらしい。本がよめて、かけて、将棋がさせれば十分なのだ。本をよみ、いろんなものをかき、将棋をさす生活。それがぼくの夢だ。」  おお! まさに現在、このように読み物書き物をし(しかもネットで掲示まででき)、ネット将棋を毎日のように指せて、ほぼ理想を実現しているのでは!?
: 「そして、なによりもあまり責任がなく、人との交わりも少ないこと。自分だけで自分のために生活する。食費や生活費のために、やむなく外で単調な仕事をやる。そんなぜいたくにもくらさないし、金のかかるしゅみでもないから、何とかやっていけると思うのだが、だめ?」 「ほんとにこういう生活を、自分の力で できるようになったら、すばらしい。」  よろこべ! 自分の力でまさにできてるよ(涙)
: 「が、もし妻をめとるようになり、子供でも生まれると、これはこわされるだろう。でも、子供はほしいなあ。」  幸か不幸か、結果的に妻子はいないけどさ。
: 「白地に黒の綱目模様 黒地に白の綱目模様 >どっちが適当?」
 目模様(あみめもよう)と書きたかったのはほぼ確実だが、本文は、目模様(つなめもよう)になってる。
: 「あみ、とは、あみをつくるヒモいっぽんいっぽんをさし、あみめとは、ヒモとヒモの間をさす?」  辞書的にはそれで正解らしいよ。網目とは、糸と糸のすきまのことだそうだ。  よって、ここにある絵柄でいえば、白地に黒の網目模様。もしくは、黒地に白の網模様。が正解っぽい。
: 「ヒモと、ヒモとヒモの間、の両方があって、あみ、あみめといえる ― ?」  このwaka君の素直な把握が、辞書の説明よりも真に近い気がする。
: 「(よみうり、8/16、17面、動物たちを見よ。)」  本項の発想元らしい、半世紀前の新聞紙面。読売新聞のヨミダスというサイトで145年分の記事が読めるそうなので、確認できなくもないはず。ただし有料なのが玉にきず。  でもまあ、確認せずとも、ヒョウとかシマウマの写真があったのだろうと想像はできる。
: 「A君トイレで射精。」 ・・・ 「もし赤ちゃんができたら? キモチワルイ?」  確かに気持わるい感じの妄想だが・・ 多少、身に覚えがあるので、ありえないと思いつつ、うしろめたさで心配してしまう、か・・ 
: 「銚子商業のサイトウかんとく 監督 は なみしげ 並茂 に似てる。」  この日8月16日、千葉代表の銚子商業は、江川卓の作新学院と対決している。  なみしげは、waka君の中学時代の歴史の先生。確か、女子ソフトボ−ル部の顧問。
: 「さくしんのかんとくはみなみしんすけに似てる。」  三波伸介、てんぷくトリオだよね。  (三波伸介は1982年=九年後、急死)
: 「ぜんがくぶ、とは?」  今、入力すると、全学部、前額部の二つが変換候補。  野球を観てるようだし、全学部なら全+学部とアナウンサーは発声するだろうから疑問は感じづらいと思う。  デッドボールか何かがおでこに当たったりした状況なのではないか。つまり、どちらかといえば、前額部?
: 「「章子のエチュード」はしかし、まともな話で、うまい絵だなあ。特に話がいい。」  妹たちが買ってくる別冊マーガレットで連載されていたと思う。waka君、かなり思い入れ深く、気に入っていた。  今調べたら、作者がベルサイユのばらの池田理代子、というのがちょっと意外だった。  絵柄は確かにベルばらだが、話がもっと地味で日本の庶民のなかの革新的な少女、みたいなところがあった。・・うん、なるほど、プチ革命と言えばそうだったのか、ストーリーも。
: 「人との関係をたつときは、もうそれっきりになるのだから、お互いにすっきり、きれいにわかれることができる。つまり別れの場で示した心持ちを証明するような行動がわかれてしまうので後々で示さなくてもいい。そこで、できそうもないような心持ちを相手に示すことができる。これなら、いつわりの感じはあっても、表面上きれいに別れられる。」  これでは、身も蓋もない言い方だが。  というかさ、照れくさくて言えなかったことも、これっきりなら言ってしまえる、素直になれる、ということはあるんじゃない? (次に顔をあわせなくていいなら、恥ずかしさもその場かぎりだし)
: 「親孝行は良い。が、親のために、自分の自由、夢までを捨てるべきなのか。」  二者択一思考が、当時のwaka君の限界か。  その若さで、両方とも成りたたせるような気概とか度量があれば大物だったと思うが、まあ、waka君に限らず、むりでしょうね。  (いやいや、青年の中にも、そういう老成した資質を持っているやつは少ないながらいる。あるいは、女性たちには、そういう資質、というより天性に近い身のこなし、気転というか、原理にとらわれない柔らかさみたいもの、より多くありそうだよね。曲線的というか、婉曲に、物事をなしていっちゃうようなところ、あるよね・・)  (○か×しかないと思っている頭では、△という出口がみえなかったり。女子「いわゆる知恵をつかうのよ」)
: 「なごりはおしねど  ?」  惜しねど、では辞書やネットに用例が見つからない。惜しめど、ではなかろうか・・ 
: 「じゅくの片■先生に連絡して、じゅくをやめたのだ。」  高校二年の夏休み、この時期に英語塾、おわりにしていたか。片■先生は女先生。  waka君の母親がでてこないが、事前か事後かで了解は得たと思う。  (この英語塾、母親が段取りして通い始めたので。中学生の頃からだったか。・・母親と片■先生の関係は何だったんだろうか。母親のクラスメートだった女性が近在の中学で英語の先生をしていたけど、そちらつながり(つまり友人の友人ぐらい)の関係だったんだろうか。母親に訊けばわかると思うが、現在まで未確認)
: 「勝負士が、ここで勝ちすぎると、あとで勝てなくなると、力をぬいたとすると、あとでよく勝てるか?」 ・・・  で、しばし具体例で吟味。  ・・・ 「はじめ3回かった場合、かたない場合で、あとの3回の勝敗に差が生じるのだろうか。はじめ3回かった場合はあとはかちにくく、はじめかたない場合はあとはかちやすい、なんて差は生じるのだろうか。」  こういうの、現在まで結論でず。  現在の、将棋クラブ24(←ネットの対戦サイト)での経験で言えば、わざと負けておくなどという余裕はなし。最初連勝して、もっといけそうで指したら、連敗して結局負け越す、なんてこともしばしばだから(連勝して気がゆるむのか)、あるていど、本文のいう傾向はあるかもしれないけど。最初連勝しないようにして調整するなんてことはしたことないし、したとしても効果(あるいは通算でのプラス)があるとも思えない。  試してないだけで、実際裏技的にはある手管、なのかどうか。まあ、いずれ試してみてもいいかも(ダメ元ぐらいで)。  なお、書くなら勝負師か。
: 「おろかしい私と日本」  これは、川端康成の「美しい日本の私」のもじりだろうね。  ノーベル文学賞の受賞記念講演のタイトルが『美しい日本の私―その序説』。1968年なので、本項の五年前。
: 「ジョポ〜ン.ジョポオン」  これは外国人がジャパーンと大声で言うのを大げさに書いているような。  あるいは、そうではなく、フランス語などでの発声を聞いて(物珍しくもあり)書きとめたか。  前項と何かつながりがありそうだが、どういう状況で書かれたのか、聞いたのか、今となってはわからず。  (川端の受賞記念講演の録画を見ていて、その序盤あたりで、高らかに受賞者を紹介するときに、司会者がこのように発声した。これならつじつまは合うけど、推測というより想像、あてずっぽう)
: 「「いわず」 は「言ず」 ? こっちとかいてある?  「言わず」?」  当然、言わず、だよね。このぐらいの誤植、当時の書籍にはときどきあった気がする。  ・・ということだと思ったが、あにはからんや、辞書をひいてみたら、古典では、不言の読み下しという感覚で、言ず(云ず)などと表記していたことがふつうにあったらしい。  よって、短絡的に、誤植と決めつけてはいけないみたいだ。
: 「午飲馬食」  牛飲馬食。三字とも、午になってる。
: 「今日、清閑に夢想すとまじっくでかいてらんまの下にくっつけた。」  清閑に夢想す。当時の個人的な標語。  display『1973/05/11 バカタン アホタン』で既出。  (厚めの紙、カレンダーの裏白などに)マジックインキで書いて、欄間の下に(セロテープか画鋲かで)くっつけた。

※ 『1973/08/19 やしゃまごが生まれるまで生きていよう!!』 : 「てきとうでもいい。たくましくそだってほしい。」  去年見たときは、何かつぶやいてます、と思っただけだった。今回見直していたら、思いだした! これはだ、〔わんぱくでもいい、たくましく育ってほしい〕のもじりだね。わんぱく〜は丸大食品のCMのナレーションで、当時流行語にもなっている。
: 「両方から同時に互いの所へ電話をかけたら、電話はつながるのか? それとも両方とも話し中になるのか?」  ネットで調べると、黒電話の場合、原則的に両方とも話し中(両者、受話器をはずしているはずだから)。しかし、タイミングによっては、まれにつながってしまい、お互いに会話できることがある、とか。 (本文当時、携帯・スマホなどは存在しないので、考慮外でよし)
: 「電話が話し中だったとき料金とられる?」  とられないでしょう。留守番電話だと、それは通話とみなされ有料、ではなかろうか。
: 「A君としては、友だちに知らせなきゃならない事があるが、・・・ 」  この辺り、電話関わりの記事が続いている。 これは、たぶん、現実でも電話をしなければならない用事があって、 相手がいるかどうかやどう伝えようかなどを心配し思案している、 それで、その派生で、いろいろ想像したり妄想したりして浮かんだことを記しているのではと思われる。
: 「しの■君、北海道にいってて、せいかんれんらくせんが、止まったので、本州にまだかえれないのだそうだ。」  しの■君は文学クラブ員。推測するに、夏休みも終盤になり、(秋の文化祭で発売する)文学クラブ誌についての相談または原稿催促などで自宅へ電話したけれど、本人不在、家人から上の事情を聞かされた、という流れかな。  つまり、現実でも電話をしなければならない用事があったとしたら、ここいらってことになりそう。  なお、青函トンネル完成は1987年、青函連絡船廃止が1988年。本項の15年後ぐらい。
: 「ぐんま県の事を上野といった?」  こうずけ(上野)とよみ、現在の群馬県にあたるそうだ。(「かみつけの(上毛野)」の変化した語)。上州(じょうしゅう)。上毛(じょうもう)。ともいう。  ちなみに、しもつけ(下野)が栃木県。ということは、京に近い方が上、とされたか。  さらにちなみに、千葉のしもうさ(下総)、かずさ(上総)だけど、千葉県は舟で南房総=あわ(安房)のほうから進入するのが常道だったので、南房総のほうから先に開けて、南が上、北が下となった、という話を児童のころ聞いた。
: 「やしゃまご」  玄孫とかいて、やしわご、やしゃご、やしまご、げんそん、とよむのが正しいらしい。やしゃまご、では辞書にのっておらず。
: 「86才でやしゃまごの子に会えるかも。 これを何という?」  玄孫の子が来孫(らいそん)。その子が昆孫(こんそん)。その子が仍孫(じょうそん)。その子が雲孫(うんそん)。だとか(^^)  雲孫は八親等の直系卑属。150歳ぐらいまで長生きすれば、会えるかもよ!?
: 「しかし、産児制限や晩婚しょうれいがあったらやだねえ。」  産児制限も晩婚奨励もなかった気がするが、この表では、現在、ひまごが生まれて小学生のはずなんだが、実績は子を生んでくれる女性にいまだめぐり会えず。おおむね半世紀ぐらい進捗が遅れています!  私は望み薄だけど、私の母親は、ひまごがもう何人も。  まあ、一族が繁栄していればいいか。
: 「田島令子と松本留美をまちがえる事あったかも。どっちもいい。」  waka君、お気に入りの女優さんたち。
: 「せっつ・・・? どこ?」  摂津。兵庫県東部〜大阪府北部あたりらしい。
: 「のむら、はどこの球団?」  野村克也捕手なら、南海か。当時、選手兼監督。  (くしくも、昨日2021/12/12(日)の読売朝刊に、〔プロ野球の4球団で監督を務め、昨年2月に84歳で亡くなった野村克也さんをしのぶ会が11日、神宮球場(東京都新宿区)で行われ、球界関係者ら約600人が参列した。〕という記事)
: 「コンビ、トリオ }? 1人の事は?」  ソロか?  ピン芸人は最近よく耳にするけど、このピンはポルトガル語だとか。  ソロ、トリオはイタリア語。コンビは英語?  二人なら、デュオ、というのもあるか。  いまいち、ここらへん、よくわからん。(日本語に取り入れたあとゴッチャになってる感じ)
: 「「ないがしろにしちゃいけない。」という所を「おごそかにしちゃいけない。」といってしまった。」  爆。

※ 『1973/08/21 コリコリやってむくのだが』 : 「AA小説をよく理解している人にとって、BB小説は程度が低いように思われ、」 ・・・  よく知らない他ジャンルのそれは程度が低くすべて手中にできそうだけど、よく知っている自ジャンルのそれはきわめたとは言いきれない深みが残っていることがわかる。 という意味だから、遠景ではさほど難しい山にみえなくても、実際に歩いてみると大変、というのに似ているな。 自分の嫁さんは飽きたけど、人の嫁さんは魅力的。隣の芝生は青くみえる。これらとも同類か、結局。
: 「知れば知るほど奥がみえる、という事でわりきるだけでなく、もっと他の場合もあるだろう。」  もっと他の場合、というのは、どういうことを思い浮かべていたのか、もうよくわからない。  たとえば、慣れ親しんだものを慣れ親しんでいるというだけの理由で優遇する、えこひいきする心情、などということかな。  (家族愛、郷土愛、ナショナリズムなども、結局のところは、慣れ親しんでいるというだけが動因かも。習慣とかプライドでさえ?)
: 「かぎたばことは、鼻に入れるものなのか???」  どうやらそうらしいね。  未経験なので、確かなことはわからないが。
: 「金持ちと貧乏人。金持ちが、いつも批難していた貧乏人のしぐさをした。すると、貧乏人は口々に「いつもは批難していたくせに」という。しかし、この批難は実は、自分たちのしぐさが悪いもの、下品なものと、暗に認め、その悪いもの下品なことをした絶対的に悪い人への批難のかわりになされたのではなかろうか?」  おわりの文意が、わかりづらい、というかわからない。絶対的に悪い人、というのが自分たち貧乏人の側にいる個人のことか? 仲間を批難するのは差し障りがあるので、代替として金持ちを批難しておく、みたいな?  うーん、つまり、ゴシップ、悪習とか醜聞とか、有名人のそれらを大衆は批難するけど、実は、大衆の側にそれらはふつうに蔓延している。自らを責めるのは気がひけるけど、舞台の上のスターたちなら皆ではやしたてて気軽に責めることができる、ようなことを言いたいのかな?  自分らのことは棚に置いて、悪口を思う存分口にする快感。
: 「鈴 :リン」  という音もあり。呼鈴(よびりん)、風鈴(ふうりん)とか。
: 「ゆっくりでている水をすくってのむほうが、いきおいよくでている水をすくってのむほうより衛生的。なぜなら、いきおいよい水は、手や器のおとさなくてもいいゴミをおとし、ゴミのはいった水をのんでしまう。」  「それとも、いきおいよい水はゴミを洗いながしてくれ、ゆるい水は流せないので、ゴミが体内にはいる?」  これは、まあ、どっちもどっちか。  勢いのある水は、手や器のゴミをはがしてしまうかもしれないけど、勢いがあるからはがしたそれもたぶん洗いながしてしまう。と考えれば、勢いがあっても無くても大差なし、か。
: 「セロテープをとるとき、ピタリとついて、うまくとれないことがある。」 ・・・  「そこで、両方をそろえてうまくやる。すると切れ目がなくなる」  あるあるだよね。分かるけど、たいていの人は経験していると思う、ただそれだけの事実、か。  面白いというには、淡泊すぎるかも。
: 「山にマーガレットをかしてたのだが、きいてみるとすみからすみまで読んだそうだ。しかし、それでよく、自動二輪のめんきょにうかったものだ。」  山(ヤマ)は中学同級。映画館の息子。このあと大きめのバイクを乗り回すようになるはず。  マーガレットとは、wakaの妹や姉が買ってくる別冊マーガレット(別マ。月刊だったと思う)。当時、wakaの家の四きょうだいの熱烈愛読誌。

※ 『1973/08/26 ジスマークは子供の顔』 : 「8/23 田■先生に電話 まず学校で聞き、次に先生へ。 150円で売る?? エ■■先輩なんかもお金をだす。  8/24 今日、必ず田■先生に電話、 ゆうびん物来なければセンパイに電話してもいい。いざ、という時は、できてる分だけ田■先生の所へ。」  田■先生は文学クラブの顧問。夏休み残りわずかという時期だから、秋の文化祭で販売する文芸誌制作の最終段階あたりだろう。  だいぶ、切羽詰まってきてる感じ。原稿、ほとんど集まってないのか?
: 「なまじっか ふくきてた方がいい。」  むむ。女子の裸身にかかわるセリフ、ということも・・?
: 「歩道をあるいてて、道路が横にはいる所をわたろうとするとき、歩いている二、三人の中の一人が、向こうからくる車をみつけても、「あ、ころされる。」などといわない方がいい。みんなたちどまって、自動者をみたり、え、え、などといって、何をしたらいいかまごついたりしちゃう。(マエッチョ)」  マエッチョは、中学同級。高校は別で、当時はもうほとんど会うこともなかったはず。 よって、過去の想起なんだろうけど、全体がマエッチョの言なのか、どうか。 全体がマエッチョならば、「あ、ころされる。」と言ったのはwaka君ぽいな。 反省の弁、というか、マエッチョの忠告を受け入れて、自らいましめのために書いている、とか。  自動者は自動車。  (マエッチョはひょうきんな少年だった。このように友をたしなめるようなことを言うのはほんとうにまれだったはず)
: 「「人間は最初、どのサルの種類にも属さないサルだったんだよ。」「だれも見た人がいないし、すいそくじゃないか。」「ちがうわ。そうではないかしら、と考えたのだから、見たことと同等よ。」 ・・・ 」  なんらかのテーマ、問題を、架空の対話をしながら吟味する、というスタイル、waka君はわりと好きだよね。  これは、同僚または同学年の男女のそれかな。サル云々で始まって、すぐ別の道にそれてしまったようだが。  粗々でも台本があってこれに沿うように進める、のではなく、かってにやらせておく、という感じなので、しばしばこんなふうにあるいはいろんなふうにそれたりもするみたいだ。
: 「アベ アベッチョ エベチヨ」  エベチヨ。すでにお馴染みの、waka君お気に入りの呪文というか祝詞というか。
: 「日直の事をニッツァツェウクウとよぶようになったとき、アベッチョもエベチヨというようになった。」  これも中学時代の回想。
: 「夏休みのはじめの一週間に勉強をやっちゃうのと、おわりの一週間にやるのではとてもちがう。  「ことがあとさきになってしまった。(今まで遊びすぎた。)」」  一般論ふうの(他人事のような)書き方だけど、現実に、夏休みの宿題とかレポートとかためてしまっている匂いがする。  ここは、8月23日なので、記載どおり残り一週間だしね。  「ことがあとさきになってしまった。」が、気づいていたら口にしていた自分の独白で、ちょっとおもしろい発言と感じて、これを解説つきで残しておきたかった。そんなところかな。
: 「人間は直立しているので、腹部が前にでて、そこが弱点となり、かんたんにころせる。そこで、人は互いにかんたんに殺して、古い物をころして、新しい、自分がとってかわっていく。そこで、早く、発展したのか?」  ぶっそうなこと書いてるよね。  よく言えば、ダークポエム。ふつうに言えば、でまかせとつじつまあわせの書きっぱなし。  (男児のころ、地面にしゃがんで、蟻たちを眺めているのが好きで、眺めているだけでなく、行く手を阻んだり、つまんで水に落としてみたりもした。困難に直面しても、必死にあがく生命力に魅入られていた。そういう下地があるので、そういうノリでこういうことも平気でかけるのかも。まあ、かくだけだから、まだいいんだけどね)
: 「いんがおうほう  ほうおう、こうおう、おうおう なんて感じに読んだこともある。」  因果応報。
: 「よめはにわからもらえ  よめとねこはきんじょからもらうな、 ??」  なんだこりゃ。ことわざか、それにしても正反対?   → 調べると、〔婿は座敷から貰え、嫁は庭から貰え〕で対句になっていて、 婿は自分の家より家柄がよい家から貰うと家の格が上がり、嫁は自分の家より低い家柄から貰うと威張らずよく働き、家のためによいということだとか。「婿は大名から嫁は灰小屋から」「嫁は下から婿は上から」ともいう、と。【ことわざ辞典 ONLINE. https://kotowaza.jitenon.jp/kotowaza/2277.php より】  → 〔嫁と猫は近くからもらうな〕 猫は家につくので、もらっても産まれた家に帰ってしまう、 嫁は近くからもらうと、しょっちゅう実家に帰ってしまうので、 近くでもらうな、という意味らしい。【美味しいお散歩。 https://blog.goo.ne.jp/haru_hinata/e/62cb3651caf2fb40e54a040bd8d0b4d0 より】  → ともにちゃんとあるんだ。waka君のいいかげんな創作ではなく。  とはいえ、前時代的ですな。現在、こんなこと信じている人はいるんだろうか。内心はそう思っているけど、声にはださないだけ、という人でさえ、もうだいぶ少数者と思うが。  (しかし、昔のある時期、一つの常識だったなら、将来のある時期、回帰することがないとはいえない。それに、別の相においてなら、こういう理(ことわり)は今も通用しているのかもしれない。会社と人とか。大国と小国とか)
: 「逆断層  正断層  }ほんと??」  wikiを見ると、このイラストはほぼ正しいもよう。  正断層〜引張応力、逆断層〜圧縮応力の関係性など、当然ながらwikiのほうが十全の説明図になってるんでしょう。(waka君の図では説明不足で逆と正の差異が明瞭でない)
: 「えんこんじょうよく シガナオヤの小説の題のうちなのだがこれでいいの? サカ■■センセがいった、|殺人|犯罪|の動機なのだが・・・」  漢字にすれば、怨恨情欲だが、どうも求める語句は(国語科のサカ■■先生が授業で口にし、waka君が実際に耳にしたそれは)これではないみたいだ。志賀直哉に「情欲」というタイトルの作品が見つからない。  → 志賀直哉の小説の題名にあり、かつ、殺人、犯罪の動機としてよく使われる決まり文句という条件で考えると、正解は、怨恨痴情、ではないかと思われる。  ネット検索すると、痴情怨恨という語順が一般的みたいだ。
: 「夢の中でお姉さんが示すことには、次回の黄色いトマトで、ハルキはタエ(?)と結婚するが、次の日にはもうちゃう人と再婚する。という筋になるらしい?」  夢の中で、waka君の姉が言うわけね。つまりほぼでたらめ? または、現実でも、姉が何か似たことを言ったのかも(ドラマの先を当てたがる姉の癖がこの頃には発現していたのかも)。  『黄色いトマト』は当時のTVドラマ。wikiで調べると、8月23日がラス前の15話。8月30日が最終回。主人公は碧川春樹だが、タエという女性は主要人物にいないなあ・・  → 関係ないかもしれないけど、当時、シモンズという女性フォークデュオが活動中。かなりの人気だったはず。そのデュオの片方が、玉井タエ。もしかしたら、waka君の夢の中で、まざりあっていたり。
: 「夢の中で書こうと思った事、1つ忘れる。」  いくつかみた夢の中で、書こうと思った夢を一つ忘れる。  さめてから覚えていた夢の中の事柄のうち、書こうと思ったことを一つ忘れる。  夢をみている最中にこれは書こうと思ったことを、一つ忘れる。  どれかな。三番目っぽいか。waka君のメモ魔ぶりから推すと。(メモ魔というより強迫症に近そうだけど)
: 「とのさまと家来のじい。」 ・・・  よさげな話だが、ひねりがなさすぎるのが難か。  じいの素朴さがキモなので、ひねりがないほうがいいのかもね。
: 「しゅうう きりさめ }関係ある??」  霧雨は秋の季語。秋雨なら合うが、驟雨だと夏の季語。  春立つものを霞(かすみ)、秋立つものを霧、といわれることもあるとか。
: 「夏目先生−ドストエフスキイ  志賀直哉−トルストイ }??」  この対比はちがうな。だいぶちがうな、感触として。  でも、ドストエフスキイが盛り沢山、情念、トルストイが淡泊で、洗練、これらが、夏目、志賀に相応しているといえないこともないけど・・・ やっぱり強引すぎるよね。
: 「ある程度の人が、その程度をはるかに超越した人をみたとき、その人の何を尊ぶか。」 「あまりにも程度の差があるため、ある程度の人にとって、超越した人の行為はばからしいことにすぎない。そういうときはある程度の人は、はるかに超越した人と自分の間の道のりをばくぜんと感じて、それを尊べばよい。」  どうも、切れのない言説だな。何を言いたいのか、来ないし。
: 「朝日ヶ丘は市街より南にあるのかと思っていた。 北にあった。」  ちょっと複雑なのだ。  当時のwaka君も、現在の私も、今さっきネットの地図で調べてみるまでわかっていなかった。地元民であるにもかかわらず。  千葉市の北西部の花見川区に朝日ヶ丘という地名があり、千葉市の北東に接する四街道市にも旭ヶ丘という地名がある。  近場に二つあるなんて、今の今まで知らなかったよ。あさひがおかという地名を児童の頃から成人するまでたびたび耳にしたはずだけど、時には足を踏み入れたことまであっただろうけど、一つしかないという頭のままだったので、それがあるらしい方角とか地名と場所の一致とかがいつまでも固まらなかったのではと思う。  ・・しかし、半世紀もの間、気がつかない、疑問に思わない、調べようともしなかった、とは、のほほんとしたやつだね、我ながら・・   → ネットで調べると、朝日ヶ丘町は昭和13年に起立。四街道の旭ヶ丘団地は昭和43年に入居を開始。本文は昭和48年だから、やはり当時すでに両所とも存在していたんだ。
: 「雨がふると、心がいんきになっちゃうみたい。 それとも、ぼくがゆううつだと雨がふるのか?」  低気圧ウツ、とか?
: 「■■リは何かというとすぐ泣くからいけません。ちょっといいたてるとすぐ。抗する力をもたなくては。」  まあ、8歳も上の兄だから、小学生女児と高校生男子だし、腕力も体格もちがいすぎるよね。  ここから眺めているともどかしい、泣かせるな、かわいがれ、といいたいよね(^^;
: 「「うん」と「ふん」の間。「ふう」というのを口をとじたままいうような感じ。 「ああ、」「うん」「う、うん」というような意?」  いわゆる、生返事が、これかな。
: 「スイコウとコウセイをまちがえる。」  推敲、校正、か。類縁ではある。
: 「戦前の人を戦後につれてきて、どうだ文化がすすんだろう、というと、戦前の人にとって、その戦前が自分の地なので、それをけなすやつにはいくらか反感をもつはず。  ほんと??」  ほんと? といわれてもね。waka君の脳内設定の状況だし。
: 「まほろべ、とは?」  まほろば、ならある語。
: 「手塚治虫は昔、しょうにかの先生 医者 だったとか。」  wikiによれば、すでに漫画家としてデビュー後に、一年間インターンを務め、医師国家試験に合格したのは事実。  それが、小児科だったのかまでは確かめられず。
: 「今月末発売 今月未発売 }この差!」  笑。こういうのがうれしい。
: 「■■りがこの前書いた、一人の女の子がもう1人の女の子をなぐった絵はうまい、というかおもしろい、というかとにかくいい。」  当時小学四年生ぐらいの下の妹の、この絵をみて、ほめてばかりでいいのか、という気もするが・・   大過去のことだから、もうどうしようもないけど、■■りさん、学校で何かあったんだろうか・・ 
: 「  ぼくです。」  ぼくです」  ぼくです。 」  }どれが正しい?」  原稿用紙のマス目の埋め方。縦書きで。  今からみれば、些末。どれでもいい。(今の書き癖は、句点を省いて、ぼくです」だが)  もう原稿用紙に書くことはまずない。
: 「その感じがつかめないうちは、かわす、を「交す」とかいたり、するようなことはやめよう。 つまり、漢字の感じが心についたら、感じるようになって、表わそうとする言葉の感じと同じようになったなら、漢字をつかおう。 そして、ひらがなの方が合ってると思ったら、ひらがなでいこう!!」  これは用法の方針として、おおむね賛成だぞ。  しかし、漢字の感じ、など、ちらちらするような(読みづらいというか聞きづらいというかそんな)文章だ。
: 「8/24 ボクノ ワリツケ  8/25 午前中にもってくこと!!」「原稿 25日の午前にもってく!!」  いよいよ、入稿日かな。文学クラブの文芸誌の。  なお、ここもそうだけど、頁上辺の薄書き(エンピツ書き)メモでは、予定とかすべきこと(いわゆるto−do)を事務的に書きとめていることが多いようだ。  上辺欄外で目につくし。心記は四六時中手元にあるので、予定専用のメモ帳を別につくらなくてもいいし。
: 「むりに漢字を使う必要はないのじゃなかろうか?」  そりゃそうだよ。  現在も、私、たとえば「方」という字を、「かた」と読むときは漢字、「ほう」と読むときはひらがなと、書き分けたりしている。  「という」なども、気分で、「と言う」としたり「という」としたり。発声が伴いそうなときは漢字で、抽象度が高そうだとひらがなで、のような気分。
: 「ぼくんじゃない。」「ほんとにどっちかわからん。」  これは、あるとおり、読んでるなら文脈から、現実なら場の流れ雰囲気から、感じとるものになるか。  ぼくんじゃない。と平板に言われれば、ふつうに否定。  ぼくんじゃない? と尻上がりだと、疑問、さらに、反語的に肯定、ともなりそう。  よって、文章ならせめて、?マークはつけてあげたいか、後者のつもりなら。
: 「お父さんとお母さんはなんでぼくをボウズにしたのか?」  真相は今となってはよくわからないね。  小学2年生の夏頃、アセモができて、がきっかけだったとは思う。けれど、それから高校2年ぐらいまでずっとボウズ頭だったのは、祖父母や両親たちとこちらとの 息があった としかいいようがないかも(笑)  そしてそれから、かっこつけたくなって、ぶっちゃけていえば色気づいてきて、高校途中で伸ばしはじめたのではなかったかなあ・・
: 「ぼくを含めた人々を生まれた時からずっと、うまい小説がかけるように教えたなら、」 ・・・  「何事もこうなのかしら。最も、自分の才能にあった環境に生まれおちて、適した仕事につくかつかないかが、大成できるかできないか、のわかれめなのか? 素質など、ほとんど同じくらい、だれにでもある??」  今風に言えば、出生ガチャ、的な諦観論か。  最初からさまざまな好条件をそろえてもらって芽生えるのと、真逆の過酷な地獄で芽生えるのと、どうやって勝負すればいいのさ、と・・  でもさ、才能って、それに適した環境に吸い寄せられていくっていうのもあると思うよ。 どこで生まれようと、自分の内なるものが求める場所にいつのまにか足が向いてしまう、そういう業(ごう)がありそうだ。 勝負とか結果とか、それがほんとに出生ガチャで決してしまうとしても、自分の業にどう報いたかの勝負に関しては勝てそうじゃないか。
: 「老人のいない家庭で育った人は、自分が老人になってから、毎日せきをするのに、家人がだれも心配してくれない、と悲しく思うだろう。」 「しかし、老人のいる家庭で育った人にとって、家人が何もいわないのはあたりまえ。いつものことだ、とわりきっているのがわかる。なぜなら、自分だって、そう思ってきたのだから。」  これは一般論の体裁だが、現実にwaka家において、祖父(または横浜のおばあさん)が咳き込んでいるんだろうな。心配して具体的になにかしてあげていないので、ここに言い訳を書いているか。  孫である自分は何もしてあげていないけど、将来、自分が老人になったとき、孫が何もしてくれなくても甘受するから許して、と。
: 「を → 」  をの形態変化。XとEの合成のようになって「ユニーク」と。
: 「いんのうの中のタマゴよりすこし小さいぐらいの黄色い黄丸を二つ、めがね といっしょに学校におきわすれた。」 ・・・  ノンフィクション、つまりウソはない、と。  ケッサク!! 代表作にするにはちょっと品がない気もするが、おもしろいね。  深層心理的に何かありそう。あるいは単に、その辺りに痛みがあって夢に影響しただけかもね。
: 「理屈  理をまげる  理に屈っする }?」  屈のままだとたしかに謎になってしまうが、元は
理窟 だったそうだ。   は、ほらあな、いわやで、誰か何かが棲んでいる、集まっている、という意味をおびる。  よって、理がすんでいる、集積している、ということになっていくようだ。  (なので、理屈は、魔窟と同じような構造の熟語ということになる)
: 「「しかし、Aは、自筆で、書きおえたのを25日だとしているよ。」「でも、法則にしたがうと24日でなければいけないはずよ。」  脱稿日について云々している。妄想の中の一場面か。  書きたかったのは後半の「きっと、彼の時計がすすんでいたか、さもなきゃ、十二時前に書きおわり、さて、何時かな、と思ってみるあいだに秒針が十二をまわっていてしまったのよ。」という事情だけで、これに脚色して会話劇にしたのは、オマケ、遊びということかも。
: 「うまいのが先にでる。 うまいのがあとからでる。 >という二つの常識があるので、雑誌の順序は苦労するが、なんとでも理屈がつけられるから、かえって気楽かも。  ほんとに両方とも常識!!?」  苦労するが、などといっぱしの編集者気取りだな(^^)  まあ、幹事(部長)でめんどうを押しつけられている立場だから、多少役得を味わってもばちは当たらないと思うよ。  (といっても、この年の文芸誌、waka君以外は皆、先輩三年生の作品だったはず。無難なところにおとすしかなく、羽目を外すなどは無理だったと思うけど)
: 「「1対3(1:3)、1対4(1:4)、1対5(1:5) えーと、いったいいくつになるんだ。」」  何を言いたいのかと思ったら、だじゃれかい! 
: 「ぼくのもってる白いしょうぎばんと茶のやつと、古い駒はうちにあったものだが、だれがつくったのだろう。」 「白い駒はつくりものみたい。駒は売っていたものか。」  白い駒は、白いしょうぎばんの誤記かな。
: 「こういうのをつくっれば、ぜったいにハサミ将棋に負けない。」  同じことを以前にどこかで書いている。 → display『1973/06/03 ハサミ将棋』。
: 「まっちの二つのもち方」「これじゃわからん?」  右手三本指でもって、どちらかにこすって、点火。  右手四本指ぐらいでもって、小指方向へこすって、点火。  前のがwaka君の、後のが姉きの癖だったか。わりと各人、個性的な擦り方をしていたかも。  大人の煙草の火の点け方、とかも。  現在はもうほぼ途絶えた仕草。
: 「教える、は、おしえる、かぞえる、の両方に読めるのだろうなあ。と考えた。」  数える。別字だわな。
: 「西日本にはけっかくが多い、というのも、西日本にひろまった医学流派はけっかくにしたがる。東日本には脳卒中が多い。これも同じ理由。」「ほんと? かってに空想したのだが。」  今ならフェイクニュースの発信源になりそうな妄言だ(笑) ありそうな事情に思えるところなんか。
: 「「文学クラブ誌を売るために、内容が中間テストにでるっていうデマを流そうか。」」 ・・・  妄想話だけど、文芸誌の売れ行きを心配しているのはわかる。
: 「豆を食わせてから水を飲ませると、馬は死ぬそうな、豆が腹の中でふくれて。」  なんかまゆつばだな。ふかしてない豆なんだろうな、少なくとも。  どうもこの辺り、この手の記事が多めだ。
: 「たてかけてあったしゃべるがたおれたとする。Aも、もとのようにおく。Bは、もとのようにおいてはまたたおれるからと、たおれないようにおく。」  わずかな気づかいの差。Aしかできない人っているよね。逆に、過剰にBをしてしまう人ってのもいる。
: 「左のようにやって、4人で上にもちあげると、中の人はフワーともちあがる。  中の人は精神統一をしてねばならぬ。」  これは、waka君の父親が好きそうなテーマだ。ほぼ間違いなく、父ちゃんからの受け売りだろう。
: 「自分のまったく自由に使える空間をもつことができたら、どんなにすばらしいか。土中にもしくは空中に自分のマイホームを。ふつうの土地が買えないなら、空中に。残留思念で本をおき、寝床をしく。つまり、テレキネスで本を空中に、寝床を空中に、そして、それをそのままにしておくのだ。そして、宇宙のあらゆる所に行く事ができる。他の次元にも。 こうなるともう、個人主義一筋か。でも、やっぱりまだ、小説は書きたいだろうなあ。とにかく、自由に、平安に生きていかれる超能力を得たいものだ。」  自由に、平安に生きていくのが、主目的なのね、当時のwaka君。  酒池肉林とか、世界征服とかは、あまり頭にないか。  (後年の妄想遍歴からいうと酒池肉林、世界征服)そうなったらなったで、きらいじゃないんだけどね(^^;  妄想願望ではあるが、たとえば家を出てアパートで一人暮らしでも始めれば、とりあえず、一端は実現できるはず。 現実に投影すれば、そういうことだろう・・ 
: 「心の超人。 心を他に働かせる超人。 心自身の超人。 }どっちがいい?」 「心が深く、高く、大きく、強い。が、他に働かせないので、常人とみなされる。つまり、テレキネスやテレポートをするようなSFによくでてくる怪物じみた力をもつ超能力者ではない。彼の心はまったくふつうの人の心が、わき道にそれずにひたすら、多大に深く強くなったものと同じ。 わき道にそれると、テレキネスやテレポートができるようになるが、真の心の働きはそんなにね。」  そんなに(ないんだよ)ね。の意か。  いわゆる超能力者よりも、上位の存在と想像している。心自身の超人には、酒池肉林や世界征服はあまり眼中になさそう。高校生waka君にはまだあった、純真さのあらわれかも。
: 「銀河帝国の興亡のミュールのようでもあるが同じでない。ミュールも心が真に強く、大きくなったものでなく、わき道にそれている。」  『銀河帝国の興亡』はアシモフのSF作品。ある時代に登場するミュールは一種の梟雄。
: 「聖人だ、神だといわれるような人物たちでもない。この心の超人は、他からは常人にみえるようにみせていて、自分の心の中では、あらゆる事をたのしんでいる。いろいろな所に行き、数秒を数千年に感じたり、数千年を数秒に感じたりして楽しんでいる。でも、これはたのしむだけ、いわがしゅみ。 その超人の心は深く高く強く、広く、人間とはおもえぬ巨大さなのだ。そして、その巨大さの中で生きている。心の巨大さにくらべたら、外のすべての世界の大きさなど、まるで問題にならぬほどなのだ。つまり、彼の心は他の世界にまさっている。他の世界がまるでたちうちできぬほどなのだ。」  いいね。  世俗に隠遁する、一つの理想の域。
: 「電卓の特許は日本人が持ってるの??」  調べたが、はっきりしない。  誰が(どの国が、企業が、個人が)発明したのかは、機械式計算機とか、卓上計算機とかを、どこからそれと言うのかにもよるようだ。  やや後発ながら、日本のカシオやシャープ、キャノン、その他もがんばったらしい。 (なお、想像しづらいかもしれないけど、1973年当時の電卓は、現在のパソコンやスマホなみの、最新流行機器、花形だったはず。 今から眺めると、演算ができるだけの機械の何がうれしかったのか、ほんと不思議だけどね・・)
: 「土曜ロードショウ、というと、どうも言葉が合わぬ、ちぐはぐ。」  ドヨーとドショーが、きれいに共鳴しない、不協和音、ということではなかろうか。
: 「タイプ とはタイプする事? 打つという意? }?」  type は要は 型 ということになるみたいだ。「あの人、あたしのタイプよ」などと使用されているあれがそれ。頭の中では別語のような分類になっていたが。  タイプライターはだから、型を書いていく機械、とでもなるのかな。  ところが、辞書によると、type の原義は 打つ らしく、打つ→押印→刻印→模型 というようにすすんで、型の意となったようだ。  なので、タイプ≒打つ、というのは、一周まわって戻ったってところがあるのかも。
: 「曜日の日、月、火、水、木、金、土はどうやってつけた名なのだろう? よくみてみると、ふるめかしい語のようにも見える。ふるめかしい、というより、昔の日本の中国的な、そんな感じ。」  wikiによれば〔七曜の概念はバビロニアで発祥し、さまざまな経路を経て世界に伝播した。〕とある。  たしかに、中国発祥で日本へ、という単純なものではないよね。英語にだってちゃんと七つの曜日があるわけだしね。  同じくwikiには、〔江戸時代の日付の計算においては、借金の返済や質草の質流れなどで当月が何日あるか(29日または30日)が分かれば良いので、七曜は煩わしくて不必要とされ日常生活では用いられなかった。現在のように曜日を基準として日常生活が営まれるようになったのは、明治初頭のグレゴリオ暦導入以降である。[要出典]〕などともある。
: 「11人家族のお話をなんでま夜中にやるの? この題は何?」  テレビなのか、ラジオなのか。さすがに当時も知らない題名を今探すのはむりか・・  候補としてだが、検索したらwikiで、『ただいま11人(ただいま11にん)』というTVドラマがでてきた。 しかし、〔1964年(昭和39年)6月4日から1967年(昭和42年)3月23日まで毎週木曜20:00 - 20:56(日本時間)にTBSで放送された。〕とのことで、 放送時期が何年も過去になる。なので、これがそれなら、この日の深夜のそれは再放送ということになる。  ということは、録画できていて何年もあとまで残っていたことになるが、今では当たり前でも、録画用機材、テープなどがとても高価だった当時ではこれがあやしくなってしまう。実際、このドラマの放送映像を今ネットで探しても見つからなかった。  (1973年のこの日の新聞のTV欄を確認すればもうすこし何かわかるかもしれないが、これはまだできていない)
: 「しゅうねんのいでん」 ・・・  「が、無色無臭とはいえ、異星の宇宙人の排出物がはいっていたのだ。ハラ、イタタタぐらいはいうだろう。A君、すぐトイレへ。宇宙人のしゅうねんはここに成った。」  執念の遺伝、とは違うよね?   いや、そうか。子孫に伝わる遺伝、ではなく、後に残って伝わるという単純な意味に解した場合の遺伝、ということか!?  移伝、こんな漢字も思い浮かべていたのかも。(遺伝が書けずにひらがなになったのではなく?)  このお話の場合、トイレにいきたかったという執念が、後に残って、A君をトイレにいかせた、という因果をいってるんだ。なるほど〜 
: 「しゅうねん トイレ  しゅみ 恋愛  }??」  その線に沿ってこの項を解釈すれば、執念がトイレを遺伝させた。趣味が恋愛を遺伝させる(だろう)、というような意味かな。  趣味嗜好が後に残って、恋愛を再び花開かせる、というようなことなんだろうけど、具体例がすぐには浮かばないな。  → あるいは、執念/趣味は、トイレ(排泄欲)/恋愛(性愛欲)に対応している、という図式化かも。  トイレ(排泄欲)と趣味、恋愛(性愛欲)と執念の相性もわるくはなさそうだから、図式が単純すぎるともいえるけど・・ 
: 「こんなのでないまともなジス ジェス、といってしまうのだが ・マークは子供の顔がかいているような感じをうける。」  文章が変だ。子供の顔がかかれているような、か。  ここに描かれているのは当時のJISマーク。  2004年にデザインは刷新されており、新しいほうは、しいていえば、むっつりしているおじさんの顔にみえる。
: 「サイコロをころかす。その回にでろとねがったものが、すこししてからでると気づいたA君、」 ・・・ 「超能力とはこんなもの。」  あるとしても、せいぜいこんなものでしょう、という、醒めた見識。  大人になりつつあるのかもね、一抹のさびしさ。  (これまで、さんざん超能力願望のようなことを書いてきているのに。大人がひょっこり顔をだす、というべきか)
: 「「たってもすわっても、ちかくもとおくもならないものなあに。」■■コ 「自分でしょ。」■■リ 「横の物。」■■リ 「答えは床。たったときも、すわったときも、いつもくっついてる。」■■コ 」  なぞなぞとしてはすっきりしないけど、受け答え、かわいらしいよね。しかし、当事者たちは(妹二人)、真険かもな(プライドをかけている?)。
: 「きゅうしゅかいだん、とは?」  鳩首会談、か。  偉い人たちが会談しているイメージがあるけど、鳩たちの様子になぞらえているわけだから、偉いの意は本来なく、むしろ戯画化してるはず。
: 「赤の木のおわんに水をジャバーと入れる。あわがいくつかたつ。そのあわの1つ1つにのもうとするぼくの顔がまんがのように丸く、のっぺりとした顔がうつる。こんなふうにみたのははじめてなのでは?」  これは、ビジュアル的に面白い。
: 「武士は自分の刀をおくとき、左においたか、右においたか?」  右利きとして、自分の左側に刀が置いてあれば、抜きやすい。  よって、攻撃意志がないことを示すために、自分の右側に置くのが作法だったとか。
: 「刀 かたな  剣 けん >これはちがう?」  刀と剣は同じものか、ちがうものか、と。(並べて書くなら訓でそろえて、かたな、つるぎが適切かも。でも、ふつう、剣は けん と読んでしまうか)  かたなは「かた+な」「片刃」(なは刃の古語)の意。 剣は元々は両刃(もろは)のものをいったが、そのうちに、片刃両刃含めて大刀のことをいうようになったとか。
: 「カムイ伝16」  カムイ伝(第一部。全21巻)は、単行本で読んでいる。書店にでるとすぐ買っていた。  ネットで調べると16巻は、1970年頭の発行なので、ここは、再読しているんだろう。  (ちなみに、三十代頃にも、東京都立日比谷図書館にかよって、全4巻本で読みなおしている)
: 「感ずきる、とは? 感ずきやがった。」  感づく、だろうね。
: 「これから、ひまがあったら漢詩をつくろうと思う。勉強をどうしてもやらねばならないが、やりたくない、というときにも、これを書いていよう。気分がすこしはおちつく。」  これを書いていよう、のこれは、漢詩か、心記か。  どうしてもやらねばならないが、やりたくないとき、皆さんはどうしてるんだろうね・・ 
: 「それから、心誌の中の人物たちともときどき話そう。」  心誌は心記の書き間違い。このノート。  まれに、会話相手が現われる。
: 「もしかしたら、彼女の生活を一生めんどうみようか。  という日本語ある?」  すっきりしないことは確か。もしかしたら、が、自分の意志でどうにかすることにつながりにくいのかも。  場合によっては、彼女の生活を一生めんどうみようか。  もしかしたら、彼女の生活を一生めんどうみることになるのか。  これらなら、すんなり。  すんなりだけど、前者は前向き、後者は気が重そう。本文のすっきりしない組み合わせは、後ろ向きと前向きのないまぜな心境を素直に表わしているともいえるのかも。
: 「いきとし、いけるもの、とはどういう意?」  生きとし、生けるもの。  意訳すれば、命が現にあって生きているもの、か。  修辞的な言い回しでわかりづらいといえばわかりづらいけど、ひびきはよい。  すべての生き物、という意味に広がるのは、このひびきのせいかな。
: 「他の字は書いてあるのに「盛」の字の韻が、漢和中辞典には書いてないのだ。なぜ??」  この辞典(角川漢和中辞典。昭和34年初版)、今も手元にあるので、確認してみた。「盛」の項にだけ韻字の記号がない、ほんとに。  韻字は中国語での発音のことだから、国字(わが国でつくられた文字、榊、峠など)に韻字記号がないのはわかるけど、盛は国字ではないし。  これはどうやら、この辞典の側の脱字(記号掲載忘れ)ということかも。
: 「 晩夏   夏休将欲卒 盛葉褪而死 長日徒遊慢 悽風吹彼此 」  読み下し文が一部気にくわないが、稚拙なりに、隠逸の風趣もあるかな。しかしまあ、夏休といってる時点で、お気楽な立場を想像させちゃいそうだが。  きついことを言ってしまえば、漢詩に似せた何か、か。  こういうものを、似せ物、にせもの、というのでしょう。そもそも、日本人であるwaka君が外国語の詩を書こうとしている、そこからしてもう少々無理なり欺瞞なりがある。辞典を調べて平仄を合わせたりしたところで、ちゃんとした中国語の発声ができない、聞き取りもできないでは、声調が良いも悪いも判断できないわけで、はたして詩作をしているといえるのかどうか・・  とはいえ、こういうものを組み上げるのは、遊びとしては純粋に楽しいんだよね。パズルのようなところがあって。
: 「木でできた壁を板壁といえばよい!」  文字は土にのっており現実の壁も土でできている雰囲気が濃い。木製のものはどうすればいいのか。  としばし行き迷ったけど、あっさり解決して、発見したように感じたんでしょう。
: 「今の人は皆、うすっぺらな人なのではなかろうか。が、うすっぺらなゆえにすなおな人が多いのではなかろうか。」  戸や壁で幾重にも仕切られている家と同じく、人は何かを隠していると、奥行きがあるようにみえる。  しかし、何も隠していない、仕切りがなくて向こう側まであっさり見通せるからといって、実際の奥行きにそれほど差があるわけではないはず。
: 「午後5:54. 窓の前の柿の木のせみがうるさくなく、ひととき。」  「紅白歌合戦は、歌手でえらぶのか、歌でえらぶのか、」 ・・・  夏の蝉の声と冬の歌合戦を並べている。偶然、とは思うが。
: 「小学校の頃のしつけがきびしかったので、あの頃は、エンピツに名をかいた。」 ・・・  「しつけが残るなら話がわかるが、ゆるくなると、こっちまでゆるくなってしまうのはどういうわけだ? 過去を生かして、ゆるくなっても、こちらはきびしくいくようにいくべきか?」  うーん。鉛筆に名前を書くなんて、ここを読むまで忘れていたよ。ナイフですそを削って名前を入れるわけだが、高校生で書いているやつ、いないだろう・・  確かに残らないしつけに意味はないかに思えるのだけど、具体的な行為が長じるにつれ消えてしまうとしても躾けられた体質はずっと残っているはずで、それには意味がありそう。(残っているそれらの善し悪しはとりあえずおいておいて)
: 「喝× 喝 か× かっ?? かつ○」  本文に書かれているのは、喝の異体字(第3水準)。  しかし、手元漢和辞典にはデジタル文字(
、第1水準)のほうが全く載ってない。  つまり、このデジタル文字は嘘字っぽい。  (第3水準の右側= の草冠の無い姿=の下部が、ちょっと遠目に見ると、ヒにみえるので、第1水準の字ができてしまったのかな)
: 「君 勉強してる? :姉」「うーん :我」「今日 ■■いくの。:姉」「そうなの。:我」  職場の宿直をおしつけあってる?? 姉はあわよくば。弟はとぼけてる。
: 「うーん  ううん うん 迷い、ええと }3つにとれるからおもしろい。」  「「ううん」か「うん」かわからないあいまいさと、迷いをあらわすうーんのあいまいさが重なっている。」  生返事で、めんどうをそらす、と。  数ページ前にある、〔「うん」と「ふん」の間。「ふう」というのを口をとじたままいうような感じ。〕とはまたちょっと違うみたいだ。

※ 『1973/08/28 くすくすわらう』 : 「ぼくは中学の時、まじめでまともな子のように思えた。が、考えおこしてみればひどい事も言ったしひどい事もやった。そのように他にとられたろう。 が、他は感ちがいして、まじめでまともな子のようにもぼくをとったのではなかろうか。ほんとにぼくはどんな子だったの?」  文章も、両極に分裂気味。でもかざりのない独白に思える。  感ちがいは、勘違い。
: 「あんたどんな子が好きなの。 ものごし静かできれいな女の子。きまってるじゃんか。」  答えたのはwaka君として、訊いたのはだれ? あんた、というよびかけから、目上の女性だろうね。つまり、母親か姉きか。  (質問から創作、という可能性は、ここでは低そう。創作なら、もっと女子っぽいセリフにすると思う)  (よく見ると、あんた、ではなく、あんだ、となってるか。しかしまあ、あんた、のつもりでしょう、ここは。  あんただれが、とはじめ書こうとして、だれが以下を消している。このだれがのだにひっぱられて、あんたのたをだに誤記した、のであろうと推測)
: 「両手でじゃなくちゃできない。  ぼくは舌をかみそう。」  これはおかしい語りだよね。両手でではなくてはできない、と言っているのと同じだから。〔両手でなくちゃできない〕がすっきりしてまとも、よろしいでしょう。  よって、よろしく言うつもりが、何か脳内で衝突があって本文のように発声しようとし、言いづらいので舌がもつれる感覚がした、その脳内衝突時の言葉の姿をくしくも書きとめることができた、・・ということかも。
: 「私の力があればいつでも名声をあげられる。しかし、その名声をあげべき社会がなくなってしまいそうなので、今、こういう非常の手段によって、急に名声をあげようとしているのだ。」  何らかの設定(妄想)内の、せりふ、か。
: 「朝9:00頃から、今、11:40ぐらいまでねて、夢を見た。前半は忘れる。」  以下、長文。一頁近い。  長いわりにはストーリー性が乏しく、あまり面白くない。断片的なところが、夢らしいといえばいえるけど。  印象が消えないうちに書きとめること優先、というところ?  きゅうくつなのに来る。は、着るか。  高級レストランでこんな場違いな行為をと、気にしていますな。(なんだか高級っぽくないけど)。ついには、いろいろひっくり返す。  夢の世界なので、基盤がしっかりしておらず、不安が次々現実化してしまうかのよう。うっすらした悪夢かも。
: 「ゆるされまじき、  という語ある?」  耳慣れない。文法的にもあやしいが、調べても、はっきりまちがいという確信もてず。  許されざる、とか、許すまじ、なら、すんなり聞こえる。
: 「王子 オオジ」  正表記はオウジか。
: 「扇風機をつけたままねると、体温をうばわれ、心不全で死んじゃうそうだ。コワ〜〜イ! やってしまいそう!」  半世紀後、今、ネット検索しても、似たような意見、多し。  死ぬ、から、だるくなる程度、まで幅はあるが、体に良くないのは本当らしい。  お医者さんがはっきり「(場合によっては)死にます」と言っていれば確定なんだけど、とりあえず、素人さんたちの発言しか見つからなかった。
: 「こう丸という字をみるとわりとひらめくが、金玉という字をみると、いっしゅん迷う。」  ひらめく、というのは、言葉からすぐ対象が浮かぶ、ということをいいたいんでしょう。  金玉は、実際、複数の意味をもち、きんぎょくとも読む。直結はしないか、たしかに。
: 「おんよう いんよう >陰陽 どっちが正しい?」  おんみょう、もあり。三つとも正。
: 「どうもありがとうございました。 どういたしまして。 }ぼくは、このどういたしまして、がいえない。 これは女の言葉?」  女言葉ってことはないはず。  いえない、は、言い慣れていないのですらすらでてこない、ということでしょう。  こういう挨拶言葉は、場数を踏んで、反射的に口にしているぐらいにならないと、様にならないかも。  しかし、慣れなくてぎこちなくても、ちゃんと返せれば、誠意は伝わる。若い人にかぎらず、それで十分といえば十分。
: 「強い生命力をもつゴキブリ。ゴキブリが死ぬより、生きる方が自然内においてあたりまえだとするなら、むりにゴキブリをとる薬や器具を使い、ゴキブリをどうにもできない所においつめるのはやめたがいい。ゴキブリはその危幾を克服すべく、おそろしい力を体に宿すかもしれぬ。それが、知態か、人間の手に当る器官か、また、考えもおよばぬものか・・・・。こういう可能性は十分にあるのだ。」  知態は知能だろう。  可能性はそれほどはないと思うが、まあ、SF的物語のネタにはなりそう。  (数年前、GyaOで、『テラフォーマーズ』というアニメを見た。同様発想の力づよい=人によってはおぞましい=開花)
: 「これは、夢の中の夢が、夢の中と同等、つまり、2つは2つのちがった夢だ、というのだ。」  入れ子構造ではなく、並列しているだけなのに、夢なので入れ子構造だと錯覚するのでは、と。  うんうん。この気づきについては、説得力あると思う。
: 「こんどの文化祭はたいへんだナア〜〜.   まず、実行委員として、いろオンな仕事をしなければならぬ。  と、同時に、文学クラブ誌をハンバイせねばならぬ。  また、それと同時に■■高名人戦を企画し、それに参加せねばならぬ。   体が3つなきゃ、何もできない。   実行委員の仕事は、ケイビとか、そんなのになりたい。そして、祭のあとケイビしたりする役なら他とかさならぬ。文化祭たけなわのときは、やはり、名人戦に集中せねばならぬ。はんばいは先輩にまかせよう。どうせ、半日で売れる??」  無謀だね。今じゃ考えられない。  文学クラブ、将棋同好会は、自分でやりたくてやってるわけだから(なりゆきでこの時どちらも会長、つまり責任者)、この掛け持ちは覚悟の上としても、文化祭実行委員は何としてもことわっておくべきだった、すでに遅いが・・  (実行委員になってしまったいきさつは、display『1973/07/05 名札』にあります)  あれもこれもでは、あれもこれも中途半端で、結局は無責任なことになってしまう。まあ、高校のクラブとか行事だから、最悪でも、笑って済まされるのかもしれないが、実業、お金をもらう仕事だったら、許されないよね。そんな態度、態勢。  まあ、器用で、聖徳太子みたいにあれもこれも人並以上に対処できてしまうなら別だけど、waka君、そういう器用さ、要領のよさなど、全然無いからね。一つ事に集中してやっとどうにか形になるかどうかという気質のはず。  (それとも、そういう気質だと思い込んでるだけなのかな・・ この高校二年の文化祭、一人三役を、すべて完全、とはいえなかったけど、何とか大過なくしのいだはず。  社会人になって以降、こういう掛け持ち、非集中、分散対応みたいことは避けるようになったけど、これは自ら可能性を狭めていたのかもしれない。  ・・・まあ、かもしれないというだけで、ちがうかもしれないし、器用に要領よくやってこなかったのを悔やんでいるわけでもないし)  (なお、一人三役はわるいことばかりではなかったかも。現実的にこれはもう一人で全てはできないので、抱え込まずに開き直って、他に仕事を任せるということができたこと。意外とやってくれるよね、頼めば、みんな。それから、実行委員をしているので、委員会の通達など当然熟知して自らのクラブにおろせたし、クラブ側の要望もすんなり通せたところもあったと思う。一種の役得的なそれで)

※ 『1973/08 3大宿題』 : 「3大宿題  (1)サブリーダー (2)数α(宿) (3)化学(宿)」  夏休みの宿題の中で、とくに質量とも手ごわそうなのは、ということでしょう。
: 「角角金」  詰将棋図。  解答は、▲1四角△4二玉▲3三角△同玉▲2三角成△4四玉▲4五金までの7手詰めか。  鮮やかなので、waka君の作ではもちろんなく、プロの作品かな。
: (日本図)  おおざっぱな日本全図の、千葉県の東方海上辺りの、生き物っぽい絵は、ちょっとかわいい。  妖異? 
: 「夏の休みも終わらんと欲す 葉も散りはじめた 私だけはいらだち 新学期よ来ないでくれと思う」 ・・・  「夏休将欲卒 盛葉色あせあるいは散る しかし、私は何もせずうかれあそんでしまった すずしい風が 庭と心の中にふいている」  などとある辺り一帯は、『1973/08/26 ジスマークは子供の顔』にある漢詩『晩夏』の推敲メモや下書きと思われる。

※ 『1973/08/31 いろいろな虫の声がする。』 : 「さよなあらあ なつやすみ、さよなあらあなつやすみ、さよなあらー な、つ、な、す、みぃ〜〜 また ああうーひまで」  「ぼくは何の曲にあわせてうたったのかしら?」  字面だけでも、音痴に思える。(waka君は、基本的に音痴)
: 「気づいてみれば、ぼくはまだ未成年。なんか、もう人生の大部分を生きちゃったみたい気もときどきするのに。しかし、16年間の過去は長いなあ。大きいなあ。」  六十余年の過去が、あっという間のような気もします。
: 「志賀直哉は、もみの木が残ったによって、カイが善玉化され、アカニシカキタと矛盾したのを思い死んだ。」  「考えすぎ?」  志賀直哉は、原田甲斐を悪人とみなした『赤西蠣太』を1917年(大正6年)発表、山本周五郎が四十年後、逆に善人とみなした『樅ノ木は残った』を発表。  よって、[アカニシカキタと矛盾したのを思い死んだ。]とwaka君が想像したわけだ。  『樅ノ木は残った』の後、十五年ぐらい志賀は存命しているから、なにがしかの感慨はいだいたかもしれず、たぶん考えすぎだろうが、まるで見当違いでもないな。
: 「パンタロンを|着る|はく }どっち。」  穿く、だね。
: 「このころ、1日のたつのが、おっそろしく早い。  小さい頃は成長がはやいので、1日がとってもゆっくり。大きくなると成長がおそいので1日がとっても早い。 ?? ぼくままるで年とった?」  成長が早い、成長の密度が濃いほど感じる時間が長い、という本文の(waka君独自の)理屈は、うなずけるな。感覚的に。  しかし今では、本文の現象は、これまで生きてきた長さと1日(とか1年)との比率で長短を感じるので、長く生きているほど、1日(とか1年)がみじかく感じる、という一般的な理屈で納得しています。  納得はしてるんだけど、改めて考えると、前者の感覚もすてがたい・・
: 「こどもの頃にAだと信じた事。今になって思うとみにくい下心があったようにも考えられる。が、感じとしてはAである。思い出はそのときにきまる。その時の心だけが決める。今の心がいくらうたがっても、およばぬ。 という事が多いのでは?」  いいたいことはわかる。本文のままだと曖昧模糊だが。
: 「夏休みの宿題が90%も残っているのに8月31日をむかえたB。ノイローゼになったふりをして、・・・ 」  最初の一行で、爆笑。90%は大げさに言ってるんだろうけど、五十歩百歩なのかもね、waka君の現実(リアル)! 
: 「9/1 2:00〜 あの子が死んだ朝 最終回、」  『あの子が死んだ朝』は、今検索で探すと、1972.1.4〜1972.2.8に放映された、サスペンス・ミステリー系の連続TVドラマ。  ここにあるエンピツ書きのメモは1973年のものなので、再放送をみていたということらしい。
: 「ボーンボーンとなる置き時計を1時間早め、夜の11時に、12コ、かねがなるようにしなさい。・・・ 」  魔法使いとの契約みたいな場面が浮かぶ。  ところで、ボーンボーンは、どちらかといえば、柱時計だったような?
: 「このボーン、ボーンの事を何といったっけ??」  ネット検索しても、ボーンボーンという音、とばかり描写されている。  探しているうちに、時打ちの音、と言ってる御方をみつけた。これはしっくりくる。 (でも、当時、この呼称があって前にwaka君が耳にしていたかどうか・・ 耳にしていた可能性を考慮すると、思いだしたかった語は、単に「時報」とか「鐘の音」でいいのかもしれない)
: 「びわこのずっと下にいた大ナマズが、・・・」  なんとなく民話風の設定。日本一の湖にいるので、何か、日本すべての地震を統べるような、怪異、大ナマズらしいな。  wikiによれば、ビワコオオナマズという種が実際に存在する。(もしかしたら、ビワコオオナマズがいるということをきいて、それから飛躍させたお話?)
: 「小学校の3年か4年か5年頃、クラスで壁新聞をつくったとき、ぼくの班で、物語を書いたよう。さけやますの話だった。さけやますの子供たちが川をくだる(のぼる、だっけ?)お話。・・・」  大ナマズの話を書いたので、連想したもよう(さかのぼるあたり似てる)。
: 「宿題がおわらないと、何をせずに思いなやむ時よりは、無心になって勉強をする方が楽かも。」  何もせずに思いなやむよりは、のほうがすっきりしているが、すっきりしすぎて抵抗(リアル)がないかも。
: 「おじいさんの足をもんだ。ふくらはぎの所をもんでいたら、「そこ、そこ」という。ここをやればいいと思ってもんでたら、ここじゃないという。足の底、だそうだ。つまり、足のうら。・・・しかし、おじいさんのふくらはぎ、とってもやわらかく、細かった。」  そこ違いという話が、一転、しんみり。
: 「どういうわけか、「漁民」をりょうみんとよだんよ。ぎょみんなのに。」  まちがい、ってほどじゃないよ。テストではバツかもしれないけど。
: 「間尺 :かんじゃく× ましゃく○」  間尺に合わないはましゃくだが、けんじゃくと読む別語もあるらしい。
: 「残られる れる }??」  残られる、いまいち、耳に馴染まず。  敬語ならわかるけど、可能の意だとしたら違和感。  〔君、残れるかな?〕はすんなりだけど、〔君、残られるかな?〕は聞かないなあ・・  → 検索すると、残られるは、ラ行五段活用の動詞「残る」の未然形である「残ら」に、受身・尊敬・自発・可能の助動詞「れる」が付いた形。 という説明があったので、文法的にはありなのか。というか、残られるが正で、残れるが、ら抜き言葉になるのか?  → さらに調べると、残れるは、可能動詞であって、ら抜き言葉ではない、という説明も。  深間にはまりそう・・ 
: 「えんしょう ?延」  延焼?
: 「木と竹と紙の家。」  これって、だれか外国人の日本家屋についての言葉だったような。  ざっと検索したけど、その外国人を特定できるようなヒットはなしか。
: 「シュミレーション シビレーション シュビレーション }?」  あそんでる? というわけじゃないか。  シミュレーション(simulation)、でてこないよね、そう簡単には。
: 「「あったかいときにだけ、同じあるんなら(地震|が|に)きてもらいたい。」 (70年代われらの世界)」  NHK辺りの特集番組か。
: 「最初きいたとき、日本語として、変、というか、表わしたい意が正確な日本語で正確にでていない、というような気がした。」  ふーむ。とりあえず、今読むと、日本語としては変じゃないけどね。どういう流れの中の発言だったのか。  でも、阪神淡路大震災、東日本大震災を経た今となっては、日本人としては言ってはいけない禍言(まがごと)に思える。
: 「おこづかい15000」  「2学期からは、1日6時間勉強ですよ!! 学校のぞいて」  6時間、これはまあ、実現不能に近い目標だろうね。できたらいいな的な、願望。  おこづかい、というのは、月々という意味なら、当時1万5千円ももらっていたはずはない。ということは、手もとにある残金がこれだけ、みたいことだろうか。  ・・うーん、それならありそうだが、あとは、家業の職場の宿直、いちおうバイト代は出てたはず。そっち方面の臨時収入があるのでいつもより潤沢だったということかも。
: 「蔵六とは?」  亀だっけ?
: 「■下さんは、いくらかぼくに同情的だった。」 ・・・  以下長文で、同情的な(中学時代のクラスメート)■下嬢が、彼女の友人であるあの人(他クラスにいたwaka君の想い人)に働きかけたので、あの人は朝、ぼくに挨拶してくれたのでは、という気づきについて。  仮に、K嬢とする。ある朝登校時、後ろからwaka君を追いぬいたK嬢が、朝の挨拶をしてくれた、ということがあった。別クラスだし、ほとんど知りあいでもなかったので、waka君は少々驚く。何かの委員会で同席したことがあったかどうかぐらい。  で、以降、K嬢のことが気になるようになり、すらっとしてて美形だしで、あっさり惚れてしまった。  もう三年は前のこと。何の進展もないまま中学は卒業。高校は別々。(要するに、その日、朝の挨拶をしてくれた、というだけ。この恋は、waka君の内側のみで育まれていき、中学卒業とともに、長い下降線をたどっている)  それが今になって、あの朝の挨拶は実は、と裏事情を推測している。何か新事実が得られたということもなく、単に、■下嬢とK嬢が友人だったということを思いだして、これを軸にもしかしたらと妄想を広げている。
 ・・・ 「そこで、母性本能みたいのが働いたのだろう。それは、そうとして、彼女がもうすこしおせっかいをやきたかったら、ぼくに自信をつけさせたいと思ったろう。そして、彼女自身も、また彼女の友だちにたのんで、他の女性にも、ぼくに同情、もしくは自信づけをするようにしたかもしれない。 そして、■下さんの友だちの中には、あの人がいた。あの人の朝のあいさつは、■下さんに日頃、たのまれていたため、今がいい機会とやってくれたのではないか。」 ・・・  すごい、発展だな。もう数年前のこと、はっきりそうだともなんともわからない、■下嬢の心中を仮にそうだったとして論を進めているはずなのに、進めている内に論(妄想)にひっぱられてそうだったとしか思えなくなっていくような心境か。  夏休み最後、宿題どっさり残り、破綻ちらつく異常心理下で、心が安らぎを求めていたんだろうけど、それすら異様な方向へ、というところか・・
 ・・・ 「そのときも思わなかったし、今もおもっていないが、彼女は真険にぼくを好いてくれたのではなかろう、という感じがある。好いてくれていてくれ、と狂うほどに願う心は、奥の方にあるのだが、客観的な目で考えたとき、どうしても、そうとは信じられない。 彼女は好いている、いない・・・などのこまかいことというより、全体的にみて、ぼくは女にすかれない、というばくぜんとした見通しがいつも心の中でわかっているのだ。」 ・・・  いちおう、身の程はわかっている、と。(こんなへたれ)だから、現実でどうこうする勇気は起こらず、妄想世界が肥大するのかも。
 ・・・ 「あの時、ぼくが感じた明るい未来へのきざし。が、すぐ同時に明るい未来などないと否定しまったが、それでも、後につづくもののないきざしでも、そのきざし自体だけは、真実であったのでは、と、信じたくなる。」  純情だねえ。   エンピツで、「(して)? S49 10/3 」という補記あり。これは、13ヶ月後、読みなおしているときのそれでしょう。
 ・・・ 「ほんとに■下さんを通じて同情されていたとしたら。今までぼくがそんな、■下さんと彼女のつながりを考えあわせて、このことを考えていなかったのだから、こりゃまるで小説になる。」  「今までのぼくは、ロマンチックに考えていたわけではない。要は、彼女にはぼくに対する心がなかっただけだ。ただすなおにあいさつをしただけだ。と考え、これで、これなりに、すっきりした美しい絵ができていた。が、もし、同情というような感情が、彼女の中にあったなら、こちらには憎しみ、という感情もできるほど、ショックだ。」 ・・・  うーむ。妄想上の他人の感情に憎しみとか抱いては、あぶない人、入門編になってしまうぞ。
 ・・・ 「が、そういう同情がないようにも思う。むしろ、あるとすると、物語の筋としておもしろすぎる、まともすぎる。やはり、すっきりとした絵だったのではなかろうか。彼女には好ききらいの情はなく、ぼくは結果を明るい、とは思わないで、現在のきざしのようなものにもとびつかない。そういう図。」  ラストはすこし、クールダウンしてるか? 
 → (委員会というのは、風紀委員会ではなかったか。で、そこで、朝の挨拶をしっかりしましょう、とかの目標が決議された。  数日もしないある朝、K嬢が登校時、同じ風紀委員であるwaka君を見かけた。はずかしいけど、ちゃんと挨拶。元気よく。  裏事情があるのだとしたら、こういうことのほうが、可能性数倍ありそう。これが当たっていたら、どちらかといえば、むごいけどね・・)
: 「今フロの中でなげいたのだが、「八月九日の通話」はあまりに駄作であったように思えてしまった。ただ、かっこをつけただけのようちな作品。が、あの時のぼくの心を示しているのだから、今のぼくがとやかくいっても ―― しかし、悲しくなるほどみじめなような気もする。学校にいって、会長さんと将棋をやって、この事でも話し、自分をけなそうか。」  将棋仲間のワタ■■君のあだ名が、会長さん。(← 詳細は『1973/06/17 むだな勝ち星はなかったのだよ。』にあり)  「八月九日の通話」は文化祭で発売する文芸誌に掲載する作品。すでに入稿ずみで、もうどうしようもないはず。


当頁 2021/08/23(月) 〜