表紙
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1973/11

 














1973/11/02 などという模様
 
















1973/11/03 その途中で高い、いやな音がする。
 
















1973/11/05 というシャツのぬぎ方をこのごろするが、
 
















1973/11/08 というような感じの小説。
 














参考:額縁の絵(1973/08/06画)






1973/11/09 長い手ををぐるりとまわして、
 
















1973/11/11 ごめんください、ごめんください、
 
















1973/11/12 というような形。
 














1973/11/12 やっていないのに
 
















1973/11/13 やってる間から今まで
 














1973/11/14 左手と右手をくむと
 














1973/11/17 壁が間にあったけれど
 


















1973/11/18 宇宙人はこんなかたち。
 




























1973/11/19 旅行のしおり
 














1973/11/26 ひざがいたくなったのは、
 














1973/11/28 アパラチアの位置は?
 














1973/11/28 かっこよすぎ、というか、
 













画像 アップ
『1973/11/02 などという模様』 2022/09/05(月) 〜
『1973/11/03 その途中で高い、いやな音がする。』A、B 2022/09/12(月) 〜
『1973/11/05 というシャツのぬぎ方をこのごろするが、』 2022/09/19(月) 〜
2022/09/26(月) 〜
『1973/11/08 というような感じの小説。』A、B 2022/10/03(月) 〜
『1973/11/09 長い手ををぐるりとまわして、』 A、
参考:額縁の絵(1973/08/06画)
2022/10/10(月) 〜
2022/10/17(月) 〜
『1973/11/11 ごめんください、ごめんください、』A、B 2022/10/24(月) 〜
『1973/11/12 というような形。』 2022/10/31(月) 〜
2022/11/07(月) 〜
『1973/11/12 やっていないのに』 2022/11/14(月) 〜
『1973/11/13 やってる間から今まで』
2022/11/21(月) 〜
『1973/11/14 左手と右手をくむと』 2022/11/28(月) 〜
『1973/11/17 壁が間にあったけれど』 2022/12/05(月) 〜
『1973/11/18 宇宙人はこんなかたち。』
2022/12/12(月) 〜
2022/12/19(月) 〜
『1973/11/19 旅行のしおり』 00c、01〜03 2022/12/26(月) 〜
07〜10 2023/01/02(月) 〜
『1973/11/26 ひざがいたくなったのは、』 2023/01/09(月) 〜
『1973/11/28 アパラチアの位置は?』 2023/01/16(月) 〜
『1973/11/28 かっこよすぎ、というか、』

※ 『1973/11/02 などという模様』 : 「文学クラブノートの作  ・にきびのみならず、またずれも入れる??」  頁上辺エンピツ書きメモ。  爽やかではない「作」になるんだろうね。
: 「中宮とかこうとすると、すぐ「中宮」「中宮」「中宮」とかいてしまう。」  四つの宮は同じにみえて差がよくわからない。かろうじて、2字目中身はタロ、3字目中身はP口、4字目は官、のようにみえないこともない。  (中宮と書く機会はたいしてないと思うけど)
: 「翁を■とした。  貴公子を貴侯子とした。 )バカ」  ■は上が分、下が羽。  侯(候は別字)は、五爵(公侯伯子男)の二番目。公の次だし、とんでもない間違いってほどでもない?
: 《とげとげしい、氷の結晶のような、イラスト》  二番目のが立体的で、よく描けてるかも。  写生ではなく、ペン先まかせの遊びで生まれた線みたいだ。
: 「「今日やるとは、まるで知らなかった。」なのだが、「よも」は「まさか」という意味らしい。 すると、「今日やるとはまさかしらなかった。」となるが、こりゃ変。そこでと「まさか今日やるとはしらなかった。」と訳してはまちがい?」  うう? 元の「今日やるとはまさかしらなかった。」はべつに変じゃないよね。  ・・そうか、まさかがどの語にかかるか、で見るなら、今日が意外なら「まさか今日やるとはしらなかった。」が自然だし、やることが意外なら「今日まさかやるとはしらなかった。」が自然、という意識か。  この筋道でいくと、「今日やるとはまさかしらなかった。」は、しらなかった事が意外となって違和感、ということか。  ・・でも、だとしたら、気にしすぎ、繊細すぎ、だよ。もっとおおざっぱで良いんじゃない?
: 「このごろ、ここに書くために、昼めしどき、はしをはなしたり、くいつつ、将棋をさすなど、いろいろのとき、おはしをおかずに、ごはんにはしをさしておくこと多い。」  お行儀はわるいが(文も調っていないが)、場面が彷彿とする。
: 「不ゆかいだったというところを、ふかかいだったといった。」  不愉快、不可解、通じるところはあるがほぼ別物だな。
: 「英語、さがるとこまでさがったの感あり。」  テストの成績のことかもしれない。  もっと根本的な、英語の習熟度合についての自己採点とか、学習意欲とか、好感度とか、かもね。  英語がわからない、英語を解読してもつまらないことしか書かれていない、どうしてこんな面倒な(あらゆる段階で複雑怪奇、ときには矛盾もはなはだしい、何より覚える事が多すぎる、そんな得体の知れないどんよりしたでかぶつである)言語を習得しなければいけないのか。たまらなく理不尽。責め苦。  それぞれの国の人がそれぞれのお国言葉で楽しくやっているなら、それでいいんじゃない? とか(^^;;
: 《縦の波線が多数書かれている》  「〜〜〜 となるより、もどる所がかすれた方が、すこし、かっこいい。」  青ボールペンの出がちょっとわるくなって、はじめは、インクの出をためすための波線だったのではなかろうか。  試し書きしているうちに、波線群の姿に(リズムに、書き味に)面白味を感じてしまったよう。
: 「はじめ、ノ ナ 左としようとした。が、左は、一 ナ の順だと思って きづいて、このままかいてはいけないと思う。」  そこで、冒頭のような変則順に急遽直した、といいたいらしい。  冒頭で二画目として書いてしまった上部の横棒は急遽強引に下部のエの上の横棒としてかきつないだので、この変則順になった、と。 (その変則順の左という文字を、どこでかいたのかは不明ながら。授業ノートあたりなのか)  → わかるけど、わざわざこうして説明しておくというのは、おもしろいことをした、少なくとも特異なことをした、という自己認識があるからなんだろうな。  そしてたぶん、そういう種類の「認識」をしてしまったら、もう、このノートに書かざるをえない、という習癖もある。  これは、ほとんど、強迫症状と言える域に達している気がする。

※ 『1973/11/03 その途中で高い、いやな音がする。』 : 「ここ、一字はいるよゆうがある。」  この行(13字)、他の行(14字)より一字分少ない、という指摘だけど、三行目の冒頭が「る。」なので、普通の文字数にすると句点が行頭にきてしまう。それを調整しているってだけだね。
: 「今日、物理の時間、エンピツできれいな机の上に《顔の絵》というような絵を書いて、とてもきにいった。もちろん、これと、そっくり同じではないが。 ・・・ そしてあきらめるが、このとき、このままにして、だれかにみてもらって、たのしんでもらおうという心と、うつしたくてたまらないのにうつせないという、つまり、 けっして、よほどのことがないかぎり、保存できない美なのだ、そして、これがあるかぎり、むりとしりながら、保存する努力をしてしまうのだ。なら、これをなくして、むだな努力、めんどうをなくしちゃえ、という心の二つが内在していた。 そして、ぼくは発作的に、やっちぇえ、とばかり、けしごむで、きにいった絵をけしてしまった。人にその絵をぬすまれて、あたかもその人の作であるようにされるよりは、という考えが、ぼくを動した表面的な心。」  ついつい、ほとんどはずみで、狭量な心に負けてしまったんだね。  現代なら、スマホあたりで写真を撮っとくんだろうけど、当時は、よほどのことがないかぎり、保存できない美、だったのだ。
: 「11/3 す■■おばちゃんが、夕方、来るのでそれまでにカキを20コばかり、もいでおいて。」  頁上辺のエンピツ書きメモ。  母親あたりに言いつけられたか。  庭には柿の木があった。この時季だから、たくさん実が生っていたんでしょう。  (そしてこれが、家の者にとても人気のある果実というほどでもなく、熟れたままになっていることもままあった。 そこで、誰か客人が来るとなったら、ここぞとばかりに、持って行ってもらおうという算段をした。・・ということでしょう)
: 「射精を一回するごとににきびが1つ?・・・・まさかァ!!」  だすべきものをだせば、体内がスッキリしてバランスが平衡するはず。つまりむしろ、にきびなどの異常発現は減少方向となるのでは?
: 「ぼくが、■中にはいるとき、■■紀先生にたのんだのだそうだが、■■先生にはすでにせわするのが1人いて、だめで、ぼくを■■トミゾウ先生という人にたのんだのだそうだ。ぼくしらん先生だが。ところが、せいせきがまとなためせわなくてはいれたとか。というのがス■■おばちゃんの話なのだが。  ぼく思うに、せわなくてはいれたというとこはうそなのでは。あんなテスト、いい点がとれるわけなかったよ。しかし、真相を知りたいなあ。」  す■■おばちゃんちゃんは、よく、こういう裏話を聞かせてくれるんだよね。  (叔母ちゃんだけど、結婚前、一時、同じ部屋に寝起きしたりで、姉弟みたいところあったし)  ■■紀先生は、waka君の母親の従兄弟(よって、あ■■おばちゃん、す■■おばちゃんの従兄弟でもある)。  waka君の母親、あ■■おばちゃん、す■■おばちゃんは、姉妹。
: 「ま■■、り■、うち■のおばちゃんおじちゃん大阪より来る。」  うち■のおじちゃんが関西に転勤して、うち■一家があちらに住んでいた時期かと思う。  あ■■おばちゃんの姓名は、うち■あ■■。  あ■■おばちゃんの娘たちが、ま■■、り■。(waka君の従姉妹となる)
: 「 ・・・ しかし、やっぱり修学旅行の前にはやっておこう。まさか、あっちでできやしなかろうし、夢精なんてやったら恥。」  おろかしいようだけど、高校生男子、わりとこういう心配してるんでは、昔も今も(笑)
: 「 ・・・ とやって線をひくとき、その途中で高い、いやな音がする。」  この物差し(線引き)、たぶんプラスチック製だね。
: 「なんで外国語(orふつうの語)を話すのを表わす表現として、「ペラペラ」というのがある?」  なんでと言われても困る質問だけど、辞書などしらべても語源までは書いてない。  オノマトペ(擬声語および擬態語。擬音語)ということか。
: 「偶数の年、例えば、1972年はその半分の986年と同じような事がおこるとする。」  という、仮定(仮の設定)をしたはずなのに、終わりのほうでは、 「偶数年は運命とあきらめ、奇数年に創造しよう。」  などと、さも、新事実を開拓したような書きぶりになってます。  →  たられば土台の妄想。一つだけの(または限定的な)超常設定なら、物語のリアル感は維持できる、みたいなところが(ファンタジー創作のコツみたいものが)あるらしい。  本文は、その一つ手前の段階の(=洗練さがまだ足りない)妄説か。  →  まったく理屈に合わないんだけど、とりあえず、何か信じてみる。だったら、もしかしたら、で。ジンクスとか、いわしの頭とか、切り株とウサギとか、人はときどきすがったりするよね。  うーん、・・わからないときはとりあえず何かにすがってみる、たよってみる、というのが本能に組み込まれているんだろうな。そうすることによって、とりあえずフリーズせずに起動できる、絶望まではしない、ときには輝く光につつまれる、みたいな利点はあるわけだし。  神様とか宗教とかも、そうやって、ないはずのところから力を得ているわけだから、実はそこそこの機関(仕組、構造)になっている、太古はそこそこどころではなくもしかしたら人の主軸をまわすエンジンだったりした、ということかもしれないなあ。
: 「わたいれ、朝から、今(3:00)まで昼めし以外は皆着ていて、すわってトランプしてる。と、わたいれの重さのためか、肩重くなる。」  この綿入れ、寺■のおばさんがつくってくれた綿入れだね。display『1973/10/23 彼女も、けいかいの色を表わした。』参照。  さっそく、とりこになっているみたいだ、寒い季節にもなってきて。
: 「月のそばに1つ、東の空にだいだいのが1つ、明るい星。近視で、はっきりは見えないけど、つまり、まるで、散らばった光ではあるが、明るいことはわかる。」  「望遠鏡でみてみたいかんじ。みようか?」  望遠鏡は小学生のとき買ってもらった。ずっと使用していないが、部屋には三脚のが立っているはず。  綿入れの項から推測して、この項は夕方から夜に、書かれているはず。  東の空にある明るい星といっているが、金星、宵の明星なら、西の空のはず。  だいだい色。  となると、これはたぶん、火星かなあ・・   (天文に詳しい人なら、1973/11/03の夜空の、月、火星、金星の位置は、正確に割り出せるんだろうけど・・)  (月齢はネット検索でわりと簡単に判明する。この日は、ほぼ半月みたいだ)  ・・いや、月のそばの1つと、東の空のだいだいの1つは、別の星か!? (言い足しではなく並列で) となると、それぞれ金星と火星ってこと?
: 「中野良子は楽屋ではタバコスパスパ、ガラガラ声でひどいんだって。」  waka君の耳にはいった芸能界噂話、その一。  平賀源内のドラマ『天下御免』で紅さんを演じていて、お気に入りの女優さんだったはず。  『天下御免』は、1971年〜1972年の放映。一年前に終わっている。(wikiで詳細を見てみると、 山口崇、林隆三、中野良子、坂本九、仲谷昇、谷啓、三遊亭圓生、太地喜和子、ハナ肇、内海好江・・  そうそうたるキャストだ)
: 「まんざいでコンビをくんでるのはほとんど仲が悪いとよ。 てんやわんやはいいとか。」  waka君の耳にはいった芸能界噂話、その二。  てんやわんやは、獅子てんや・瀬戸わんやの漫才コンビ。坂上二郎の師匠。  どうも、おじちゃん、おばちゃんたちや従姉妹たちがやってきているらしいので、waka君の家族らといっしょに、夜テレビなど見て食事しながら、大人数でおしゃべりしているのでは。そういう場からの採録かも。前項とか本項とか。

※ 『1973/11/05 というシャツのぬぎ方をこのごろするが、』 : 「1−2 | 2ばかりもらって、がんばって、1。じつは逆  また、さげられた。フンキ。ガンバルトアガル(実はサガル)」  意味不明。  成績のことなのかな。5段階評価なら、5が最高、1が最低だが、本文では、1>2のような書きぶり。  じつは逆、実はサガル、がさらに謎なんだけど、通常の評価どおり、じつは1<2であって、ほんとうは、2ばかりもらってわざと手抜きすれば1、また評価が上がったので、さらに怠けよう、そう努めれば、サガル、というようなあまのじゃく君を想像していて、本文は彼の倒錯意識が書かせていたりする、って設定なのか?
: 「1つ忘れ」 「ときどき使う単語のごいのふかかい」  単語の語意の不可解について書こうと思ったが、その単語を忘れた、ってことか?
: 「音楽はすわってきくものじゃない。ねてきくものだ。 こしがいたくなって、そっちが気になってしまう。」  display『1973/10/26 右親指の上の方内出血。』の2頁目、上辺のエンビツ書きメモに、「11/5:音楽会 40分■授Hムルームなし.」とあるから、学校行事(?)でそれを聴いているか直後のメモと思われる。
: 「美人俳優は、楽屋うらでは、タバコスパスパ、ガラガラ声だという。だから、美人にみえる人の心中はわりと、つめたくみにくいことが多いのでは?」  『1973/11/03 その途中で高い、いやな音がする。』で既述の中野良子の噂話を受けているけど、偏見を元にした飛躍論法、でしょう、これは。  タバコを吸い、地声がきたないとしても、役者なんだから、舞台上できちんと役を演じているならプロとしてOKだよね。人として女性としてでも、タバコや声で人格まで決めつけるというのは偏見以外の何物でもないわ。  それに、美人て、いろいろ優遇されることが多いので(だから傲慢にみえることもあるだろうけど)だから苦労をあまり知らず、嫉妬心も少なく、おっとりして優しくすなおな性格になることが多いともいえるのでは。
: 「「サッカー Aがかつか、Bがかつか、かけよう。」C 「よし」D ・・・・・ 「おーい、Aがかったぞ、100円だせ。」C 「まだ正式発表がないからだめ。」D 「どうしても今いるんだ、たのむ。」C 「まあいいや。でも、ちがったらかえせよ。」D チャリーン。 ・・・・・・ 「おい、バカ。正式発表じゃ、Bがかったぞ。」D 「わかった、わかった。ほい、きのうの100円。」C 「ん。よし。」」  なるほど、これでは損得なしで、賭けに勝ったDが得をしていないね。小笑話になっているな。  よみおえて一瞬ポカンとしてから気づくという味が、おもしろい。たわいのないオチと言えばそれまででもある。
: 「次の一手、」  後手玉は入玉しているが、味方は歩が1枚しか残っていない。  出題意図はわからないではないが、局面が不自然すぎるでしょう。
: 「後手にもう勝ちはない。が、先手も勝たねばならぬ。さあ、どうする。」  「(答) ●7三馬で、勝ち。後手9九の玉はそれで動けぬ。 7三の歩をとらないと、王を動かさずとも、その歩を動かせばよい。」  将棋は一手パスができない。味方の駒が皆無となったので、玉を動かさねばならないが、動いても敵駒を取るのでもすべて敵駒が効いていて自殺行為だから、負け。  というわけだけど、入玉規定があるから、先手玉が悠々入玉してもいいわけで、すでに局面は後手必敗状態。  そもそも、こんな局面が実現するわけないわな。敵も協力してくれて、なれあいで作り上げなければありえない。  ふつうは、もっとかなり前の段階で、後手玉は詰まされているはず。  要するに、動かせる駒がないための敗北、という例外中の例外を現出させたかった。この一点なんだろうね。
: 「次の一手」  その二。  この局面も非常に特殊。トンデモ設定。
: 「一見、先手優勢とみえるが、実は先手の右上方の戦力はまったく身動きできぬ。王は三段目にはいって持将棋にもできない。そこで、このままでは、ひきわけになるが、先手の銀桂角がとられて、先手、手をさせなくなり、負けか。さあ、どうする。」  「解答 ●7七角○8八歩成●6六角まで。 これでもう、後手、何のこまも動かせぬ。」  たしかにそうだけど、これも一手パスができないがゆえの負けなんだけど、それよりも、身動きができない先手陣の大半とその中にはまりこんで入玉できない先手王という設定が、異常きわまりないな(^^;; これはもうお笑いの世界じゃない?  それに、先手の銀桂角のうち、二つは逃げ出せるから、先手が指す手がなくなって負ける、ということはないはず。しかしだからといって、解答手順でない手、例えば、2六角を先手が指した場合、8八歩成から駒を取って、後手も自由度が増し、互いに手はさせるけど、相手玉にせまることができず、といって相入玉も成立せず、引き分けとするしかないか。  よって、先手が勝つにはやはり、解答手順しかないのか。
: 「みじめ負けの図」  その三。  これもトンデモ局面。後手はもう玉一つ。先手は極限の優勢度なんだが・・
: 「先手王、三段目にはいれず、持将棋でない。 かつ、先手、駒が動かせぬので負け。 これが、後手、玉一つで相手の全軍に勝った図。」  「たとえ、王が一つでも勝てるのだ。世の中には、こういう大逆転がかならずありうるのだ。」  うーん、これも、飛躍論法だろうなあ。  これらのトンデモ局面、妄想世界の隠喩といわずしてなんというのか。つまり、リアルではこんな大逆転、妄想設定でしかありえないでしょう。
: 「日本はこのごろくだり坂にある? (ひまなくかけず 前からかきたかった。)」  「と、夢でかいたつもりで実はかいていなかった。」  何をもって下り坂というのか。  調べると、日本の高度成長期は1973年に終焉、ということだそうで、経済方面でいえばほぼ当たっている。  この年の第4次中東戦争、原油価格大幅引き上げ、狂乱物価、翌1974年は経済成長率がマイナスに転じる、という流れ。  今だからこうして俯瞰できるけど、時代の中にいる高校生waka君が感じとれたほど、世の中がはっきり下降しだしていたってことなんだね。  なお、1980年代バブル経済の、だいたい十年前でもある。
: 「今日の夢はおもろ。スポーツなんか多くでる。いちいちおもいだすのめんどう。  ささ■が、さやか王女の役をやったはいゆう(名を忘れてしまった、夢の中にでてきたのに)をたずね、ぼくは、ササ■が、中にはいった間、■■ケさんのうちをさがす。 ついに、俳優をこのめでみる、と思う。彼女のうちはそんなに、ぜいたくでなく、むしろボロ。  その他、とってもたくさんみたが思いだすのめんどう。」  ささ■は、中学時代の悪友。  ■■ケ嬢は、中学時代、他クラスにいたwaka君の想い人(K嬢)。  夢だから■■ケ嬢と女優さんがごっちゃになってしまったのか、彼女のうち、がどちらの家のことなのか、この文面でははっきりせず。  さやか王女、というのが、なんのことやら、だったんだけど、検索したらヒット。ほんと、すごいよね、インターネット!  Wikipedia、 〔『だから大好き!』(だからだいすき)は、講談社『少女フレンド』ほかに連載されていた、松永るりこによる日本の漫画作品。及び、国際放映・ユニオン映画の制作により、日本テレビ系列で放送されたテレビドラマ。 南太平洋の小さな島国、パール王国の王女・サヤカは、隣のダイヤ王国のブザマ国王から「王妃に迎えたい」と申し出され、結婚させられそうになったが、その結婚式の当日にサヤカは逃げ出し、貨物船に紛れて亡き母の祖国・日本へ向かう。  ・・・  テレビドラマ版は、1972年4月1日から同年7月1日まで放映。  ・・・  毎回、主演の岡崎友紀の歌による挿入歌があった。 ・・・ 〕  放映時期からいっても、これで間違いないな。女優は、岡崎友紀か。
: 「11/2のラストでためしたのは、今日で、やってしまった。が、一週間ぐらいだろ。」  『1973/11/03 その途中で高い、いやな音がする。』にある「ものはためし、しばらく射精をやめてみたらどうだろうか?」を受けているのでしょう。  一週間ぐらいはがまんしたけど、と。
: 「ぼくは自分がみにくいということを自覚しなきゃなあ。」  「やりすぎて、証拠を隠滅するときの醜い姿。 最初が外見的なみにくさ。次が内心的なみにくさ。」  青年男子なら、誰でも覚えのある心情だろうね。いわゆる、賢者タイム?
: 「その人にきらわれるのがいやだから、必要以上に近づきたくない。という考えはある。 が、こう逃げてばかりいては結局弱い心をもった男になるのでは? いくつものいやなことをのりこえて、強い、できるだけみんながしあわせになれるようにできる男になるべきなのでは? なにごともけいけん。」  一行目は女子相手のことみたいだが、しだいに大きめの話になってる。ちょっとかっこいい。
: 「(例) あ、いやなやつがきた。にげようか。いや、おれはこの道をいこうと思っていたんだ。 ・・・ 」  この例のA君は、小心者みたいだけど。
: 「ちきしょう ちくしょう」  語源的に、畜生が元、ちきしょうは変化でしょう。
: 「耳、遠くなった。 1mぐらいはなれた人の声ききにくい。」  難聴ってことはないはず。  たまたま相手がボソボソ声で話してたってだけではなかろうか。  (耳の感度の良いやつってのは、相手も同じぐらいだろうと思って自分の声が小さくなりがち。  逆に感度の悪いやつは、同じ理屈で、自分の声が大きくなりがち。  よって、ききにくい、うるさい、という行きちがいがおこりやすい。そういうこともあるのでは)
: 「右親指のいたみほぼとれる。」  display『1973/10/26 右親指の上の方内出血。』の、絵入りの記事のあれですな。
: 「底 底 }どっちでもいいような。」  一字目は下の横棒なし。  どっちでもいい、わけないよね(笑)  やっぱり文字の底に横棒があったほうが、底らしい!?
: 「舞踊 ?  舞踏」  舞踏会という語があるように、舞踏は、日本では舞踊と同義、または西洋ダンスのことなんだが、 Wikipediaには〔暗黒舞踏(あんこくぶとう)は、日本の舞踊家土方巽を中心に形成された前衛舞踊の様式で、前衛芸術の一つ。日本国外では単にButoh(ブトー)と呼ばれ、日本独自の伝統と前衛を混合したダンスのスタイルとして認知されている。〕 とあり、世界ではちょっとちがってしまうようだ。
: 「この前の連休、何も勉強せずにあそんだが、おわりに、「まあ、いいや、心ゆくまであそべたんだからくいはない」と考え、そう感じた。  これは、おれが、勉強からはなれていることを示す??」  ちょっぴり大人になったことを示していると思う。ちょっぴり視野が広くなったといってもいい。
: 「テスト7教科のうち4つが、赤点。どーする。」  やっちゃったね。  半分以上とはひどいね、こまったね。  display『1973/10/26 右親指の上の方内出血。』に載っているテスト時の予想は、「現国45点。化学30点。α40点。世界史22点。英語15点。物理15点。古典35点。」  (もちろん満点は100点) 40点以下が赤点。 結果もこんなもんだったんでしょう。  文化祭ではりきりすぎたか・・ (勉学そっちのけ、かつ、事後に虚脱? というのは、おおげさ?)
: 「由よし :形式名詞? むね?」  むね(旨)も? といいたいのでしょう。
: 「よしあし  文語性が残っている?」  文語調、文語体、という言葉は一般的だけど、文語性はwaka君の造語っぽい。  辞書などしらべると、とくに、あし(悪し)の残存している例の一つということになるみたいだ。  ちなみに、中古には「よし・よろし・わろし(わるし)・あし」と四段階の評価があった、とか。
: 「らくだいしたくないよう。  赤点ばっかりだよう。  英語の時間、休んでいる西■の席の上にさしかけの将棋おいといたら、■野にいやみをいわれたよ。  ■野「このクラスはこれわかんないの。いやあな感じをするかもしれないが、あっちのクラスでは(答えが)でたよ。・・・・(まどぎわによって)それに、あっちのクラスには将棋はなかったね。」  つまり、はクラスに恥をかかせたと同時に、■野に(■野はぼくの将棋であることを知っていたろう)ケイベツされ、きらわれたよう。■野は人を落第させるのが好きなんだよう。落第はその人にとって、いいと思ってるんだよう。もし、最終的に赤点をとったとき、■野は、かわいそうだからといわずに、「あの(将棋ばかりさしてあそんでいる)■■なら、おとしましょう。」というかも、いや、たぶんいうよう。やだあ。」  爆。  そりゃまずいよ。将棋出しっ放しはまずい。常識的にいって、失礼だよね。  しかし、本文、どこかとぼけた味があって、たのしい(^^)  西■君はクラスメート。(中学からの友人のお西とは別人)  ■野は英語教師。waka君とはソリが合わなかった気もするが、翌年高三時のwaka君のクラスの担任になってしまう。
: 「なぜ、運働会は雨がふるともうやらなくて、マラソンは、雨がふると、えんきになる。マラソンも、もし雨がふったら、やめにしちまえ。」  display『1973/04/16 高校生活で灰色なのは』でも、「高校生活で灰色なのは、マラソンの時だけだ。」と書いている。
: 「セレクションを「キリカエ」と考えてしまったよ。」  セレクション(selection) :選択すること。  切り替えること、といえなくもないような。テストや授業で答えるときは、×になるのかしらん。
: 「田■先生は古典落語が好きだとか。」  国語科の先生。文学クラブの顧問(ほぼ何もしない、いちおうの)でもある。 (田■先生は高一時のクラス担任でもあった。この時期、高二時の担任は国語科の坂■先生。高三時担任が上の通り■野先生。・・だったはず)
: 「「たのじ」とは?」  色々あるだろうけど、基本的に、田の字、と当てるんでしょうね。  人の名前関係だったり、田の字に似た形や配列をいったり。  辞書(精選版日本国語大辞典 (C) SHOGAKUKAN Inc.2006)を見ると、〔(蔵にしまう時に掛ける十文字の紐の形が「田」の字に見えるところから) 質物のこと。〕をいったりもするそうだ。
: 「かぜにふかれたおちばがほおにあたる 「おちばとはいたきものかな」 しかし、そのいたさも、つめたい風がわからなくしてしまう。」  waka君、ときどきへんなことをつぶやくよね。変な、というか、こういう、こっぱずかしいことを。  まあ、waka君の文章とは匂いがだいぶちがうから、誰かどこかからの引用借用かもしれないが、前項の人の恋路〜はあまりに有名だけどこっちはそういうこともなさそうなので(オリジナルではないと)言い切れないところがある。
: 「きじゅつ式のテスト。たんなる暗記テストでは、その人の個性、真の価値がわからぬから、と、きじゅつ式にしたのだろうが、今のままでは、暗記テストよいひどい。 暗記テストなら、あまり、細部にはわたらないので細かい、深い所は、まったく個人の自由な性質にまかせられていた。が、今のきじゅつ式は、その答えが一つしか用意されていない。そこで、その答えに合わないとだめ。独特な答えは皆ばつ。暗記テストでは、細かい所がでないため、そこが評価されぬかわりに、批判もされなかった。 しかし、きじゅつ式によって、その人の細かい所をだすと批判される。ということは、その人の個性、自由をみとめるかわりに、その人の細かく深い所まで、規制し、みなを一定の人格しかもてない人間にしていってしまう。(もちろん、ばつをつけられて、はいそうですか、という人は少なかろうが、しだいにそうされていってしまう。)   もっと個々の個性を尊重しろ。」  いいたいことはよくわかるぞ。(赤点君の言ってることだけど)  記述式で人の個性が発揮されやすくなるのはいいのだけど、点や優劣をつけねばならぬというテストの宿命があって、×をつけられた個性は萎縮していってしまうだろう、そもそも個性に×がつけられるのか、などといいたいんだよね。  じゃあ、暗記問題ばかりがいいのか、そうでないならどうしたらいいのか、という発展、対案、次のことは、主張されていない。  文句はつけられる、改善する方法はわからない、いえない、ということだから、文句をいわれたほうも聞いておくだけは聞いておく、ということになるよね。  一言で言って、片手落ちだけど、どうせ赤点君、優等生みたいな模範提言までしようと無理しなくていいわな。声をだしたり圧をかけるだけでも意味はあるだろうし。  実際、難しい問題か。最近でも、大学入試の共通テストに記述式を導入しようとして挫折したようなことを新聞で読んだ。

※ 『1973/11/08 というような感じの小説。』 : 「日本の近代小説 ¥180 }母よりもらえ  もらった!!」  頁上辺のエンピツ書きメモ。  この値段だと「日本の近代小説」というタイトルの文庫本か。  文房具とか教材とかは小遣いとは別に母よりお金がもらえたので、そういうことにして買ったのでは。  → 今検索してみると、「日本の近代小説 (岩波新書) 中村 光夫」というのがヒット。これかなあ・・ 
: 「カナメチョウ イナゲ ドボク  ナイ■■先輩にリレーの事。」  頁上辺のエンピツ書きメモ。  これは運動会関連と思われる。  waka君の高校にはもちろん校庭はあったんだけど、運動会とかクロスカントリー(waka君はマラソン大会と呼んでいる)とかは他所の施設を借りることが多かったような。  運動会は、天台の辺りにあった運動場で開催されたはず。(現在そこは、千葉県スポーツセンターといわれているようだ)  で、要町からバスにのって稲毛方面に向かう、というような、行き方のメモだろう、たぶん。(当時、まだモノレールはない)  そして、将棋同好会のナイ■■先輩に相談とか連絡、報告すべきなのは、クラブ対抗リレーのことについて、と思う。これは本文に詳細あり。
: 「たとえ、どんなにさむくても、あたためるのは、はらから上(orこしから上。) 足はズボン1枚でハダシであれ。   今、青いズボン、くつしたなしのはだし。パンツ。半そでシャツ。黄のワイシャツ。ねずみのセーター。濃緑のマフラー。うす茶のジャンパー。きもちいいうす茶のわたいれです。」  11月頭だから、まだ冬じゃないよね。せいぜい晩秋で、上が5枚+マフラーかい! ちょっと寒がりすぎなんじゃないの。半世紀後、じいさんになってるけど、真冬でもせいぜい4枚だよ。  きもちいいうす茶のわたいれ、というのが、寺■のおばさんから贈られた一品でしょう。  下を薄着にして、冬でもはだし、というのは、今も継続してる。
: 《左右の手を打ち合わせる絵図》  「左のように、左手を定めて、右手で上から左手をたたいて、音をだす。 ・・・ 」  拍手(かしわで、はくしゅ)の各種の方法を記し、どのぐらいあるか並べているんだろうけど、手の平どうしでなく、手の平と手の甲、手の甲どうしを打ち合わせるって、ほぼ無いのでは? 痛いよ。  手の平を打ち合わせるのが一番ふつう、かつ、自然な動作でしょ。  図のように、片手を動かさずに、これをもう片方でたたく、というのは、中国共産党の何とか大会なんかでやってる拍手の型ではなかったか、よくテレビで映る。
: 「今日の昼間、ながらくフロにはいらぬので、フケが、頭からいくつも顔をのぞかせているのではと不安がり、不快がり、自己嫌悪。自分がきたないもののように思え、そして、きたないものにだって、まごころやあこがれがあるんだと考える。  夜、フロにはいり、今に至る。」  たのむよ、きたないものにだってといきがるぐらいなら、おっくうがらずに風呂にはいってくれよ。(^^;   waka君は基本的に、オシャレとか身ぎれいとかからは遠いやつだったね。どうでもいいぐらいに考えていたと思う。  それでいて、気になる女子の前でははにかんだりする。当時でも今でも、不潔なやつはもてないと思うんだけどね・・
: 「あしたはうんどうかい。しかし、雨なら授業。予習していないけど、今はゆっくりやすんで、平和な夢をみよう。」  直後に日付が変わっている。運動会は11/8(木)開催ということだな。
: 「女は男が自分にあまえていることがわかっているので、男がどんなににくらしいことをいっても、かわいく思い、どんなにわがままでも、真意を知って、つつんでしまう。そして、けんしん的に他に仕える。たとえ、自分の苦になっても、自分は自分にあまえている人を保護しているのだ、という感があるので、苦もたのしみにつながる。姉きは、こんな一面をもってる??」  と、想像、推量している弟君。  姉の自分に対する態度、様子から、姉は男一般にもそういう関わりをしやすいのでは、さらに姉に限らず女一般はそうなのでは、とどんどん広げているような。  拡大解釈しすぎな気もするが、的を射ているところもありそう。
: 「シマ■ タド }ラクダイをよくさせるべきだ、と考える。 ■■ノはラクダイ賛成者でなかった?」  『1973/11/05 というシャツのぬぎ方をこのごろするが、』にあるとおり「■野は人を落第させるのが好きなんだよう。」と思っていたが、どうもちがうようだ、と。  シマ■先生やタド(田■先生)のほうがそう考えているみたいだ、と。  ・・等々、先生に訊けるもんでもないだろうから、うわさを聞いたり、集めたりしてるのかな。  赤点をとっちゃったものはもう動かせないので、あとは実際に厳格に適用されるかどうかの情報集め、吟味というわけか。とはいえ、かなりの高確率で落第させる先生だと判明したところで、waka君側にからめてからの作戦があるわけではないのにね。(せいぜい、宣告を受ける前に覚悟ができる、ぐらいか)  正攻法ならば、(現状はまだ中間テストでの赤点だから)期末テストで点を稼いで平均点を上げるしかないわな。
: 「おかあさんよく、みっちゃんのことおこる。「よこはまのおばあさんばかりにやらせて。」  おじいさんもよくみっちゃんをおこる。「何時間かかるんだ。」  みっちゃん、静かで、ゆっくりのろいから、おじいさんやお母さんとはずいぶんちゃう。」  お手伝いさんのみっちゃん。  おっとりしてるんだよね。しすぎているから、気むずかしいwaka君の祖父や、いろいろきっちりしているwaka君の母親なんかは、いらついてしまう。  waka君は、叱られるみっちゃんをかわいそうとは思いながら、これだけ人柄に落差があるからもうしょうがないよね、とあきらめ気味。  (waka君が児童の頃からみっちゃんは家にいた。たくさんお世話になって育ちあがったわけなので、内心は同情してるけれど、表だって擁護したり味方をすることまではしていない。・・傍観しているwaka君の人柄は、冷めているほう。青年期はとくに。そういう祖父や母の血を受け継いでいるしね)
: 「[ことかいて、ことかく]  お母さんはよく、「言うにことかいて、〜〜」というが、このことかいての意は?」  → 〔こと【事】 を 欠(か)く (多く「…にことをかく」の形で用いる)(1) それがなくて不自由する。不足する。事欠く。(2) (上に述べることを受けて) 他に適当なことがあるのに、よりによってわざわざそんなことをしたり言ったりする、そのことに非難の意を込めていう場合が多い。事欠く。事をかえる。精選版日本国語大辞典 (C) SHOGAKUKAN Inc.2006〕
: 「今日、運働会のサッカーの試合についにこうたいででられなくて、「とうとう何にもでないことになった。」といったら、シンペイが「じゃ、三人四脚にでたら。」といったとき、ぼくが、「ことかいてまででたくない。」と冗談半分にいった。このとき、「ことかいて」の意は何なのだ?? われながら、いってから、あれ、と思う。」  なにかちがうわ、たしかに。  三人四脚の本来の参加者に交替してもらってまででたくないよ、と言いたかったんだよね。  他に適当な人がいるのに、ということだから、本来の意味に通じるところはあるにはあるんだけどやっぱりピッタリとはちがう。  それにしても、運動会会場に行っているのに、参加種目なし、応援だけ、というのはさびしい・・ 運動苦手で、選手として期待されていないとしても。  (そうだ。かなりの疎外、必要とされていない、孤独にはまってしまった、なさけない、みっともない、こころぼそい、という遠い記憶。感覚がよみがえってきた。たぶんこのときのだよ)  シンペイは、すでに何度か登場しているシン■■と同一人。
: 「[かいらい]  かいらい、とはあやつり人形という意のはずだが、今日、ぼくはちゃう意につかっていた。  せんぱいが、将棋同好会が、クラブ対抗リレーにでた結果をききに、きたとき、「(6人のうち)一人だけ同好会員であとはカイライみたいのばっかりです」なんていったのだよ。「3位でした。」  ――― しかし、カイライの意をぼくは、「真でない」「他から来た」などととっていた、いるようだ。  ほんとうにそうなんじゃないの?」  あやつり人形というのは、善意で代わりに走ってくれているのに失礼、やはり不適だよね。「(6人のうち)一人だけ同好会員であとは助っ人みたいのばっかりです」とでも言うべきだった。  にしても、5人もよく助っ人してくれたね。waka君がたのんだ、というより、後輩一年生のだれかが人望があって活きのいいのがあつまった、とかじゃなかったかな。ほとんど記憶残ってないけど。(それにルール的なものも相当ゆるゆるだったんだろうね)
: 「青のボールペン、インクなくなっちゃたよお。」  ということで、前々項途中から、緑のボールペン。だいぶ薄いなあ。
: 「頭がよかろうとわるかろうと、ほとんどの運働がまるでダメというのは、カタワに近い?   今日の体育祭、結局、何の種目にも出なかった。つまりは、必要とされなかった。自分のカタワ性を思い知る。」  落ち込んでます。  とくに障害や持病があるわけではなく五体満足。走るのは遅くても歩くのは好きだし、勤務においても体力的な不足ほぼ無し。何十年も大病無し。  高校時の体育祭で、そういうことだったとしても、結局、困ることなんか何もなかったよ。  むしろ、平均より数段、丈夫なぐらいだよ。  もちろん、運動選手とかには不適だったと思うが、それがなに? ほとんどの大人は、観戦して手をたたく側じゃんね。  それ、落ち込みすぎだから。  
: 「はじめは細く孤独な青年の線、そして、その線がはなやかに、ふくざつにひろがる彼の家族友だちの線とまざって、それらが、一どきにパッと展開され、そして、 しだいにまじりあった線がほぐれて、いくつもの細い孤独な線にわかれていく、という小説。  《 図示 》 というような感じの小説。」  全体の、かなり粗っぽい構想。筋ではなく、題材でもなく、登場人物たちの粗密による物語のラフスケッチ。  わかる。これで実際に物語が書ける場合はあんまりないのかもしれないけれど、創りあげたい作品の手触り、手にもった感触みたいものは、わかる。  小説、物語の創造において、こういう願望、こういう欲しがり方、waka君はよく夢想したよね。  (登場人物の粗密、とかだけでなく、なにか、物体とか工芸品とか、手にもてる品物みたい捉え方で、物語や小説を夢想するの、waka君の癖のひとつ。 これは、物書きに適した願望の持ち方とはちがって、なにか別の芸術の願望なのかもしれない。その通り、工芸とか、絵画とか、または舞踊とか、実はそっち方面の嗜好なのに、文章作品でなければならないようなねじれがwaka君にはあったのかもしれない)
: 「奴隷解放令  :今までタブーとされていた奴隷(制度)を公正なものとし、おおいにみとめる、というおふれ。   ※「奴隷解放」という言葉の中には、奴隷がおおいにはなたれ、ひろがる、つまり、奴隷のプラスの存在性がふくまれている。つまりは、奴隷の存在をみとめ、奴隷をいっさいみとめない の存在をみとめない )というひびきがない。   つまり、奴隷解放の前までは、  (1) 奴隷というものがあり、それがこきつかわれるのはあたりまえとされていた。  (2) 奴隷というものは悪とされ、人を奴隷的にあつかう事は悪であったが、人は、こきつかっている人を、奴隷とはみとめず、つまり、奴隷という名はつけなかった? 奴隷となづけられてないならば悪でなかった?   のどっち??」  あまのじゃく的な字義解釈に気づき、それが否定されない(そういう設定が成立する)現実とはどういうものかな、と吟味している風。  高校生waka君はまだ、身をもって体験はしていないけど、こうしてお気軽に言葉遊びをしているけど、現代においても社畜とか下請けとか非正規とかいう半奴隷がたくさんいて、どう言い訳しても結局は搾取されていて、それが夢物語でも設定でもないことを遠くない将来あきるほど知ることになるわけだ。  こちらからながめると、高校生のころのwaka君の世界のほうが、夢まぼろしのようだよ。
: 「11/8〜11/8」  11/8〜11/9、のまちがいでしょう。

※ 『1973/11/09 長い手ををぐるりとまわして、』 : 「心に、悪(マイナス)のある人は、そんなつもりがひとつもなくても、言葉の中に、悪(マイナス)がのぞく?  表面的な理解では、なんでもなくても、アイロニカルに、アンユ的などというようにに他人が理解すると、その人の言葉が悪に思えることがあり、こういうとき、その人は、悪(マイナス)をいったつもりはないのだが、自分の心の中の悪(マイナス)を、みせてしまう?」  わかりづらい事柄をわかりづらい言葉で解説しているって感じだ。  日頃の行ないで、マイナスを感じさせてしまっていれば、こういうこと(悪意ありと誤解されるようなこと)(内心の悪は微塵も出していないはずなのに悪意のある言葉だと思われるようなこと)、ありがちかもね。
: 「「〜くる」が「〜く」に当然なったと思うのはのは、「〜く」がより真をあらわたすためでなく、「〜く」になれているためだ。」  「聞くる 下二段? と聞く、のようなの  しらべよ、」  わかりません。  現役高校生が書いていることなので、まともなことを言っているのでは、と思うんだけど・・  聞くる、現代語でも古語でもこんなのなさそうだよね・・  古文の勉強をやりなおさないと、本項の意味も、真偽についても、何か言えそうにありません。現在の私の力では。
: 「他人にかわいそうにといわれて、泣いてしまう人間などいようか。  おこるのでは?」  いないことはないのでは。  つらくかなしいとき、同情し包み込んでくれる人にたよって、さめざめと泣く。  ありでしょう。  ここぞとばかりに同情をひこうと泣く。  というのもありか。  逆にいえば、どうして怒るのよ。  自分はかわいそうなんかじゃない、と、反発するってことか。  あなたはかわいそうな人(困った人、欠落した人、劣った人)と言われるってことはほぼ、いじめとかいやがらせになるわけだ。  いじめられて、怒る人もいれば泣く人もいるか。  整理すると、かわいそうにという言葉が、善意で発せられたか、悪意で発せられたかによって、真逆の意味になるんだ。  わりと、取り扱い注意ってことだね。
: 「母親で オヤユビ とよむ?」  読まないと思うぞ・・  でも、拇指、母指なら、親指の意。  (よって、母指と書いてあるのに、思い込みで母親と書いてあるとしか見えない、そういう錯視が絡んでいるのもしれないな)
: 「拇印 :ボイン?  母卯 マチガイ?」  母卯は、母印のつもりでしょうね。  正しい用語は拇印なんだろうけど、とりあえず母印とかく人(意味が通じればよしで)、多そうだ。
: 「辞書忘れると、ぼく、ワをかけて無力。」  手元に辞書がないと、前項や前々項もはっきりできないし、輪を掛けてもかけないや、と?
: 「バスにのるとき、整理券を2枚とり、ふつうにバスからおりて、のこった一枚を、あとで活用する。」  そうすれば不正乗車ができてお得では、ということかな。  犯罪と節約はちがうぞ、あかんぞ。  (うーん、それで得ができる不正乗車などあるだろうか? 往復の場合、往路で得た余計な一枚を復路で使い、目的の停留所そばでおりると短距離の乗車料金で済む、とか? しかし、さあ、自宅近くから乗車しているわけで、復路でその自宅近くの停留所で降りたら、変になってしまうよ。その停留所で得たはずの整理券でおりるのでは距離が短いどころか0になってしまう。で、多少離れた所でおりては、歩かねばならず。復路なので、まだ停まっていない停留所の整理券を出すことになったり。  そもそも、不正乗車のスキがあるなら、バス会社も対策しているはずで、結局、危ない橋を渡るぐらいなら、やめたほうが無難でしょう、お金に非常に困っているわけでもないのだろうし)  (だよね。それにバスみたいせいぜい十数人の乗客の場合、整理券がどうの以前に、運転手(または車掌に)どこから乗ってきた客かぐらい、だいたい覚えられているわけだから、あれ、おかしい、と思われるでしょう、ほぼ間違いなく)  waka君も悪事ができるスキがあるかも、と考えた程度で、実際にはしていない、する気もなかった、とは思うけど。  (そういえば、しかし、通学定期を使った国鉄のキセル乗車は、中学時代、やってしまったことがあるな、たしか。秋葉原にラジオ部品とか買いにいった帰りとか。ほとんど、節約程度のつもりで。(友だちもやってるし、だれもがやってると思うし、と、敷居は低かった。現在よりはるかに。こちらの心の敷居もそうだし、国鉄側もなかばあきらめているようなところがあった気がする) 申し訳ありません)  中一の時はバス通学で、このときのバスは循環バスで市内をぐるぐる回っていた。どこから乗ってもどこでおりても同一料金。ならば、と、通学定期で、一周半とかしたことがあった。  あれは不正になるのかな? 通学定期に乗降の停留所が記載されていれば、厳密には不正になるのかもしれないけど、記載されていなかったら、取り締まれないとか、全然OK、だったりしたのかも。  (ちなみに、バス通学だと駅で友人らと別れなければならないのがさびしくて、中二から電車通学にしたんだよね。まだまだ子供っぽいところがあった)
: 「せっかい せかい」  うーん、よくわからないけど、次項もあるので、世界地図をみてるか。
: 「なぜ、地図の日本の所が赤いの?」  素朴な疑問。意外と謎深いかも。  日本で、日本を赤くぬるのは、国旗が日ノ丸だから、なんとなく赤なのでは、赤が一番適当では、などと思われたようなところもあったのでは?  それはそれとして、日本を赤く塗るような慣習が、日本の地図製作の業界には昔からあるのかもね。(赤くないと、おかしいと文句いわれたりとか?)  (自国を赤くぬるのが、世界の標準ルール、なんてことはないと思うけど・・)  (検索しても、適切な答えが見つからん)
: 「言 :ごんべんのつくものは多いか?  だから、言=|としてしまっていいい?」  筆記体において、という意味でしょう。世間的にどうか知らないけど、waka君の筆記体ではもうほぼ常態化しているかも。まっすぐの縦棒でなく、ちょっと波線ぽいものだけど。  (といいながら、この頁で探したら、右領域の中に、訂の字か二つあるが、ちゃんと言と書いてあった)  (すぐ前の『1973/11/08 というような感じの小説。』でさがすと、小説の説(数ヶ所)、保護の護は、縦棒化していた。試合の試は微妙。冗談の談は言のまま。字にもよるのかしらん)
: 「事情  事状 なぜこれはいけない?」  事の状態、状況、ということだから、意味的に全然問題ないんだけど、使われないし、まちがいとされるのは、ひとえに慣習ということだろうか。  それも、現代の慣習みたいだ。辞書で「事情」を見ると、 〔明六雑誌‐三八号(1875)転換蝶ホ説〈阪谷素〉「其意を知らずと雖も事状遠からざる者あり」 精選版日本国語大辞典 (C) SHOGAKUKAN Inc.2006〕 という用例紹介をしているので、昔は事状もありだったということでしょ。
: 「めがしらの下のにきびは、この前のアサのちじょくによりでけた?」  『1973/11/03 その途中で高い、いやな音がする。』にある「射精を一回するごとににきびが1つ?・・・・まさかァ!!」をふまえていそうだ。
: 「せい火台に火をつけるときは風向きを考えてつけるのだそうだ。東風のときせい火台の西側から火をつけると、つけた人が火をかぶってしまう。」  そりゃ道理だが、だれがこんなことを教えてくれたのか。テレビ? 
: 「おごめん  おっ、ごめん」  御御免、というような語を浮かべている?  「もーしかしたら もしかしたら」「せっかい せかい」などとシリーズ化してる!?
: 「きょうつける、きょうつけ  きをつける、きおつけ きをつけ  }?」  小学校の頃、きょおつけっ、というふうにしか聞こえなかった。
: 「タ■■さんは、平和でほがらかな顔をしているなあ。」  笑。  そうなんだよね、ふくよかな、観音様みたいな。  本文はほめてるんだけど、本人が聞いたら、女の子としてよろこんだかどうか。
: 「ヨクイウヨ イウナア  ユワナア」  すべて同じだけど、だんだん丸められていく合いの手?
: 「どうも今日はマイナスの言葉がようでる。  暗い道で向こうからライトとクルマ。でんしんばしらのそばにかくれながら、ぼくは、「死んで」と言う。まるで考えずに習慣的に。この場合、車に死んで、といったのでなく、いっしゅのかけごえだから、つまりはぼくに発したもの。ぼくはあわてて、「うそ、うそ、死ぬな。」しばらくして「ぜったい死ぬな。」  うちにかえって、ぼくが書いた女の子のえのがくぶちにはいたのをみて、「やっぱりきもちわるい」といってから、「うそうそ、」と訂正。きもちわるいなんていうと、なんかその絵にほんとにおそろしくフクシュウされるような感じ。」  この絵、今もあるその額縁の、中にしまってある。  とりだしてスキャンしてみた(画像はすぐ次)。裏面に 1973.8.6.の日付があるので、本項の三ヶ月ほど前のものだった。  これは覚えているが、黒ボールペンでまず自画像を描いていて、そのうち、髪の毛をおかっぱ風に増やしていくうちに女子の顔みたくなったもの。  つまり元は自画像(男顔)だったから、女子としては気持わるいといえば言えなくもない。他人が観賞すれば、美人とはいわないまでも、髪は剛毛そうだけど、調った顔立ちの女子と思うかもね。  (なお、今、この額縁の一番前面になっている絵は、外国の画家の作の複写で、新聞の折り込み広告か新聞社の特集別刷りの切り抜きかの、少女像。題名は「ウクライナの少女」と記憶している)
: 「インフルエンザの注射をしたところ、コブタンみたい。  この字かけなかった。」  ほう。高校で予防注射なんかしたんだ。  頁上辺のエンピツ書きに、フロハイルナ、という記載がみえる。この注射の関係かも。
: 「こんどから、この心記の名を、「ひらがな日記」とする?」  あまりに漢字が書けない自らを皮肉って思いついたか。  でも、今からながめると、わりと佳名かもね。採用はされなかったようだけど。
: 「暗合」  暗号は別語なんだよね。
: 「女は離婚したら、もとのみょうじにもどるの?」  調べたら、婚姻によって氏を改めた人は、離婚をする際に旧姓に戻ることも、そのままの氏を名乗ることもできる、のだそうだ。  (現在だと、本文のように、女は、と書くと差別とかいわれそう。当時はこういう男女のあつかいの差、waka君だけでなく人々の無意識層に蔓延していたと思う。現在、そういうものはすっかり無くなったかといえばそうでもないと思うけどね)  (2項後の消費者運働〜でもそのケが濃厚)
: 「消費者運働というのは、労働者と資本家の対立なのだろうか。金をかせぐ男と、ものを買う女の対立のようにみえる。つまり、夫と妻が、直接対立するのでなく、せなかあわせになって、長い手ををぐるりとまわして、対立するようなかんじ。」  図解。  ユニークな見立て。絵もかわいい。  (やはり運動を運働と書く癖は直らないみたいだ。それとも当時はこう書く人も少なからずいたのかなあ)  (手元漢和辞典を見ると、働は国字だそうだから、漢籍に典拠はないようだ)
: 「椎名 :しいな おな }?」  椎のよみは、ツイ、スイ、つち、しい、だから、お、は無いな。推すにつられたか。
: 「礎石という字をみると、一瞬、漱石とよんでしまう。」  ビルの一階なんかでみかける。
: 「分に安んじない、とは?」  分相応と満足する、というようなことはしない、ということか。  身の程を知って、はみださない、というようなチマチマした生き方はいやじゃ、と(笑)  ちなみに、検索したら、チマチマ側で、安分守己(あんぶんしゅき)、知足安分(ちそくあんぶん)などの四字熟語があるそうだ。
: 「今日のバレーボールをみて、高■すみ■さんが|ほんとに|とても|きれいに思えた。白さの美。タ■■さんは、あたたかい平和の美。」  女子高生をめでております。  (うらやましいことに、waka君も高校生かつクラスメート。変質者でも犯罪でもないのです)
: 「とにもかくにも、平和に静かな心持ちで、安らかに生きたいものだ。 ときにははげしい事を望むこともあるが、ぼくみたいのが、はげしいことをやっても、恥をかくか、力足らずかのどちらかと思い定め、欲をださずに、静かに安らかに生きよう。 まわりがそうさせないかもしれないけれど、なるべく、まわりにめいわくのかからぬ程度に、自分でできるぐらいだけ、平和さ静けさを受け入れよう。」  ほぼ何も言ってないような、小文かも。  言っていないからこそ、言っている? 平穏なひととき、みたいものを?  (人によっては真逆の渦中なんてこともありえるが、waka君はあまり反語的な文章はかかないし、雰囲気は裏表なく穏やかそうだし)
: 「フツフツと闘志の炎が、」  沸沸とかくらしい。
: 「さっき足のつめをきろうとしたら、体をまげて、きるのが、つらかった。くるしかった。ふとりすぎ?」  「どうもふとりすぎでいけない。なるべくしぼうをへらそう。長生きしいたいもんね。」  waka君に限らないのかもしれないが、体重と身長がどちらも徐々に増長していく、という成長の仕方はしていなかったような気がする。  体重が増えるときは身長が止まり(横に成長)、体重がじゅうぶんに増えると今度は身長が伸びる(縦に成長)、このように、交互に成長してはいなかったか。  で、本項のあたりは、横に成長する時期だっただけなのでは。  (思い返すと、たしかにこの後、高校卒業から二十歳頃にかけて、しだいにスリムになっていった。ただし、上のとおり交互に成長ということなら、この時期、身長が伸びる番のはずなんだけど、高卒後、身長の上乗せはほぼ無かったか)
: 「はしりびと、とは?」  走り人かな。  走入(はしりいる)とか、はしりび(走火)の誤読ということも?  → その後、検索で発見。走り人は、おみくじにある語で、失踪者を指すとか。
: 「はしごはおりるよりのぼる方により便利?」  より便利につくられている、そのように父親に教えられた。と、かすかに記憶している。
: 「おまけ おかけね ?」  御掛け値?   おまけ≒おかけね、なのか? ということみたいだけど、掛け値とは、実際の売り値より値段を高く言うことなので、逆に近い。欠け値、みたいに感じたか。  売り手がまず掛け値を言い、買い手がこれを値切って、おまけしてもらって、ほぼ双方の思惑通りの値で売買成立。そういう関係になると思う。
: 「ぼくは運働のオウエンになると、すぐ、しんじゃえーとか、へたくそーといって敵をののしるのです。」  笑。はげしいねえ。  まー、今じゃたぶんまずいんだろうが、当時はゆるされる範囲だったかも。
: 「今日の夢の話。  将棋同好会のやる場所を他の学校に借りる。入口のあたりは医院のような所 こんざつようすを示すたてもの からはいり、すこしいくと、学校。すぐの所の教室に、将棋盤がズラーとおいてあって、その片側に人 生徒 がすわっている。ためらってから、  「何があるんです。」  「試合です。」  「はあ、あの場所をかりにきたんですけど、」  「おわってからにしてください(4時半ごろに)」  などという。4時半なんて、まっていられるか(半面、まとうか、という気持もあったが、他の会員のことも思う。)  それに、教室はここだけじゃあるまい、として、押しの一手で二階にいき、いい教室をみつけて、そこでやる。会長さんが来、どこだかわかんなかったといいながら火■君が来る。」  同学年、将棋仲間の渡■君のあだ名が会長さん。(高校一年時に、クラス会長だったため。詳細は『1973/06/17 むだな勝ち星はなかったのだよ。』)  この高校二年時、将棋同好会の会長はwaka君。  火■君は一年後輩で、翌年、将棋同好会の会長を継ぐ。
: 「また、こんなのもみる。うちのそばの石山公園みたい所に、高い塔みたいものがたっている。 そこに、何人かでいって、その塔のてっぺんからたこをあげ、またもう1つなにかをしようとする。 はじめは、地面でたこあげをしていたが、上の方であげた方がいいだろうと思う。 その塔は、おそろしく高い、下のような形。  《石山公園の絵図》  下から上にのぼる所には  《階段状? の構造物の絵》  というようながついている。  何段かのぼって、わすれものをしてか、おり、またのぼって、あがろうとする。そんなところをみる。」  石山公園の絵図。塔の左隣にあるのはコンクリート製の石山。右隣にあるのは、ローラースケート場だったか。 正式な公園名が別にあったはず。石山があったので皆そう呼んでいた。石山とローラースケート場は現実に存在したが、この塔は、夢の中だけのもの。
: 「また、この塔は、前にも夢でみたことのあるもの。とにかく、人がのぼるには高すぎる物だ。前は、上までいって、はいずりながら下をのぞいたよ。 ただし、プラザの上にたっている塔の夢でない。まったく、同じ形、同じ場所の塔。コンクリというより、鉄棒でできてるよう。」  まったく覚えていないが、セントラルプラザには塔がたってたんだね。  (セントラルプラザは千葉市の繁華街に実在していた商業ビル。各種の多くの店が出店していて、いつも賑わっていた。現在はもうなくなっている)  まったく、同じ形、同じ場所の塔、というのは、プラザの塔と、という意味でなく、今回の夢と前にみた夢の塔が、という意味だと思う。  (夢の中でのデジャブ? つまり、実は、前に夢で見ているというのが錯覚だったり?)
: 「このごろまたねてばっかり。これではますます太るのみならず、ますますバカになるぞよ!!」  「このごろねぼうするということがない。いつも5時ごろ目がさめ、6時ごろふとんからでて、|今日|その日|の予習。はやおき、つまりはやね。」  よく寝て、夢をたくさん見て、こうして起き抜けに長々と夢のことを書いている、ということになるようだから、その予習というのは後回しまたはなおざりなっているんでしょうな。少なくともこの日の朝は。他の日の朝もなんだかんだで似たり寄ったりの気がする。

※ 『1973/11/11 ごめんください、ごめんください、』 : 「だいごみ  牛乳?」  「「だいごみのだいごは乳のことで」(ラクノウのラクというじがあるでしょう、という話が前にあったので) こういわれたとき、だいごの「ご」とは、「ラクノウ」の「ラク」という語で■とでも、とにかく、吾という字がはいってるのかと感じた。 しらべたら、「酪農」「醍醐」  はからずも、酉は同じだった。」  ■は、酉+吾。  わかりづらい文章だね。  ここのわかりづらさは、「前にあったので」辺りの説明不足によるか。  手元漢和辞典によれば、酪とは、ちちざけ、牛・羊などの乳からつくった飲料をいうそうだから、醍醐も酪も、同じミルク飲料ということになる。  おおむねそういう話が前にあった、が、文字がわかっていなかったので、後半のような誤解が生じたよ、という項なのだろうと思う。  また、別辞書で、以下のような解説もみつけた。  〔[補注] 牛乳を精製するにあたって発酵の段階により五つ(乳、酪、生酥(しょうそ)、熟酥、醍醐)に分け、それら五つの味を「五味」という。後のものほど美味で、「醍醐」がその最高の味とされる。そこから「醍醐味」という語も生まれた。 精選版日本国語大辞典 (C) SHOGAKUKAN Inc.2006〕  戻って手元漢和辞典で、酉をみると、これは酒を成熟させる酒つぼの象形文字。酒に関係することを示す意符となる。このあたりにある関係する漢字が皆もっている、ということになるらしい。
: 「■■こも弓月光は男だと知ってたらしい。ぼくははじめから、弓月光というなを知ったときから女だとばかり思っていた。 ■■コに、マーガレットにのっている「りぼん」かなにかの広告をみせられて、「これが、ゆずきひかるのだよ。」といわれて、みると、「よっとどっこい」とかかいてあり、女の子の顔、弓月光、とある。この女の子の顔をみたため、それ以来、弓月光を女と思っていたか。」  ■■こは、上の妹。  弓月光はマンガ家。  りぼん、マーガレットは、ともに集英社の少女マンガ雑誌。(りぼんがやや低年齢向けか)  「ヨットどっこい!」は、弓月光のマンガのタイトルのようだ。  このマンガが収録されていた〔りぼん ふろく 弓月光 ワンマンショー 「ヨットどっこい!」収録 1973年(昭和48年)9月号付録〕は、  https://www.amazon.co.jp/ワンマンショー-「ヨットどっこい!」収録-1973年-昭和48年-9月号付録/dp/B08PSBC9QD   このURLでアマゾンに出品されていた(現時点、在庫切れ。でも、このマンガの表紙は見ることができた)。  ということで、半世紀前の本項の記載と整合している。
: 「どうしておれってふけがよくでるの?」  成長期で、代謝が活発なのかも。  頭髪を洗いすぎてもいけない。  二十代になるとやや落ち着き、三十代四十代頃には気にならなくなったと思うけど、 フケがでなくなったかわりに、今度は、髪が薄くなりはじめたような・・ (笑)
: 「フラフラにつながる。」  これだとほとんど意味不明。  だから、つうつうにつながる。と読むのが正解かも。  彼とはツーツーの仲だ、という場合のつうつう。辞書にものってる。  耳新しいことばに感じて、メモしたかな。
: 「ぼくはくちもとと、上のはぐきのあいだをくっつけ、そこに空気をとおして グルルル、グルルルとカエルがなく方法のようになくことができる。」  男児の頃からこれできたんだよね。(自慢でもあった)  今やってみたら、歯が抜けたり歯茎がやせたりしてて空気がもれてしまうようで、かなり不完全な音にしかならないや。あらら。
: 「将棋の「アイシャ」とは、どういう意?」  合い駒、という意味で使う人がいたり、waka君も言ったりした? のだっけ。最近はほぼ耳にしないか。  辞書を見ると、間遮、という漢字を当てていた。ほ〜、だよね、新鮮なような、なるほどのような。
: 「■■コに将棋おしえて、ほんとにやったら、■■コはないてばかり。」  笑。なぜ泣くんだよな。  駒のそれぞれの働きを覚えるのが、苦しいのかも。泣くぐらいつらいなら、やらなくていいよね。(ということで、兄は懲りて、以後上の妹に将棋おしえるのはよしたんだっけか)  あるいは、駒に感情移入しすぎて、食われたり死んだりするとかわいそうで泣いてしまったり?
: 「いんじゅんこそく、とは?」  因循姑息。  因循は、旧例にとらわたり、ぐずぐずしてる。姑息は、一時しのぎ、その場逃れ。
: 「しんけいすいじゃくって何?」  神経衰弱。  トランプの競技名だったはず。  神経症の一種を指すとしても、病名というより、俗語的なおおざっぱな捉え方では?  → Wikipediaを見ると〔2010年代以降この診断名が使われることは滅多になくなった[2]。〕とあるので、逆に言えば、半世紀前、本項当時はまだ診断名として使われていたのかも。
: 「ごめんください、ごめんください、ととおくでいうから、たちあがり ズボンの中にみだれてでていたワイシャツをおしこみ玄関へ。しかし、いない。ぐるっとまわって正門(どうせあかないので、お客さんが、あかなくてこまってると思う。)へ、しかし、いない。  ひらき戸の方をみてもいない。となりのうちか、と思ってもどろうとしたら、りょうの方に二人、女の人。17才ぐらいと13才ぐらい。■鳥さんへのとどけものであるそう。」  waka君の家(身内では、うらのうち、と呼称。職場の道路一つへだてた北側にあるため。社宅)の平面図。上が西。下が東。  玄関のすぐ下にあるのが正門で、これは締め切りでまったく使われていない。(これについては、display『1973/10/13 つたゆり、とかいうもの』の注記にもあり)  左側の塀の下方にある格子戸が、通常の出入口。本文で、ひらき戸といっているが、正確にいえば引き戸。  左側の塀(=南側の塀)と建物の間の空白領域が庭になる。  上方や右上方にまだ部屋が(waka君の自室も)あるが省略されている。  [TV]を見ている部屋は、祖父の部屋。  赤点線が[ぼく]のうろうろした経路。  左上方に建っている離れが[りょう]、職員寮。一階二室、二階二室で、二階の南側が■鳥嬢の部屋だったはず。  寮の前にいるのが、来客女子二人ですな。  なお、このうらのうち一帯はすべて、現在、駐車場になっている。
: 「しかし、してみると、おじいさんのへやでめがねをかけて、テレビの将棋をみていたぼくが、ズボンの中にワイシャツをおしこむところを、ガラス戸ごしに、りょうの所から女の子たちは見ていたのか?  ガラスのむこうのぼくに、おじぎをしながら、ごめんください、といっていたのに、ぼくは気づかなかったのか、チジョク!!」  笑。  この恥辱を書き残したくて、絵図を書いたり前置きをしたりしたみたいだ。  要するに、家でも寮でも、在宅していたのはwaka君ぐらいだったってことでしょう。  1973/11/11は日曜日。だけど、職場は日曜が休みではなかったし、繁忙な時季でもあったと思う。  (妹たちはどこかにいたかもしれないけど、聞こえなかったか、来客が面倒でシカト、または荷が重く隠れていたか)
: 「「しまうわよ」 「そうよ」 }このごろ、こんな言葉を、いつのまにかつかっている。」  いくつか理由があるのかもしれないが、女家族が多かったこと、妹たちの少女マンガ誌をよく読んでいたこと、などもあるのかなあ。朱に交われば、のたぐい。  まあ、つぶやき程度でそうなってしまうことはあっても、会話ではさすがにでていなかったと思う。
: 「自分の肩に手をのっけてる人に、「手がうるさいよ。 うっさいなあ。」というよね。」  うん。いうよ。  でも、手をのっけた時点でそれは、親しみとか友愛とかのしぐさだろうから、これを邪険にするというのは、諍いを起こしそうな雰囲気。少なくとも気まずくなる。  なので、いいづらい、はらいのけづらい、かもよ。  (反射的にそう言ってしまう場合はありそう。人柄にもよるな。・・こういう承認を求めるような書きぶりをするってことは、waka君自身が言ったみたいだね)
: 「はじまり はじまり  ばかな■■ちゃん、一代記。ああ、悲し悲しい世の定め。なんの因果かみじめもの。 ああ、みれんがましくもなるわいさっさっのみじももめもの。」  上の妹■■子をいじる(いじめる)ときのはやし言葉かな?
: 「ぼくはうちでごはんをたべおわったあとは手をたたくのだが、外ではたたかぬ。そのうち、うちのような外のような所でめしをくい、手をたたいていいものやらわるいものやらわからなくなるぞ、きっと。もしくは、習慣的にたたくか? たたかぬか?」  食事前後の柏手だが、しだいに(二十代以降は)内外いつでも叩くようになったか。ただ、ちょんちょんという感じで形ばかりが大半。
: 「日本版「戦争と平和」を書いては? ・・・ 」  大きくでたけど、waka君自身が書く、ということ(という設定)なら、妄想(のネタ)としての発案だろうね。  誰かが書いてくれればいいのに、という気持ちかもしれないけど、すでに書かれているはず、トルストイより先に、大昔から、日本でもどこでも、多種多様な「戦争と平和」が。
: 「でも、戦争はいやだあ!!」   前の行で不謹慎(「戦争によって、国は発展する?」)をいったので、中和しておきたくなって(そちらだけではないと念押ししておきたくなって)いってる感じ。

※ 『1973/11/12 というような形。』 : 「11/12 修学旅行用に おじいさんから¥5000もらう!!」  「修学旅行、下着 カバン )そろえるべし。」  「トコヤにいかず、お母さんに、カミの毛を切ってもらおう。」  「¥2000」  「レポート用紙 青ボールペン )buy」  「11/12 ハヤアク 帰って、αをやろう。」  頁上辺のエンピツ書きメモ。(各頁のこの領域に、なすべき事などを箇条書きするのが習慣となっているようだ。いわゆる to-do メモ)  最後のは、「11/12は、早く帰って、数学αをやろう。」ということでしょう。  ちなみに、waka君は旅行にいってもおみやげを買わない人、かわない主義。(例外的に買ったことがあるのは、後年、だれか女子へのおみやげだったか?)  ここにある通り、祖父から小遣いをもらっている。常識的に考えて、身内とはいえ修学旅行先で祖父のためにおみやげを買ってくるのが礼儀だと思うが、買ってないよね、主義に従い。こういうところ、まるでかわいくないんだ・・ 円滑な身すぎ世すぎには不適、というか、まだ経験値浅い、というか。
: 「おてやわらか  おてあらか、 ・・・ 」  おてやわらか、と言おうとして、舌がもつれ気味になった、と。  だけでなく、これはもしかたら、おてやわらかの反対語になるのかもしれない、と気づいて、吟味してみた。  というような、不毛な項かな(^^;
: 「今、夜の1:23。かみの毛をきるはさみで、ひげをきる。ひげを自分できるのははじめて。」  ほー、十六才でまだ、髭剃りの習慣がない、必要なかったのか。
: 「このぐらいのすこしやわらかいやつ。」  黒丸、いかにも。
: 「 ・・・ さあ、ねよう。」 「 ・・・ さあ、いい夢みよう。」  まじで寝たいんだけど、寝なきゃいけないんだけど、くだらない想が湧いてきて書かざるをえない。  ・・という状況みたいだ。おつかれさまです(笑)
: 「このような「暗合」はよくあるのか? それとも、多くの外来語のうち、日本語とよく|あったものが、|関係しているようなものが|にかよったものが|より残りやすかっただけで、純粋な「暗合」というわけでもないのか。」  「つまり、「女のねまき」の意をしめす外国語はいくつもあるが、その中で、日本語ににかよって、日本人にひたしみのもたれそうなののみが、よく使われるようになって、(えらばれて)残ったのか?」  これは、意外と的を射ているかもしれない気づき。  ネグリジェというとき、日本人はどうしても、寝という語を浮かべてしまうと思う。この暗合(偶然)ゆえにしたしみをもたれているところ、確かにありそう。  似た例を探してみる。 sexと性。nameと名前。cityと市。 なんか、ちがうか〜  curry(カレー)と辛え。そう、こういうのだ!
: 「となりのへやのめざましどけいか何かの音が、まるで、まくらもとでなっているようにきこえる。  それだけしずかで、ねしずまっていいる。」  どうやら、入眠しそびれている。このあたり、前後。
: 「雨かなんかのために、うちにイ■■ちゃんのとまる夢をみた。めしをくうときに■■にむかえにいく。  くわしいのは忘れた。」  イ■■ちゃんは友人。中学も高校も同じ。  飯どきに連絡があって(道路一つへだてた家業の職場のほうに)むかえにいく。ということらしい。
: 「今年はあまり大きな事件がなかったとみていいのでは?」  1973年。wikiで調べて、ざっと拾うと、  7月。ブルース・リーが死亡。  8月。金大中事件。  10月。第四次中東戦争(→オイルショック)。  ノーベル物理学賞、江崎玲於奈。  この辺りが、大きめの出来事か。  前年1972年には、あさま山荘事件、イスラエルのテルアビブ空港で日本赤軍乱射事件、ミュンヘンオリンピック選手村でゲリラがイスラエル人選手らを殺害、等が起こっている。無法、殺伐ということで前年と比べれば、たしかに、当年1973年のほうが多少おちついたように感じたかも。
: 「夢の中にでてくるぼくの家庭は夢の中だけの独特のものなのか? それとも、現実と同じ家庭に、何か関係ない因子がはいってくるのか?」  夢の中にでてくるのは、家庭にしろ何にしろ、それは、まぼろしだよ。蜃気楼のようなもの。  現実が、waka君の心の中に投影されたもの。それが元なんだろうけど、夢となる際に、なにやら欠落したり、関係ない因子が加わったりもしてるのでしょう、たぶんね。  でも、おおむね、現実と、現実のような夢の、見分けがつかない。  変な気はしていても、その場所がいつもの日常だと思えば、必要と思われることをしたり、会話をしたりするしかない。  あまりにだまされやすい、流されやすい、と言えるけれど、人がそういうものならば、実は、だまされているのは夢の中だけではないのかもしれない。  だまされていることを夢の中で気づけないように、だまされていることを現実の中で気づけないでいるのかもよ。我らは。
: 「電車内で、(たぶん修学旅行)4人がセブンブリッジやるのをみている夢をみた。」  やっている夢ではなく、やるのをみている夢、なんだ。
: 「やれないわけがなくないじゃない。  この意は?」  やれないわけがない、で、やれる。  やれないわけがないではないか、も、やれる。  やれないわけがなくないじゃない、は、やれない。・・か?  やれないわけがなくはない、ではないか。と言い替えられるので。さらに、  やれないわけがある、ではないか。とも言い替えられるし。  とはいえ、本文のような言いまわしは、回避すべきだよね。ちゃんと伝えたいなら。
: 「大通りを横断歩道でよこぎろうとする女性を、まっすぐにいこうとするぼくが、ななめうしろからみて、「美しい」と心の中でしばし感嘆したら、その女性、急に横断歩道をかけていってしまった。  今思うと、そんなに美しいのでもなかったような気もした。  もしかしたら、その女性、テレパシーをつかえ、人の心を感じとれる?」  ときどき、そんな気がする(こちらの心をよまれたのではと勘ぐりたくなる)場合があるけれど、大半は偶然だろうね。  心をよまれたら困るな、恥ずかしいな、という心配や不安、羞恥が見させる、まぼろし。  しかし、本文ような通りすがりの人ではなく、学校のクラスメートなど顔見しりの場合は、本当に心をよまれているときがあるやも。  ちょっといやらしい目つきをしただけで、あ、あいつだ、と女子ににらまれたり、とかね。  → 本文の女性、ほんとうにテレパス、だとしたら(笑)   彼女、waka君の(あるいは周囲の)精神操作をして、自分を美人に見せる実験をした。  「美しい」と感嘆したのを確認して、よしよし、と実験(遊戯)は終了。足早に去る。  操作が解けて、そんな感嘆するほどの美人じゃなかったような気がするwaka君。  ・・なんてね!
: 「「世の中が発展するのが、私はこわいのです。自然がはかいされる、人間そがい、というような、大々的な事のためではなく、純粋な劣等感のためなのです。奇跡的な発展を動かす人々に劣等感を感じるのです。 ぼくの想像も及ばぬほどの苦労をした人がいる、思いもつかないほどの才能のもちぬしがいる、おそろしく強運の人がいる、それがこわいのです。」」  「「キリスト教をいつまでたってもすてられないヨーロッパ人をみても、人間がいかに弱いものかがわかる。」」  この2項、「 」でくくられているので、おそらく、waka君の素の意見ということではなく、物語の中の登場人物のセリフという体裁になっている。  架空の人物の言葉なんだからと、わりと無責任に、自由に述べているはず。だからこそ(無防備だからこそ)、わりと本音に沿っていたりしてね。
: 「近ごろ  キンごろ、とよみやすい。 ちかごろ」  ありえない気がしたけど、案外、あるのかも。  近い、近く、近ければ、などの送り仮名があれば読み間違いはありえない。 しかし、本文のは通常の送り仮名がない語幹だけ、漢字一字だけで、浮いているように見える、となると、最初に音読みでキンとしてしまうこと、なくはないか。  近ごろ > きんごろ > なにこれ >ああ、ちかごろか という意識の流れ、ありそう。
: 「というような形。」  なんだか、かっこいい。モダンだね。リズムがある。  線が裏を通るような(立体細工のような)、四つ目、ちょっとしゃれている。
: 「あした木よう日の授 ただし、α  木よう日が2回アル、とっかえっこでない。」  頁上辺エンピツ書きメモ。  授業時間割の変更を言っているわけだが・・  この日、1973/11/12は月曜日。そのあした、11/13火曜日の時間割が、そっくり木曜日の時間割となる。  ただし、数学はβでなくα。  そして、木曜日と火曜日の時間割を交換するわけではなく、木曜日は元のまま木曜日の時間割となる。  ・・ということだと推測。  かなり珍しい変更だと思う。翌週19日月曜から修学旅行にいくので、たぶんその関係だろう。
: 「したじき使わぬことちょっと多くなる。  したじきによく、予定をかいたワラバンシをはさんだがこのごろない。」  堅い板の一辺に、同形の透明柔軟樹脂を接着してめくれるようにした、そういう下敷だと思う。
: 「皆食、皆眠、皆便」  ふつうは、快だよね。  皆をカイとよんで使う熟語は、免許皆伝、皆既日食、皆勤賞、悉皆、ぐらいか。
: 「取る気はなくても、商品を持って、商店ののき下から三歩外にでると、もうマンビキとみなされてもしょうがない。(サカ■■)」  「貴重品は身からはなしたら、ないものと思え。(サカ■■)」  担任のサカ■■先生のいましめ。これも修学旅行前だからでしょう。  サカ■■先生は国語科の先生。3項前で列挙された科目に、国語関係はないので、HR(ホームルーム)での話かな。
: 「甘大」や「糖大」はwaka君の造語でしょう。単に同音異字というだけで、スパイスがきいてないから、つまらないよね。
: 「散歩者 さんぽしゃ さんぽもの }?」  江戸川乱歩の『屋根裏の散歩者』は、さんぽしゃ、らしい。  しかし、散歩者は、なにかぎこちない語感。使われているのは、この作品名ぐらいしか浮かばない。  役割を担う者(開発者)とか、何か他に影響する行為をする者(破壊者)とか、何かを求めようとする者(希望者)とか、こういう場合は、○○者というのはしっくりするんだけど。  散歩は、気ままな行為で、役割ではないし他に影響するとかでもないし何かを求めているわけでもない。  例えば、遊戯者とか、睡眠者とか、こういうのも同類なのか、ぎこちなく、やはり耳慣れない。  自己完結的な(自己満足的な?)行為には、者(しゃ)は、そぐわないんだろうか・・ 
: 「弁当を新聞紙でくるんでいると、弁当の下あたりの新聞紙にぺっちゃんこのごはんつぶみみつける。 じっとみてから、そのままつんだが、やっぱり、うちにかえってからしんぶんしといっしょにごみばこをすててしまうのはいやなので、 弁当ばこの中に入れ、おとしたゴハンツブと同等にあつかおうと思った。 (すでに、1つおとしていて、弁当箱の中にいれておいた。)と思って、たたみかけた新聞紙をひらくと、 もうぺっちゃんこのごはんつぶがなく、しみだけ。弁当をみても、まわりをみてもない。 ゴハンツブが4次元(異次元)にいってしまったと心の中で一人言。」  みみつける、⇒ みつける。  そのままつんだが、⇒ そのままつつんだが、  いっしょにごみばこをすててしまうのはいやなので、⇒ いっしょにごみばこにすててしまうのはいやなので、  ということでしょう。  ご飯一粒二粒といえども、落下させてしまったものでも、そのまま床に放置したり、教室のゴミ箱に捨てるのは忍びない。そういう躾をされているんだよね、waka君。  といって、食べるわけでもないので、持ち帰ったとしても、洗って流してしまうか生ゴミとして捨てるだけなんだろうけど。でもそちらのほうがマシ、だと。  ご飯粒、異次元にいったのでなく、どこかに紛れたんでしょう。探し方が不徹底なだけ。  しかし、躾に反するのかもしれないが、見切るべき些事でしょう、これはやはり。  だから、異次元に行ったのかもということで、探索不徹底のままあきらめてしまったとしても(当時当人は不本意だとしても)、正解は正解なんだよね。
: 「想像とかくところを存在とかく。」  「横断歩道を歩断歩道とした。」  単純ミスなんだが、それぞれ味わいがありますな。(現在の、誤変換で珍奇な語に遭遇する感じ。これと似ている)
: 「青ボールペンを買ったのだ、購買で。しかし、緑のボールペンもわりといい感じだね。」  と、この項から、青ボールペン字に復帰。  緑のボールペン字は、足かけ12頁ほどだった。  スキャンで写しとるには、より濃い、青のほうがうれしい。
: 「運動を運働だって。  (バカ)」  ようやく気づいたかな。あやまった書き癖に。
: 「テニスは神士のスポーツだからこそ、審判に抗議するなんてことがない。 そこで、規則には、審判に抗議してはいけない、ということがかいてない。  ふつうは、神士のスポーツなので、審判に抗議させないため、ルールにかいてある、のではと思う所なのだが。  (考察)」  ここでは、紳士とかけてないね。  waka君、誤字という意識が無い。神の士で意味も通じるから正字だと思ってる。・・たぶん。  このあやまった書き癖を指摘してくれたのは、ほぼ十年後、蘭ちゃんという女子なんだよね。(それまでずっと、神士と書いていたはず)  横道にそれるが・・  waka君、八年勤めた会社を辞めたあと、しばらくして、同僚だった皆さん宛に、手紙をだした。その中で、いくつか、誤字とか言い回しの間違いとかがあって、返信にそれが指摘されていた、ということがあった。指摘したのが蘭ちゃんだから、返信自体も蘭ちゃんが書いてくれたのかな。  (指摘されたのであと覚えているのは、三昧を三味。さらに一つか二つあったけど忘れた)  なお、ほんとうにテニスのルールに書いてないのかどうかは未確認。
: 「自作詰将棋。 ・・・ まで9手詰」  たしかに詰むみたいだが、詰将棋らしい鮮烈な手順ではないな〜  (それに、▲3五桂△2四玉▲3三角以下のの余詰めもありそうだ)(初手▲3三歩成や▲3三金からでも詰んじゃうか。だめだこりゃ)  (持ち駒が角桂だけだとしても、▲3三歩成△同桂▲3四角△3二玉▲4三馬以下で詰む。これのほうがまだしも詰将棋っぽいか)

※ 『1973/11/12 やっていないのに』 : 「11/6の第3項以来、やっていないのに、はなのすぐ下に一つ、右くちもとのすぐ下に一つ、計二つ、にきびができた。」  これは・・  ☆11/02「射精を一回するごとににきびが1つ?・・・・まさかァ!!」  ☆11/02「ものはためし、しばらく射精をやめてみたらどうだろうか?  もう丸二日ぐらいやっていない。まず、あと、5日つまり、一週間ぐらいやらないでいてみよう。にきびとの関係もわかるかも。   しかし、やっぱり修学旅行の前にはやっておこう。まさか、あっちでできやしなかろうし、夢精なんてやったら恥。」  ☆11/06「11/2のラストでためしたのは、今日で、やってしまった。が、一週間ぐらいだろ。」  ☆11/09「めがしらの下のにきびは、この前のアサのちじょくによりでけた?」  ・・という、一連の射精がまん実験の続き、経過報告ですな、本項は。  がまんすれば、ニキビが生じなくなるのでは、という仮説を試したくてはじめたわけだけど、 11/06〜11/12のあいだ、再び一週間ばかりがまんしていたのに、ニキビができてしまったよ、と。  仮説は、ぐらつきだした、と。  といっても、がまんするとかえってニキビが生じる、という真逆が証明されたわけでもないけどね。  実験事例があまりに少なすぎる。射精とニキビの相関がプラスかマイナスか以外にも、相関なし(無関係)という場合もあるしね。

※ 『1973/11/13 やってる間から今まで』 : 「11/6の第3項以来やってなかったがやる。約一週間。」  中六日。  高校二年生、十六歳男子としては、がまんしすぎでは? 不健康といえるレベルかもよ。
: 「的 約 均 }? 」  ちなみに、柄杓(ひしゃく)の杓、豹(ヒョウ)などに使われている旁(つくり)は、実は、的や約の旁と同じもの(勺 しゃく)らしい。  活字(デジタル文字でも)のこの旁、中身が点か一かで差異があるのだが、これ、新字体が点、旧字体が一。  杓や豹は当用漢字ではないので、新字体にされなかった、という事情と思われる。
: 「戯作  ギサクならマジメという感もある」  辞書によると、古くはギサク(漢音)とよまれ、しだいに、ゲサク(呉音)が優勢になったという。  戯自体が、たわむれる、ざれる、という意味なので、どちらで読むにしろ語意はフマジメの側のはず。  ただ、音感だけで言えば、本文の通り、ギよりゲのほうが、卑しいような気もする。ギは義など浮かぶが、ゲは下や外が浮かぶからだろう。  例えば江戸時代、戯作の作者や読者も、似た感覚をもっていたかもしれないね。昔のギサクより今のゲサクのほうが、ざれている、たわむれが昂じている、などと思ったり言ったりしつつ。
: 「自分だけの才能ではのびぬ  友だち、いい先生  }(サカ■■)」  担任のサカ■■先生の教え。  そのとおりだと思う。
: 「造詣 ?」  手元漢和辞典によれば、造にはいたりきわめるの意があり、詣にはすすみいたるの意がある。
: 「αの先生、カネがなってもおわらせることを知らないで、平然と授業をつづける トイレの大にいきたい、ゲリの人にとってどれほど残酷な行為か。おくれるばかりでなく、トイレを他人にとられてしまうのだ。」  waka君自身が、このときそうだったのかもしれない。  中学高校の休憩時間て、10分しかなかったはず。なんのためにしろ、丸々10分間ならなんとかなるが、数分でも削られるときつそうだ。  (当時は、自分らの事情しか考えていなかったが、教師の立場で考えても、授業間が10分しかないのはあわただしすぎる気がする。よって、本項の数学αの先生も、気持ちよく延長してても、すぐ次のコマも授業をするとしたら自分で自分の首を絞めていることになるな)
: 「授授でテニスをやったら、やってる間 とちゅう から今まで、ここがいたい。」  (体育の)授業、だね。
: 「教科書の英語でもなんでも、たのしみつつやくしはどうかね? 何か、創造していく楽しみを感じつつ。そして、ぼくの文でもなんでも、たのしみつつ英訳してみたら? 自然と、力がつくだろうに。もっと勉強しな。」  機械のように、義務として、和訳したり英訳したりするのではなく、と。  まあ、余裕があれば、こうしたいところだし、秀才たちは実際にそうしていたのかも。  しかし、waka君の場合、英語の地力自体がたいしてないので、そういう域にはまだ手がとどかなかった、ような。
: 「「expensiveにつくのはinかunかdisか、」といったので、きっと先生はほんとの答えをあとからだしたろう、はじめは、つるために、と思って、disが正解と思ったら、inだった。」  expensive(高価な)が反対語になる時に頭につくのは? という問いかな。  inexpensive(安価な)。  本文のようなギャンブルじみた手法で、筆記試験の時も書いていた気がする。  (本項は授業のときで、書きぶりからいくと、指されて答えたわけでもなさそうだ)
: 「今日のめし 弁当 はおさしみをあげたかたいやつなので、たべるのに労力がいる。まずくはないが重い食事。」  今読むと、なんか、唾がじわり。
: 「頽唐をもりもりもりあがるようすと思ってしまっていた。  台頭?」  辞書によれば、
頽唐は、道徳的で健全な気風がくずれた状態。頽廃と同類。  こんな熟語があるんだね! しかしなぜ唐?  手元漢和辞典によれば、唐には堤の意もあるらしいから、それか? (つつみがくずれる、となるので)
: 「不遍 不変 普遍 }? ? 」  不遍という熟語は無いらしい。遍があまねく、なので、不遍は限られた、というような意味になりそうだが。  不偏(かたよらない)という熟語はある。
: 「重さ  量さ オモサ? カサ?」  量の訓は、はか・る、かさ。
: 「傘、暈、嵩、瘡、 カサ、 過差」   前項関わりで、かさ、を国語辞典でひいているのかも。  過差、当て字かと思ったら、ちゃんとある語でした。
: 「温度一定  定温 ていおん じょうおん  常温? }??」  定温はていおんとよむらしい。  しかしそれだと低温とまぎらわしいよね。  (恒温動物のことを昔は定温動物とも言ったとか)
: 「いちねんほっき  仏門にはいること?」  一念発起。ぴったりではないが、だいたい合っているもよう。
: 「求めよ、さらば与えられん  たたけよ さらば開かれん」  新約聖書由来の故事成語だそうだ。
: 「ぼくがずっと前、黒いがまぐちを買うとき、ぼくがやはりくろい古いガマグチのチャックのすべりにくいのをくろうしてあけてるのをみて、そこの、歩道の上の店の主人が、ぼくのかった黒がまぐちにすぐ、ろうをぬってくれたのはうれしかった。」  露天商とのひとこま。  ちょっといい話だけど、本項の直前、その黒いサイフでお金を出し入れしていて、ふと思い出した、ということかも。  (なお、蝋をぬってくれたそれは、ファスナーでとじるサイフ。口金でとじるものではないから、厳密にはガマグチと呼ぶべきではないのかもよ)

※ 『1973/11/14 左手と右手をくむと』 : 「なんで、ウルトラC、という?」  体操競技で、当時の最高得点基準がC。これよりさらに難しい技なので、ウルトラがついた、ということらしい。
: 「しょうとくたいし  しょうきょくたいし」  言葉遊びでしょう。  これは、漢字にするより、ひらがなのほうが味があるかも。
: 「みろくぼさつは2つある?」  弥勒菩薩には二種類(二系統)ある、というような教義上のことでなく、単に有名な仏像が二つあるという(観光情報レベルの)話か?
: 「ガンジン ガンシー」  よくわからない。  奈良時代、唐から日本に渡海して、戒律を授けた鑑真が、中国語の読みだとガンシーとなる、ということを言っているのかと思ったんだけど、そういう発音にならないみたいだ。(むしろ、中国語の発音をなるべく残してガンジンと読んでいるようだ)  なので、真が濁るのは変だと思ったwaka君独自の読みかもしれないし、そもそも鑑真関わりのことではないのかもしれない。  (前項が弥勒菩薩で仏教関わり、京都奈良への修学旅行が近い、などから、鑑真の可能性は高いとは思うんだけど)
: 「よそう よそる  ゴハンをよそるとはいわぬ?」  しかし、辞書に「装る(よそる)」はのっている。  動詞「よそう(装)」と、「もる(盛)」とが混交したもの、という説明。  混交、つまり、厳密にはまちがいではあるが、辞書にものるほどなんだ。ほ〜 
: 《それの輪郭》 「カンヌシのもつシャモジみたいの何といったっけ。また忘れてしまった!!」  笏(しゃく)、だよね。
: 「もつ」が形態変化して「わ」  waka君、こういうのが好きだねえ。
: 「オタフク オカメ )の差は?  オタフクとは、平安の頃は、ほめことばだった?」  しらべてみたが、オタフクとオカメはほぼ同じみたいだ。  ほめことばだったとはっきり書いている説明やサイトは見つけられなかった。
: 《左右の手を組んだときに見える親指側の絵》  「ぼくが、左手と右手をくむと、左手の親指の方が右手の新指より、手前になる。」  新しい指が生えるのは困るね(^^;
: 「今日のα、はやめにおわった。めずらしい。  予定よりはやくおわった、という。 ソフトのしあいのために。かってください。とうそぶく。 ■■ミネ先生。」  しばしば平気で延長する数学αの■■ミネ先生が、めずらしく(たぶん時間前に)授業を切り上げた、と。  この後、ソフトボールの試合があるので(waka君のクラスはトーナメントを勝ち上がっていたもよう)、先生が配慮してくれた、ということのようだ。  うそぶく、は使い方がちょっと変かも。

※ 『1973/11/17 壁が間にあったけれど』 : 「夢でお父さんが、となりにねていたが、実際にもとなりでねていたのだ。(壁が間にあったけれど、)」  夢では同じ部屋で、父親がとなりに寝ていた。  現実では、父親は(いつもどおり父母の寝室である)となりの部屋で寝ていた。ただし、間にある壁がないとしたら、夢と同じぐらいの位置関係で(つまりとなりで)父親は寝ていたのでは、と。  絵図は、現実では父親と自分の頭の向きが逆になって寝ているはずだが、夢の中では同じ向きになっていたのだっけ、現実と同様、逆だったんだっけ、と思いだそうとしている。  要するに、父の寝姿は、間に壁があって見えないし息使いもほぼ聞こえないんだけど、夢の中ではそれが見え、聞こえているということになりはしないか、と。眠っている自分の感覚が異様に敏感となって、壁を透して知覚していたのでは、という気づき、そうであったなら不思議だしおもしろい、という記載ではないかと思われる。

※ 『1973/11/18 宇宙人はこんなかたち。』 : 「■■高のめおといちょう、日のわりとよくたる男のようないちょうの方だけ、葉が黄変。」  高校にそんな樹木があったなんてまったく覚えておらず。  銀杏(イチョウ)には雄株雌株がある。そう呼ばれていたということは、枝ぶりなどの見た目だけでなく、本当に雄と雌だったんだろう。
: 「designをclesignとよんだずら。」  筆記体で、dが分離して見えてしまって。
: 「疑似を凝似だって。  なんかあるような字だなあ。」  あるようだけど、無いね。  擬似はある。
: 「欲する  欲っする×  }?」  よくが訓。ほっするが音。・・のような気がするが、逆なのだ。 よくが音、ほっするが訓。
: 「陳、棟、軒」 「陣なんてある?」  まぎらわしいね、たしかに。
: 「フイルム フィルム」  原語 film の発音からいくとやはり、フイルムは不適だな。
: 「今日の夢は、なんとかプラザの屋上にたってるゆうぎ場の2階あたり。とっちゃんが、・・・ 」  の■君はクラスメート。あだ名が、とっちゃん。
: 「 ・・・ 黒い雲の中から、黒いくもが、下にいくつもたれさがる。・・・ 」  この「くも」が、雲なのか、蜘蛛なのか、終わりまで読んでもどちらなのか決めきれないね。  ビジュアル的には、蜘蛛のほうが、活劇として映える気はするけど。
: 「 ・・・ 宇宙人が攻めてきて、戦う所、黒いくもが、いくつもたれさがる所は、おそろしく美しく、壮大で真実性があったが、後半は、なんか、しらける。」  締めが正直でよろしい!
: 「教養があふれだしている  教養がはみだしている」  はみだしている、というのが、なんかたのしい。  単にありあまってあふれだしている、のではなく、教養がそこに収まるべきではない、みたいだもんね。どんな人なのって、想像したくなる。
: 「楚辞とは?」  中国戦国時代の楚地方の詩集。屈原が代表的な作家。(とのことだが、Wikipediaを読むと、〔屈原の伝記や、楚辞を屈原が作ったとする伝承には疑問が提出されている〕とか)
: 「「はやめに、」といおうとしたのに、口では「ひかえめに」といおうとしたので、結局、「はかいめに」となってしまった。」  爆。  えらいよ、ちゃんと分析して、半世紀後に伝えてくれるなんて! 
: 「生きていれば、みんな友だち。  死んでるものも友だちだ。」  たまに名言がころがっているな。  名言もどき? 妖しいつぶやき? かもしれないけど。
: 「毅 のよみは?」  人名なら、つよし、たけし、か。  よく耳にする熟語なら、毅然、剛毅などがある。
: 「そば :食う ちかく  フキン :きれ 付近」  蕎麦を食べるとき、布巾が、そば(付近)にありそう。  そういう重なり合う意味と音のぐあいがうれしくて、メモしたみたいだ。  うんうん。うれしい(^^)
: 「もし、ある少女が、自分のねことキスしたとする。しかし、どうも、「バイキン」の事を考えてしまう。 しかし、私の子ねこだから、キタナクない、と思わねばならないと考え、けっして、口をふこうとしない。 そして、夕食もどんどんたべてしまい、舌で、くちびるもなめる。やるだけやってから、ハンカチでちょっと、くちびるをふいた。 でも、それで、彼女の心の中の子ねこのバイキンをこわがる心を、それから数年後の彼女になっとくさせた。」  未整備の文章でわかりづらいけど。  この少女自身以外には、ほぼなんの意味もない心の軌跡。  少女にとっても、気づいて、納得して、それで、忘れてしまえるようなこと。  しかし、これを妄想して書き残したwaka君は、ささやかだけれど、物語を感じたようだ。
: 「修学で仏足せき やくしじ )をみて歌を1つよみとるべし」  頁上辺のエンピツ書きメモ。  古文または日本史の先生あたりに、修学旅行先での課題を出されたんだろう。  薬師寺の仏足石を見学した際、歌を一つ読みとるべし、と。  しかし、そういうものを観覧した記憶がまったく残っていないので、課題は未達だったのでは?  → 今あらためて調べたら、「仏足跡歌碑」のことをいっているらしい。しかし、これ国宝だそうだから、修学旅行生が間近で観察できるような展示だったのかどうか。
: 「おじいさん、おばあさんに、コブを。」  同じく、頁上辺のエンピツ書きメモ。  修学旅行用にと小遣い(5000円、2000円)をくれた、祖父と横浜のおばあさんに、おみやげの昆布を、ということだろうか? コブは他に考えづらいけど、なぜ昆布? そういう希望があった?  京都、奈良は海辺ではなさそうなのだが・・  母方の祖父、父方の祖母、根のいい人たちだよね。しかし、孫が・・ 情が薄くて・・   修学旅行で昆布を買った記憶も、まったく残っていない。
: 「妹、■■リに手をはなすのはなすはどう書くときかれて、「離す」とおしえた。 こんなのみたことない、もっとかんたんなの、というが、そんなのない、という。 辞書を二人でしらべたところ「放す」がある。バカ。」  下の妹(当時小学三年生ぐらい)から質問されて。  二人でしらべた、というのはいいね。
: 「いーつもわらあてたああ  あーのこがないているううう  ひーのくれえどきー 」  ざっと検索したが、こういう歌詞の歌、見つからず。  フォークソング辺り、の替え歌、かなあ・・
: 「ハミガキチューブはねりはみがきとしかいえない?」  今、検索すると、メーカーは、歯磨き粉と自称しているのが多いようだ。(粉ではなくチューブに入ったペースト状のものなのだが)
: 「修学旅行なんかの旅行は、やっぱり必要か。くつをみがいたり、下着はかうのはこのときぐらいだから。」  まあ、当時の庶民はこんなものよ。  (私は今でもこんなもんだけどね。笑)
: 「なんか、おれのワイシャツエリのとがったカドなんかがはげていて、キフルシタ、ってかんじがピッタリ。」  うんうん。高校生男子だし、相応でしょう。  ねりはみがき辺りからそうだが、修学旅行の準備、荷造り関連の記事でしょう。  この日、11/18日は日曜日。  翌日月曜が、修学旅行の出発日。
: 「「おみやげみたいなおみやげはかってきたくないの。」と■■コにいう。」  上の妹におねだりされたのかも。  waka君、あまのじゃくだのう(^^)
: 「もの 製品 がどんどん、安ものっぽくて、かんたんなつくりで、まるでオモチャみたいなカルサ、になっていく。芸術性の重さが少ない。」  当時すでに、ということか。  おしなべていえば、少量多品種を手づくりしていた時代は去り、大量少品種で機械生産されたものがまわりにあふれるようになった、と。  そりゃあ、オモチャみたいだよね。  しかし、安価で、意外と丈夫で、使い勝手はいい、実用品でもあるはず。  だからこれは、今のものをおとしめたいから言っているというより、昔のものを懐かしみ、いつくしむ心の裏返しとして読めばいいのかもね。
: 「子供の頃、まいてある糸をハサミでところどころ、プツプツときってしまったことある。 すこしして(何日かして)お母さんがすぐ糸がおわってしまって、困っているじゃないか、とお父さんにいわれた。 (もちろん、そういわれる前にはくじょうしていた。) 「これやったの、おまえか。」 「うん」 「お母さんが困るじゃない。ほら。」  すぐそばで、何か、(たぶんぼくのものを)ぬってる。  こんな感じ。  まだ小学校に行かない頃?」  なんかほほえましい。いたずらだけど、ほとんど悪意が感じられないし、報いが自らにかえってきて滑稽で。
: 《昔は美男子が頂点、醜男が下辺のピラミッド。今は美男子が上辺、醜男が底点(?)の逆ピラミッド。ではないかという模式図。》  極端ながら、傾向は的確に捉えている気がする。  人はよく食べよく眠れば誰でもそこそこまでは美しく育ちあがるはず。  よって、世の中が豊かになれば、こういうことも言えそう。  または、醜男を筋肉男子の異称とするなら、武よりも文の平安な時代になったから、とも言えそう。
: 「こうがの忍びは集団活動にすぐれ、伊賀のしのびは個人にすぐれた、とか。」  どこから仕入れた知識なのやら。  伊賀忍者の代表格服部半蔵は、徳川を支えた体制側というかんじで、むしろ数にものをいわせるような。  人気のある猿飛佐助は、甲賀の流れをくむと聞く。  だから、まあ、逆のことを言われたほうが(同じ半信半疑でも)まだ納得したかも。
: 「ピーナッツ、チョコレートは、くいすぎると、にきびをつくるとか。」  これは、眉唾度、忍者よりは低いかも。  実際そういう経験も多いらしい。  食べ物と皮脂との関係から説明するサイトも散見できる。
: 「あやうく、フロバ用のタオルを忘れるとこだった。もし、みんなが、タオルでこしをかくしてはいるようなら、ちゃんと、タオルをもっていかないとだめ。てぬぐいだと、ぬれればすけてみえる。〈中学の修学旅行のときはチジョク。)」  笑。  ちゃんと思いだせてよかったね(^^)  display『1973/05/01 修学旅行には』にある通り、半年前から心配していたんだよね。  しかし、はっきりとは覚えていないが、さすがに高校二年生にもなればもう子供ではなく、前を隠したまま湯船にまで入ったりはしていなかったのでは、級友たちも。
: 「また、中学校にいくようになった夢。■さかさんを西千葉で見かけ、あの人も■中だった、と思う。(現実はちゃう。) ■沢は千葉から関西まで新幹線で通学。こまかいの忘れる。」  ■さか嬢、■沢君は、高校の級友たち。  ■中は、西千葉にあったwaka君の母校中学。  新幹線通学というのは、朝になったら、新幹線で関西へ向かうことの反映でしょう。
: 「おととい1時間半しかねなかったため、きのうぐっすりねたので、今日は、なんか、よくねむれないみたい。」  修学旅行直前でたかぶってもいるか。  次項から、エンピツの仮メモで、走り書きになっていくので、本項が出発前の最後の記事かと思う。
: 「右足 とれるようなイタサ」 「ゲヒた ゲヒ」  横向きなのでいかにも、あわてて急いでメモしたふう。  右足を痛めた事情は不明。(焦って移動してどこかでぶつけたのかな)  ゲヒた、は、下卑た、げびた、といいたかった?
: 「京の女の人の言葉づかいは美しい?」  記載が、時間的にまばらとなっているようなので、もう京都に着いてしまったのか、 新幹線の車内などで土地柄の話題がでたりしたためなのか、どちらともはっきりしない。
 ★ 記載がまばらになるというのは、書くべき事がないときもそうだろうけど、色々忙しすぎて(おしゃべりしたり夢中になったり興奮したりという場合もあるだろう)書いているひまがないときもそうなるはず。  以下、修学旅行中は、どうやら、後者のほうらしい。ときどきのエンピツメモがやっとで、とても清書までしているひまはなかったという様相。(終日集団生活だから、一人でノートを埋める時間も場所も見つけづらいということもあったと思う)  (これは、記録という行為の矛盾でもあるんだよね。書くべき事をほどほどに経験できているなら、一つ一つ丁寧に記録に残せもするだろうけど、押し寄せるように後から後から生起しているような経験の中では、書いていられないよね、ふつう。それをあえて書くなら、体験できることをいくつもキャンセルして時間を作らねばならないということにもなる。そのときにしかない経験なのにあまりにもったいないでしょう。事後しばらく経ってから思いだす、ということはできるだろうけど、鮮度とか精細さは落ちる。記憶力も必要そう。思いだして書くという面倒、困難を上まわるような動機もなければね。なにより、随時に記録できないほど濃密な経験の集積、かたまりって、どうやって文字にできるのよ。できたなら、書くことの達人の域かも)  (とはいえ、waka君の修学旅行の経験は、そこまで大それたものではないけどね。ちょっと語りすぎた・・)
: 「よこはまのおばさんは関西うまれ?」  父の兄の妻、父の義姉のこと。関西人の言葉に触れて、この抑揚は聞いたことがある、そういえば、と横浜のおばさんを思いだした、のかな。
: 「心を じ だって。」  単にそれだけのことなのかもしれないが、例えば、掛け軸の文字を読みとろうとして、とか、心字池をみて、とか、そういうときのことなのかもしれない。  ちなみに、修学旅行の日程(あとで掲載)をみると、waka君のクラス、2Aは、初日19日、午後に京都着。大原の里三阡院、寂光院、仁和寺などを巡ってから、夕方宿に入るという行程。
: 「京の古寺に自動者があるとおこっても、文明のものを皆、排折したのなら、それもまた、つくられたものだ、と思われるだろう。(文明の中にあって、文明の影響をうけぬもののあるはずなし。なのに、ここにはない。つくられたものだ。)」  自動車。排斥。でしょう。  次項はもう20日だから、修学旅行初日の記載はここまでの数項だけ、ほとんどなし。(夢では新幹線がでたのに、往路に乗った実際の新幹線の記載、全くなし。まあ、中学時、万博に行ってるので初めてじゃないけれど)  観光案内、テレビ映像、そういうものではカットされる部分も、現地では目にすることになる。古寺と自動車の取り合わせとかも。脳内でカットして見るのか、あるがままを見るのか、どちらもありだと思う。(あるがままがいつでも正しいとは言えないと思う)
: 「洋式トイレはいったけどなんも|キバレヌ|不安」  ほう・・ 当時は、和式がスタンダードだったんだ、waka君の環境(家でも学校でも)。現在は、和式はまれ(自室でも職場、駅でも)。
: 「スキといわれたとき、あまずっぱいというよりはあまにがい」  よくわかりませんが、友との語らいで、そんな話題が?
: 「枝折って、恥持ちあるく人や 誰れ   ちょっとまて、〜〜してから もう1度   なんてのは、何という?」  標語、か。枝折ってはwaka君の即興というよりは、園庭にあった注意書きのようなものでは。  (桜や紅葉の枝を折って持ち歩く不届きをいましめているものだが、ごく最近になってからの常識だろうね。伊勢物語、交野の段では貴公子たちがこれをやってます)  ちょっとまては、ちょっと待て左右みてからもう一度、みたいな交通安全関係か。火の始末とか戸締まりとかでも使えそう。標語という語が出てこなくて、引っ張り出しただけだと思う。
: 「しゃこうきどぐうの目「Θ」は仏像にもある。 昔の人は、あんまり、外をみる目は不必要? 心の目があった?」  遮光器土偶なんてどこで見てるんだろう。行程表では、博物館には寄っていないようだが。  仏像はあきるほど見ていそうだから、土偶のほうは連想したのかも。  気づきづらいけど、偶像崇拝ということでは、同列といっていいのかもしれない。  にしても、生徒、学生は、むりやり理由付けをしたがるような。日頃、そういう訓練を受けているから、致し方ないけれど。
: 「甘酒20円、というのでこれは安い、と思ってください。そしたら、はい、120円ね。 ふりむいて、甘酒20円とあった紙にふりむくと、すこし、まるくなったかげをあわせみれば120円。でもうまかった。  世の中、こんなに甘いものかと、甘酒かったら、120円。甘酒のんで、また世の中に甘くなる?」  これは安い、と思って、くださいと言った。そしたら、ということでしょう。  小さな失敗だけど、世の中、こんなに甘いものかと、甘酒かったら、などと語呂よく自嘲して、楽しんではいるな。
: 「ゆうしてっせん てつじょうもう >?」  何がちがうの、という疑問。  辞書を見ると、針金のとげをつけてより合わせたものが有刺鉄線。  有刺鉄線を張りめぐらしたものが鉄条網。電流を通すこともある、とか。  見学で出くわしたのなら、有刺鉄線(まで)だろうね。
: 「キリカエ  キリカシ キってかす?  カシキリ | カシキリ(貸切)を(切貸)とよみ、つぎにキリカエとよむ?」  これはたぶん、移動で乗っている観光バスにかかげられた札(行き先表示がそうなっていたか、フロントガラス辺りに貼付された札か)を見て。しかもそれを裏から見て、かな。
: 「「和」  おれ(ワカ■■)の字だ おれの字だ おれんじだ おれんじ」  自分の名前の漢字だ、ということを言ったんでしょう。口にしたときは「おれんじだ」ぐらいになっていて。  で、言ってみたら、短縮ぶりが美味しいと気づいて。
: 「イコウ イカフ イカフェ エカフェ」  これも似たようなものだけど、こちらは不発気味か。
: 「おれ なんか もう つかれた。」  おれなんか+もうつかれた おれ+なんかもうつかれた  → なんかが、前後どちらにもつく、といいたい。  見学疲れのつぶやき、waka君、あるいは友のか。  寺とか庭ばっかりだもん。十六七の青少年は飽きるよ、そりゃ。
: 「サケのんでフロハイルとなぜ青くなる??」  たしかアキラが、飲酒を疑われたとき、先生が「お前、青いぞ」とか言ったのでは?  アキラ、ほんとに飲んでたはず(^^)  ページ下段にでてくる■■ナベ君がアキラ。  しらべたら、アルコールも入浴も血管を開く作用があり(血圧を下げるので)、相乗すると貧血をおこしやすい、とのこと。
: 「雲を雪山とマチガエル」  これは文字をまちがえたのではなく、遠くにある景色を見まちがえたということでしょう。  この書き方だと、実景は雲のほうか。
: 「タ■■さんはいくつなのかしら?」  何度か将棋をさしたりしたタ■■嬢。  同クラスなんだから同学年、同い年のはずだが、年上と感じるようなことがあったのか、どうか・・  事実年上なら、小中高どこかで留年とかがからむわけだけど、結果的にこれを確かめることはなかった。  (これを書いている時点で、彼女も、同じ旅館のどこかの部屋にいる)
: 「女体 にょたい じょたい」  だんだん夜っぽいメモになってます。
: 「マックシェイクをハンバーグの一種かと思った。」  これも友との会話にでてきたか。  こう書く以上、waka君、見たことも口にしたこともなかったもよう。  思い返すと、その後、半世紀経ても、まったく縁が無かった。
: 「はじかむ。 はにかむ」  はにかむ、という語をおもいだそうとしてまず、はじかむ、が出てきたのでは。  しかし、案外もしかしたら、語源的に、はにかむには、はじかむが、からんでいそうな・・
: 「先生とのかかわり、 おこる」  こうメモしたってことは、なにか、叱られるようなことをやらかしたか。
: 「こぶり こやみ >? アメのこと」  小雨のことで同じ、ような気が一瞬するけど、こやみは、少しの間ふりやんだときのことだわな。
: 「すいえんは《絵》の1枚と思っていたら、《絵》が4枚あるのだと。」  水煙。奈良、薬師寺か。A組は、三日目21日の夕方頃が予定。(当時は東塔のみで、西塔はまだ再建されていない)
: 「坂■は若い頃、アナウンサーになるかもしれなかった?」  若い頃、といってるから、級友のだれかではなく、坂■先生だよね。呼び捨てかい。
: 「タ■■さんは■■ナベ君が好きなのか!? オレ、三枚目  オカ■くん タ■■  オカ■君、彼女がぼくを好いてるみたいだ」  21日の晩だろうから、三泊四日の三泊目で、明日はもう千葉に帰る。夜は男子も恋バナ気味のようす。  ■■ナベは同姓が多いが、ここの■■ナベ君は、アキラ。見た目がチャラ男っぽいが、男女関係は大人なやつだったか。  オカ■君は、にきびづらだけど坂本九似で、色男的な性格。実際女子の取り巻きもあったような。  つまり、タ■■嬢はわりと人気があった。今思えば、和風な顔立ちで、おっとりした雰囲気だったけど。  それにしても、彼女がぼくを好いてるみたいだ、というのは色男のセリフ。waka君、たじたじ。  (実は、この晩の、このあたりのやりとりによって、恋の鞘当て的には、waka君が尻尾を巻いてしまったという雰囲気になるのだ。  何度か将棋をさしたりしてそれなりに仲が良かったはずのタ■■嬢に、修学旅行ののち、しだいに、オカ■君がアプローチの度合を上げ、嬢もまんざらではないようになる。少なくも、waka君からは、そう見えるようになっていく。  外見上はひっそりとした、失恋が始まっている)

※ 『1973/11/19 旅行のしおり』 :
◆表紙、表紙裏(白紙)は、省略。
○目次、掲載。
◆目次裏(白紙)は、省略。
○関西修学旅行の意義と目的、旅行の心得と諸注意(1〜3頁)、掲載。
◆修学旅行における生徒役員の任務、京都市外出区域地図、修学旅行団の編成(4〜6頁)、省略。
○日程(7〜10頁)、掲載。
◆修学旅行班別表、部屋割表、平新旅館平面図、京都奈良案内地図、京都・奈良見学旅行のための日本文化史年表、新幹線座席表(11〜27頁)、省略。
◆新幹線座席表裏白、裏表紙裏(白紙)、裏表紙(白紙)、省略。
: 「旅行の直前にぐあいわるくなったから、やめる。  いかないなら学校に連絡せよ。学校から、旅行団に連絡。」  「あそぶつもりでいったのではおもろくない。」  この旅行のしおりを各人に配布して、修学旅行の事前説明会のようなものがあったはず。(たぶん、クラス単位で)  そのとき、先生の話を聞きつつ、waka君がエンピツでメモしたもろもろと思われる。  目次下段にあるこれらは、waka君の考えではなく、先生の発言ほぼそのままの、抜き書きだと思う。
: 「「みんなでひとりたびにいく」という精神。」  これも先生の言だろう。わかるようなわからないような。
: 「旅行の心得と諸注意 ・・・ 4 携帯品 a 携帯物品」に「ハ、旅行のしおり及び「京都・奈良」」とある。このしおり以外に、「京都・奈良」というパンフか冊子があったみたいだ。
: 「8 自由行動時間 ・・・ j 喧嘩・口論は絶対にやらない。」に、「口論ぐらいしたっていいじゃん。」と付記。  これはwaka君のつっこみですね。
: 「部屋にふとんをしいたら、もう男女の部屋の往来をさける。常識として。」  「部屋に男女二人だけになるな。 男女二人だけで、外出するな。」  「金はわけてもっておく。」  「どうしてもかいたいものがあって金がたりなくなったら、武士のたしなみで(先生がだしてやるから)相談しな。」  この辺りは、先生の念のための注意と助言てところか。
→ 禁止事項がたくさん印刷されているけど、一つ二つぐらいは守らなくてもいいや、と考えていると思う。  各人が。  で、実際には、二つ三つぐらい守らないことになったと思う。  各人が。  そうなると、学年の生徒は三百人以上いるので、ほとんどの項目について誰かしらが破っていた、逸脱していた、ということになっていたかも。
: 「11月21日(水)」  A、B組。奈良コースにある「薬師寺」に付記して「ぶっそくせき」。  『1973/11/18 宇宙人はこんなかたち。』の2頁目上辺でメモされていたもの。  いちおう、観覧はできたってことでしょう。
: 「11月22日(木)」 「11/24は平常」  この日、修学旅行から帰還。翌日は、11/23(金)で祭日(勤労感謝の日)。  その次の11/24(土)は平常どおりの授業、ということのようだ。
: 「オモーさま オマーさま」  おもうさま(お父様)と対になるのは、おたあさま(お母様)のはずなんだが、何か聞き違いか勘違いがからんでいるか。  オモーさまを母親のことだと思って、ならば、オマーさまに変化してもいい、またはオマーさまが語源的なものでは、などと想像しているのかも。
: 「N ニシ■■? T タカ■■? → T タ■■? K カ■■? T タカ■■?  ・・・・ぼ  }そう状態」   懸想関係図だと思う。左のNT二名が男子、中央のTKT三名が女子。右の ぼ は僕だね。全員2年A組のクラスメート。  旅行中に何かあったか、気づいたか。  詳細不明だが、少なくとも、タ■■嬢、カ■■嬢、タカ■■嬢に、僕=waka君が好意を抱いているのであって、逆ではないな。  (?マークが付いているのは、他人に悟られぬようペン書きでイニシャルだけ書いておいたんだけど、あとから読み解こうとしたら自分でも誰のことか曖昧になってしまったってことかもね)  そう状態は躁状態、気分が変に高まってしまった、と。旅の非日常もあって? (自覚できたということは、ネジがぶっとんだりまではしていないのでしょう)  とはいえ、もう最終日だけど。

※ 『1973/11/26 ひざがいたくなったのは、』 : 「コン■■君に、将棋入門」  頁上辺のエンピツ書きメモ。  修学旅行でよく話をするようになったコン■■君。将棋に興味を持ってくれたので将棋入門の本を貸そう(または貸してと頼まれた)というメモかな。  でもこれ、将棋入問と書いているかも。
: 「修学旅行  ■沢、「山田の中の一本足の〜」を、 「中野の中の〜〜」としたよ。」  まちがえてかわざとかそんなふうに歌ったよ、と。  ■沢君は、『1973/11/18 宇宙人はこんなかたち。』2頁目の夢の中で、千葉から関西まで新幹線で通学した■沢君と同一人。
: 「よこはまのおばあさん、ときどき、ぼくの学校から帰ってきていることを知らなかったり、よく覚えていなかったりすることがあって、おじいさんが、ワカ■■かえってますかなどときくとき、いえまだです、と答えるのを、何度か聞いた。」  横浜のおばあさんは父の母。すこし、ぼけてきちゃうんだよね、そういえば。今の私はそれを、おぼろにおぼえているけど、いつ頃からだったかなどは記憶にない。ここを読むと、当時すでにきざしが出ていたってことになるのかな・・
: 「ひさしぶりにお西より電話。冬休みの同窓会のこと。」  お西は中学の同級。高校は別。  (これまでの心記の記述から)山やオカボとはしばしば会っていたようだけど、ここでひさしぶりにと書いているから、お西とはしばらく会ってなかったんだね。  高校は別でもしょっちゅう会ってたように思ってたので、少し意外。  今、ざっと検索したら、「→ お西とも3/26の午後に自転車にのってあそんだのだ。」 これが前回お西の登場した記載。これ高校一年のラストだから、これ以来だとしたら、八ヶ月ぶりってことか!
: 「気がふれる  狂○ 触×」  気が狂れる、という書き方、ありらしいな。
: 「右のひざがいたい。ほねがちょおっとずれたか。」  右領域で、絵入りで追記している。
: 「偏頗 :へんぱ」  えこひいきをすること。  にしても、むずかしい語。書物で目にしたか。
: 「ひんしゅくを買う  どういう意になるのだろう。 理屈がつくのだろう。」  ここの買うは、怒りを買う、といっしょの用法。  自分のしたことによって好ましくない結果を招きよせることを、いう。  買う、は語源としては、代う、換う、らしい。  そのあたりが色濃く出て(あるいは残っていて)、自分のやらかしたことと引き換えにひんしゅくをもらった、ということになるようだ。
: 「稗史 はいし を「ひし」とか「りし」とよむ」  これも難解な語。いったいどんな書物を読んでるんだろうね。
: 「生来 せいらい しょうらい」  どちらのよみもあるらしい。意もほぼ同じ。
: 「閲、閲して  えつして けみして○」  閲する、は、えっする(音読み)、けみする(訓読み)、の二つのよみがある。
: 「抛 抛ホウ を 抛とみる。」  1字目、2字目は、中央が九ではなく、尢。  手元漢和辞典では、親字は、中央が尢なのに、熟語では中央が九になっていて、不統一。どちらが正字かハッキリしない。整理不全、または誤植なのかも。  当サイトのこの本文では、中央が尢が正字、抛が誤字、という扱いに思われるが、デジタル文字は、抛しかない模様。
: 「あきたらない、  あきるのが足らない× あきて、足らない○」  あきるほどたりる、の否定だから、飽きるほど足りてはいない、足らず飽きず、ということ。  よって、本文の○×は、どちらも○とはいいがたいと思う。  → 足らないのは対象の何かであって、飽きること自体を求めているわけではないだろうから、前者もせいぜい△。  足らないので不満である、そこで興味を失って飽きてしまった、というような雰囲気をともなうため、後者の、あきて、足らない、が出てくるんだろうけど、錯覚のたぐいということになりそう。
: 「粋 すい」  いきも粋と書くよね。  すい(音読み)と、いき(訓読み)、辞書を見ても、ちがいがあるのかないのか、ハッキリしないな。
: 「「文学が近代人の精神生活でこれまでの宗教に代る役割を果す」」  「 」書きだし、送り仮名が古風だしで、書物からの引用の可能性高し。
: 「ひざがいたくなったのは、 ・・・ 」  絵入りなので言いたいことはよくわかる。  なぜ痛くなったのかの答えとしては、どまんなかをはずしている(説明不足のような)気がするけど。
: 「坂■先生が、修学旅行のことについてはなし、 みなくてもいい生徒の悪い面を発見するし、自分の悪い面もみせてしまうから、修学旅行にはいきたくなかった。 でも、いい面も見る。ちょっとろうかをまがったとき女の子のへやのスリッパを一人でだれもみていないときかたして、せいりしていた、わがクラスのある女の子がいた。こういうのは私がちゃんと覚えていますから、とくですね。」  「どうして、「とく」であるように生きる、という考えがかいまみられるようにいう。ほんとに、そう思ってるのか?」  waka君は、先生が「得」と言ったとうけとっているようだが、それで異和感をもったような書きぶりだが、先生は実は「徳」という言葉をつかっていたのかもしれないね。
: 「おじいさん、ふとんにはいってうちわをつかっている。  ストーブはいちおうついているが、ふすまもしょうじもあいてるし、11月もおわりなのだ。」  母の父。おじいさん、何かちぐはぐなことしてる。  それはそれとして、おじいさん、夜じゃなくても、布団で横になってるのが好きだったよねえ、思いだすと。布団で横になってテレビ鑑賞(相撲)が大好き。相撲中継だからまだ晩飯前。大学野球や、夜はふつうにドラマや映画も。  ここら辺はしっかり、waka君に遺伝している気がする。安楽好きというのか。観戦、観劇好きというのか。

※ 『1973/11/28 アパラチアの位置は?』 : 「フランスと書こうとすると、ラ(ランス)と書いてしまう。つまり、「ラランス」と書いてしまいそうになるが、「ラ」まで書いて筆をとめるのだ。フをなぜか、ラにする。」  フとラの発声指令が強弱で前後したような。線の相似も絡んで、ささやかに乱れた、という感じ。  乱れた信号が一回通ると、その回線が通りやすくなってまた、ということもありそう。
: 「倒をどうしても■としてしまう。」  ■は、にんべん+致。こういう字はない模様。
: 「アパラチアの位置は?」  ここの図よりも、もっと東海岸よりが正解らしい。カナダにもかかる。  マチガイ(西海岸寄り)のほうは、ロッキー山脈だろう。
: 「アルファベットでなく、日本語を使用した方が覚えやすい?   (a+b)2=a2+2ab+b2  (アタイ)2=ア2タ2アイタイ  )もっと他に列は?」  発想が異常だよ。覚えにくいのが多そうだぞ。  (なお、日本語数式のラストはイ2のはず。また、〔もっと他に列は?〕は〔もっと他に例は?〕と書きたかったか)  (そもそも日本語を使用するのが難儀か。しかしそれを言ってしまったら、アルファベットが母語である国の人々はどうなの。こういう代数は使いにくいのか、易いのか? これは感覚がちょっと想像できない。上の日本語化のような感触なら、扱いづらい生徒はきっといそうだ)
: 「ザットコが、中間テスト以後前の席になり精神的にも前より身近の人となる。」  ザットコは人の名(あだ名)。  それはわかるんだけど、誰のことだったのか、当時のクラス名簿をみても見当がつかない。  姓名由来だと思うんだけど・・
: 「今日の朝、カバンのひもが切れちゃった。」  白い、帆布製肩掛けカバンをつかっていたはず。この紐、数ヶ月に一度は切れていたような。  (結んで直したか、ほつれたところは切り落として金具部分で留め直したか)  これ以外に、黒い手持ちの学生鞄、薄地の手さげまで持ち運んで通学していたかも。自転車だからなんとか。  (どうしてもうちょっと省けなかったのか今となっては不思議だけど。融通が利かない、運べてしまえたから、習慣、などがあるんだろうけど)  (ロッカーにとりあえず使いそうにない教科書やノートを置いておくなどの工夫で、二つぐらいには減らせたかな、そのうちに)

※ 『1973/11/28 かっこよすぎ、というか、』 : 「このごろ、朝ごはんの前までねてるとか、ちょうどいいように、学校のしたくをするちょっと前の時間におきる、とかがない。いつも、予習がしていないので、6時とか、7時とかから机で予習。前の夜はねむってしまっている。   あすは、朝、ねていよう。つまり、今勉強だ。」  つまり、これ書いているのは夜だな。
: 「ぼくがいつもつかっていたカガミの方が、下のひきだしにしまっていたのより表面がよごれて、なんかサビみたいのがくっついている。ひどいつらを|みせ|うつし|すぎた? にきびをうつしすぎた。」  卑下するのがいつものことになっているようだが、見ようによってはなかなかのイケメンだったと思うんだが・・
: 「映す 移す >顔の像を鏡の上に移すことが映す。 2つの「うつす」にはつながりあり?  はじめ、移の字はまちがった字かと思ったよ。」  辞書でも、映す、写すは、「移す」の意から転じたものとある。
: 「11/27第2項以来のヤル」  間隔が短くなって健康的か。  というか、射精したら全部記録することにしたのかな(^^;  (現在も、そういう記録をつけているが、当時からずっと(つまり半世紀)そういう記録づけを継続してきた、という記憶はないな。十年単位ぐらいで言って断続的に、つけたりつけなかったりだったような気がする)
: 「きのうフロで頭を3度も洗う。ボッサボッサになったのでタオルを2枚まいて、ねおし。朝おきてみて、鏡をみたら、かみの毛、ぺっちゃんこ、自分の顔の3枚目であることを痛切に感じる。」  それでもまだ、ふさふささらさらした髪のあった頃の話。
: 「tsu を thu ths のようなものと思ってしまう。」  ローマ字と英語をごっちゃにした、ということ?  次項に関係して、辞書引きの際、つ(tsu)を引きたいのに th- でさがしたよ、かな?
: 「なんで和英辞典はローマ字で引くのだ!! 日本語のアイウエオでやりゃいいのに。」  和英辞典、高校時代ですらあまり使わなかったので、持っていたそれがたまたまそうだったのか、和英辞典はどれもそうだったのか、よくわからない。  日本語から英語を導くのだから、あいうえお順に載せよ、というのはもっともだと思う。  → それにしても、現在頻繁に使用しているATOKイミクルのような、デジタル辞書の便利さありがたみ、感じます。昔の辞書引きの手間と比べると、つくづく。  (うーん、現在、高校生とか学生生活をしているなら、ネットとかパソコンとか縦横に駆使できるわけだから、勉強がやけに楽しいような気がする。実際、今の学生たちはそうであるのかな、あるんだろうな。うらやましい)  → そうか! もしかしたら、和英辞典、外人さんが引きやすいようにアルファベット順なんて伝統があったのかも!? そうか・・ 


当頁 2022/09/05(月) 〜