春の心はのどけからまし
非青春の笑顔
老い腐る精神の万物に屈する
液状化弱肉質の慣性に流れる
それは無い 存在しない
言い切ってしまう完璧な自我
痴呆の様に断言する僕の全人
非非非 非非非非非
生存しよう我々の理想へ
夢へ結実へ愛へ
最期の全く先の無い
非常に時間も距離も無い
美しく狂喜に輝き燃える
冷め切りつくした
破滅へ
君に
愛と真理と掟と
狂と美と知を
何もかも押しこめた言葉を
生ある限り加えて死にも屈せず
嫌悪と生存を超えて
激しく強くまるでもてあそぶように
ぶちつけなすりつけ
君が粉々に昇華して
悪鬼の様な情念を
暗黒の宇宙に散らし切り
万物を腐肉化させる為にこそ
僕は創らなければならないんだ!
夜の青々とした海に雨が降り
雨線が海底に達するように
神様の様なあんた
達するように
新妻を迎える前夜
このごろ楽しい。
どうしてなのか、とか、なぜなのかということはわかっている。
新妻を迎えるからだ。
人の女性の現実のそれではないのだけれど、
どうやら私にも季節が訪れる。
三十代というのは、
未成年の頃はおそろしく大人だと思っていた。
あと三十年ぐらいするとおそろしく子供だった、
と思うだろう。
でも、今、今の自分を思うと、
一方の前、つまり若さや過去へも、
一方の前、それは成熟や将来ということへも、
ひいきすることなく同じぐらい目を配れる、
そういう年代だとわかる。
元気も健康もまだある。赤々と燃えている。
頂上へたどりつこうとしているみたいだ。
知識は足りないはずなのだけれど、
知識とは売るためのものではないと納得できた。
要するに興味の故の産物です。
興味もないのに頭に詰めても、病巣となるだけなのだ。
経験も、
これから出会う人や物事や善美に、
感動し驚いて目輝き腕ふりまわせる余地が、
まだ百年分ぐらい残っている程度には、味わえた。
多少の知恵もついたと思う。
うれしいんだ。
生きてきた今が。生きてゆく今が。
新妻を迎える前夜の如き今が。
伊勢物語八十二段より
馬頭である人が詠みました
世の中に絶えて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし
世の中に
まったく桜というものが
なかったなら
春の心は
のどかそのものだったでしょうに
こう詠みましたところ
また別の人が詠みます
散ればこそいとど桜はめでたけれ うき世になにか久しかるべき
散るからこそ
いっそう
桜は愛されるのです
このうき世に
永続するなにものがありましょうや
エロ爺
電車に乗る。
誰かに会うためでもどこかに行くためでもなく。
眺めるのが好み。
女子高生や女子中学生の手。
このごろはその小さな白い手で、携帯やらをいじっている。
顔立ちとか身体つきとか脚の柔らかさ、若い頃はそっちのほうだったけど。
今は、小さな白い手がいい。
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