ひみつの文子ちゃん
まだ小学校。
わたしは、親にあまりかまってもらえない子供だった。
見たばかりのほんとの夢や、夢みたいお話やたくさん聞いてもらった。
冷たいなってときは、白線のはいった帽子をさっと奪って車内を逃げ回ったり。
それで、「ぼうずー」って、からかうんだ。
※ ※ ※
まだ結婚してなかったんだ。
ああ、あ、おじんになっちゃって・・
見るかげもないってこのことじゃないの、まったく。
しばらく、反り返って、笑ってた。
おばさんは、当然だけど、なにがどうしたのかわからないようだ。
とりあえず、わたしを叱った。
「いけない子だよ。人の写真見て笑うなんて。おまえだって、もう若くはないじゃないの」
首を振った。激しく。
「いやでござんすか。いやならいいんだよ、いやなら」
「ううん、ちがう。会ってもいいよ。かわいい、この人」
そうしてまたつくづく眺めているうちに、ぶり返してしまった、笑いの発作。
※ ※ ※
あの三月。
くもり空の朝、お別れの日。
わたしは、ランドセルを開けた。
おもちゃのコンパクトをとりだした。
お願いするとね、おとなの女の人になれるから。
いまお願いする、待ってて。
ねえ、待っててよ。
お兄ちゃんは、うなずいた。
わたしはうなずき返して、目をつむる。
呪文を唱えた。
一度だけでいいです、かなえてください・・
からだが変化するのを、じいっと待ってた。
そうしていたら、わたしの頭をなでた。
お兄ちゃんの手が。
あっちゃん。元気でな。
近いんだから、また会えるさ。
鏡のわたしは、小学四年生のままで、ゆがんでいて、泣いてた。
バスが停まってしまう。
また走り出す。
お兄ちゃんの黒い学生服が、横断歩道の前に見えた。
手を振ってくれた。
わたしは赤いコンパクトを握りしめていた。
それっきりだ。
うそつきだった。
魔法も。
お兄ちゃんも。
※ ※ ※
そう、おばさんが、そのお見合いの話を持ってくるまでは。
二度三度会っても、藤田さんは、全然気づかない。
あの頃、友だちが面白がってアッコちゃんと呼んだ。名前が同じになるので、わたしも多少舞い上がっていたな。
それを聞いて、お兄ちゃんもあっちゃんと呼んだ。数えられないくらい、あっちゃん、て。
でも、誰も正しい本名は言ってくれなかった。
「文子」と書いて「あやこ」って読むのもあるんだろう、藤田さんの頭の中では繋がってくれないらしい。
それとも、なにも覚えてないの?
まさか。
ほんのちょっとのきっかけなんだよね、きっと。
いつばれるんだろう、今日かな、次の瞬間かもと、緊張の連続。
同じ市内で育ったことや、子供のころのこと、少しは話したんだけど、にぶいんだよ、もう・・
でも、その日、お店に入っても、口ごもってるふうで、藤田さんは長いじかん黙っていた。
「・・・昔のことだけど・・・」
やっと思い出してくれたのかしらとからだじゅうがきゅっと締まった。
けれど、ちがって、それは「昔のひと」の話だった。
※ ※ ※
・・・・・というわけで、ひとりの女性を十年以上、愛した。
こういうことについては、根気がいいほうだと思う。
いいか? おれで・・・・・
わたしは、藤田さんがせっぱつまって苦しそうなぐらいだったから、
はい・・
と、こたえてあげた。
なるたけしおらしくって、思ったよ。
けど、いつ正体を明かそうか、どんなタイミングで教えてやろうかってはち切れそうだったんだ。
すんなり行って、ほっとしてる藤田さんを見ているうちに、決心した。
冷静になってきた。
すぐには教えてやらない。
気づかないほうがいけないんだ、ぜったい。
・・・根気がいい?
どこにいるのかと思っていたら。
薄情女にひっかかってた、そういうわけか。
十年以上ね、そう、ふうん・・・
わたしは、二十年以上だ。
まいったか、バスのお兄ちゃん。
椿森小学校四年一組
いいむら あやこ
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