三角形の面積は・・
小学校の中頃の話。
学校が楽しかった。勉強はゲームのようなものと感じていた。
食べ物に好き嫌いがあり、身体が細い少年で、運動では取り柄がなかった。が、元気で声は大きく、級長などよくやらされ、男子にも女子にもおおむね好かれていた。勉強のできる子、ということで、大人達にも信頼されていた。
・・と思う。
風邪をひいた。
そのくらいで楽しい学校を休むわけはなかったけれど、そのうち、肺がちぢむような咳がしきりに出るようになった。痰を絞り出すのでみぞおちが痛いくらい。
体温計をみて、母親が、明日は休みなさい、と決めつけた。
「いやだ」
「お母さんの言うことがきけないのか」
「・・やだ」
翌朝、三方が襖の畳の部屋に布団が敷かれて、寝かされた。
隣の、窓のある明るい子供部屋のほうは、母親が箒で掃いていた。
反対の隣は居間で、テレビがあった。
母親が棟続きの仕事場に行ってあたりが無人になると、みんな閉め切ってある襖のうち、居間の側に隙間を作って、そこからテレビを見ていた。
しばらくすると、様子見に戻ってきた母親に見つけられた。
「目を使うのが一番いけない。病気なんだからとにかく、目つむって寝てなさい」
げんげんと咳をして、布団に潜り込んだ。
ことこと煮て、玉子やワカメ入りのお粥をつくってくれた。
どちらかと言えば、腹をこわすことのほうが多かったので、病気のときはお粥というのが母との約束事みたくなっていた。
風邪だから、もちろん、ただ美味かった。
病院に連れていかれた。
決まり事のように、注射を一本。
着替えにもたついていたら、次の番の、少し年下の女の子が、針を刺される前から涙ぐんでいた。
二日目になっても熱が下がらなかった。
お許しは出ず、寝たまま。
学校のことを思うと、心配になってきた。
ランドセルを引っぱってきて、母の目を盗んで、枕の横で教科書をすこし開いて読んだ。授業はこのあたりを今やってるんだろうな、と思いながら、国語や算数や社会や理科や、・・先生やみんなや教室の様子を思い浮かべながら、内容を理解しようと努めた。
ほとんどは、大丈夫、と思えた。
だけど、得意の算数だけ、困ったことになった。
学校では、三角形の面積という新しいところが始まっているはずで、何回か読み直すのだけど、先生の説明もなく自分だけではうまく理解できなかった。
取り残される、という気がした。
でも一日か二日なら、と思った。勉強好きの友だちにちょっと尋ねれば、ああなるほどね、とモヤは晴れそうという見通しだった。
しかし、三日目になっても、だめだと言われた。
咳が止まってくれない。泣きたくなった。
「お前、教科書みてるでしょ。勉強は悪いことではないけれど、今は治すことが先。ちゃんと静かに眠ってなさい。・・ラジオなら聴いていいから、ここにおいとくから」
と、NHKに合わせて、仕事にいってしまう。
大人の人たちが、事件や政治やなんやら話していたが、三角形の面積が気になって、消してしまった。
どこかに隠されたかと思ったけれど、ランドセルは子供部屋に放ってあるだけだったから、算数の教科書を持ってきた。
四角形を二つに割って三角形にするというところは、よく分かる。
が、平行線の上を頂点が移動しても、底辺が同じなら、そのどの三角形も面積が同じ、というところが、不思議すぎて、信じられない感じがした。
こんなにひしゃげても・・?
気が付くと夕方だった。
やっとお許しが出て、ランドセルを背負い、勇んで出かけた。
こいつならという友だちに、三角形の面積の授業のことを訊いた。
三日の間にほぼ予想通りの進み具合だったけれど、ひしゃげても面積が同じという不思議さに及ぶと、その友だちも言いよどみだした。授業で質問すれば、とか逃げる。
待望の算数の時間が来た。
先生は、みんなが声を上げる中、小テストの用紙を配り始めた。
この三日間で教えたはずの三角形の面積についての出題だった。
不意打ちにみんなはうろたえたのだろうけど、いきなりということではこちらは輪をかけていた。自信がなかった。とにかく鉛筆を持った。
翌日。
算数の時間。
その小テストが採点されて、戻った。
最初に名前を呼ばれた。見ると、100点だった。
驚きながら、次に呼ばれた女の子のを覗き見たら95点。
席に戻るころには、湧き上がってくるものがあふれそうだった。
からだを揺らした。
100点はもういくつももらっていた。
でも、この100点は違う。
椅子に乗った。答案を振った。
机に片足をかけ、やった、やった、と声に出して、答案を振った。
※
思い返すと、優秀な学童だったかもしれないが、先生は困惑していただろうな、と感じる。
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