幽体離脱
夢の一種なんだろうと思っていた。
天井のちょうど角、左右の壁も収斂する、内なる直方体の一つの頂点。間近に私の眼は張り付いていた。行き止まりなのかと思いながら。振り返れば、ずっと下の方で布団に寝ている。小さな私が。すぅすぅと眠っていた。
家の中の天井近くをさまよった。
息が詰まりそうで、ああ、ああ、といきんでいると、いつかこれら障害物を透り抜けて、真夜中の空を漂っていた。泳いでいた。家々の屋根が、輪郭だけ、瓦ひとつひとつがうろこのように、月明かりにか街灯にか、浮かんでいた。
子供の頃、こういうのは、当たり前のことだった気がする。
飛ぶ夢は、そのうちに見なくなった。
※
うたた寝から醒めると不気味な細動が続いていた。
機内はざわついており、二三人が声を立てたとき、視界が激しくぶれ、人間が前方へ飛ばされた。
私は頭頂部を打ちつけて呻いた。
見回すと血だらけの乗務員が、緊張で、削げている高い声でなにか言っている。
怒号がした。子供が泣いた。
顔の前に邪魔なものが当たったが、酸素吸入の器具らしい。
虚空に吸い取られるふうに揺れた。吐き気がした。足元にキーボードの見える板が滑ってきた。
呼吸困難な気がして器具をつけたが、精神がおかしくなりかけていたのだ。
しばらくは静かだった。
震動は続いて、女が耐えきれず悲鳴を上げる。
翼のそばの何人かが騒いでいる。
激発がまたあって、腹がベルトでちぎれそうになった。
口から汁が飛び散って、あえいで、あえいで、・・・
あと十分で空港だから落ち着いて、と、アナウンスがあったはずだが、見渡しても陸地はかけらも見えなかった。
エンジンは二機程度が燃えており、黒煙がたなびいて、空も海もかすんでいた。
壊れようから見ると、人為なのだろうか。
もともとは姿よい機体が、今は無理に犯された処女だった。正視に耐えない。
不意に遠のいたと思うと、浮かんでくる。かしいだりもだえたり、うらめしげに嘆いていた。
小さな白い雲がいくつか、ものすごい速さで私のそばを過ぎっていった。
あいつは、もうなきがらで、風に遊ばれているだけかもしれない。
あの、次の雲の群がやってくるまで、もつのだろうか。
ふぁふぁと幽体が一つ、機体からちぎれてきた。
小さくて純粋。
鼻や喉に涙詰まらせ、わめいていた子らの一人だろうか。
なぐさめてあげようと近づいた。
泣かなくてもいいんだよ
これからみんなで逝くんだから
心配はいらないよ
だれだっていつかはこうなるのさ
おじさんは
会社のお仕事あったけど
途中だったけどさ
でも
歯車だからね
代わりの部品はたくさんあって
心配はないんだ
少し
さびしいけどね
ちがう
そんなことない
おじさんは歯車じゃないよ
一生懸命働いてきたんでしょ
これからも
もっとがんばってって
みんなが応援してるんでしょ
若い人たちの先生になって
そのあとでも
一生懸命を思い出して
ゆっくりする時間が
ごほうびで待ってる
そうなんでしょう
いいことゆうね
ちいさいのに
お嬢ちゃん
でも
運命ってあるのさ
こうやってあっさりというのも
誰かが受け入れるべき外れくじなんだよ
かわいそうに
ちいさいのにねえ
うちの娘が
あいつがせめて
お嬢ちゃんぐらいの
子供を抱けるときぐらいまで
おれは
おれは
なかないで
おじさん
大丈夫よ
あたしがお祈りする
かみさまと話したこと
あたし
なんどもあるよ
あたし
機長さんにもあった
かっこいいおじさんだった
おかあさん
あたしのことあんなに愛してくれた
おかあさん
ほかの人達も
お友達もみんなも
みんな
こんなに小さくてつまらない
あたしなんかを
愛してくれた
あたしはつまらない子なの
なんにもまともにできない
わざとわがまま言って
いじわるで
迷惑ばかりかけて
死んでもいいのは
あたしみたいな子よ
あたしの命をあげる
だから
みんなをたすけて
かみさまあ
ふふ
うふふ
まだ死ぬってことがわからないんだろうな
前へ前へってことしかないんだろうな
お嬢ちゃん
神様はいないんだよ
もしいるとして私たちを見張っているとしたら
それは死に神さ
二百人以上の命が目の前にあるんだから
お嬢ちゃん一人がささげますって言っても無理さ
きっとわらってるよ
小さいけど
命をあげます
かわりに
たすけてあげて
ねえ
かみさま
ねえ
みんなみんな
もっと生きたいのよう
衝撃があって、私は、修羅場に引き戻されていた。
女たちの髪は炎となって浮き上がっていた。
固定されていない雑誌、小物、破片が無数に漂いだしていた。
いつか古寺で耳にした、声明が、聞こえる。
墜ちているのだ。
※
それから何年も経ったような、一時間程度あとのことだった。
草の中をのろのろと歩いていた婦人に追いつくと話しかけた。
「どうやら、誰も犠牲者はいないようですね」
「ええ、大丈夫だったようです。一時はどうなるかと思いましたわ」
「ほんとに、よかったですね、・・・」
婦人は、疲れてうるんだ目を少しのあいだ閉じた。
「・・・ただ、小さい女の子が」
「・・えっ・・ 着陸は、そりゃ普通ではなかったが、あれぐらいで」
「大勢で最初に運び出されていきました。亡くなってはいないようでしたが」
「怪我をしたんですか」
「心臓がお悪かったみたい。というか、移植手術を受けるためだったようですよ。・・・普通のからだではなかったから。かわいそうに」
唾を飲み込もうとした。
背たかい草の穂が、揺れながら私の前でわらった。
「いきてるんでしょう」
「ううん、そうお祈りしますけど、私には詳しくは」
死んじゃいけない
あの子は、死んじゃいけない
うつむいて、まわりに聞こえるほど歯ぎしりして、歩いた。
建物にはいる前、神様だか死に神だかをどやしつけたくて、私は、煙にくすむ夏の青空をにらみあげた。
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